結城城の歴史

小山城の小山下野大掾政光の四男朝光が、治承四年(1180)年十月二日、十四歳の時に、源頼朝の乳母寒河尼とともに武蔵隅田宿で頼朝の陣所を訪れ、頼朝を烏帽子親として元服し御家人となり、養和元(1181)年に志田義広の乱鎮圧の功により、下総結城郡の地頭職に任ぜられ、結城氏を称して居館を構えた。

永享十(1438)年、関東公方・足利持氏と関東管領・上杉憲実が対立、上杉勢は上州平井城に籠り、持氏は武蔵高安寺に出陣した。持氏と対立する室町幕府六代将軍・足利義教は信濃守護・小笠原正康、駿河守護・今川範忠、甲斐守護・武田信重らの大軍を派兵し上杉勢を援護し、小田原付近の合戦で持氏勢は大敗、鎌倉に逃れ、金沢称名寺に入るがのちに永安寺に移り出家・謹慎した。上杉憲実は主を討つのに忍びなく幕府に持氏の助命を嘆願したが、将軍義教の命で翌永享十一(1439)年二月、上杉持朝、千葉胤直らが永安寺を攻撃、持氏と嫡子義久は自刃した。

この時、持氏の次男・春王丸(十三歳)、三男安王丸(十歳)、四男永寿王丸(三歳)は鎌倉を逃れ、春王丸・安王丸は日光二荒山の社僧行道に、永寿王丸は信濃の大井三郎持光に匿われた。幕府はこの遺児を探索し、小笠原康政を追っ手として二荒山に差し向けた。行道らの機転でふたりの遺児は難を逃れたが、行道は結城城の結城氏朝に使者を出し、遺児の庇護を求めた。

結城城内ではふたりの遺児の処遇を巡って評定が行われたが、その間に遺児は結城城に入り、結局氏朝・持朝父子に押し切られる形で遺児たちを奉じることとなった。その後、四男永寿王丸も合流した。古河城の野田氏行、関宿城の下河辺氏らも結城城に呼応して挙兵した。

こうした事態に将軍・足利義教は前関東管領・上杉憲実に征討軍の総大将を命じ、憲実は弟で関東管領の上杉清方、扇谷上杉持朝らに命じて永享十二(1440)年四月武蔵・上野・信濃の諸将を率いて結城城を囲んだ。

幕府追討軍十万は結城城と、結城城に呼応した古河城関宿城を包囲して攻め立てた。九月には古河城関宿城がまず陥落したが、結城城の兵一万は善戦し、なかなか陥落しなかった。十二月に氏朝の弟、山内兵部大輔氏義が変心して単独投降したが、城兵の結束は乱れず年を越した。翌嘉吉元(1441)年四月、寄せ手の間者が城内に火を放つと同時に一斉に攻撃に移り、氏朝・持朝父子は女子供にまぎれて春王丸・安王丸を落とそうと画策したが失敗、城外で春王丸・安王丸は捕らえられた。氏朝・持朝父子は残った城兵700を率いて奮戦の後、一族14名は城外の桟敷塚で自刃し、結城城も陥落した(結城合戦)。

結城城陥落の際に氏朝の末子、七郎は家老の多賀谷氏家に抱かれて脱出、佐竹義憲に庇護された。また持氏の遺児らは京に護送され、春王丸・安王丸は美濃垂井で義教の命により斬られたが、永寿王丸の沙汰を待つ間に義教は赤松満祐に暗殺され(嘉吉の乱)、ウヤムヤのまま一命を助けられた。文安四(1447)年、北関東諸将の要請に応える形で越後守護・上杉房定が斡旋し、永寿王丸を奉じて鎌倉府復興を幕府に願い出て許され、鎌倉公方・足利成氏として復活した。この時結城七郎は結城合戦での一族の功を成氏に認められ、中務大輔成朝の名を与えられ結城氏は再興した。成氏は関東管領の上杉憲忠と対立、宝徳二(1450)年の江ノ島合戦を経て享禄三(1454)年十二月、結城成朝、武田右馬守信長、里見民部少輔義実、印東式部少輔、岩松持国らが鎌倉西御門の上杉憲忠邸を襲撃し、金子(多賀谷)高経が憲忠の首級を挙げたことで「享徳の大乱」が勃発した。成氏勢は武蔵府中の高安寺を本陣に上杉勢と対峙、武蔵分倍河原合戦で勝利し上杉勢を常陸小栗城に追い落としたが、幕府の命を受けた駿河守護の今川範忠が鎌倉を制圧したため、成氏は康正元(1455)年、古河に本拠を移し、これ以降「古河公方」と呼ばれた。成氏が最初に移り住んだのは鴻巣の御所で、のちに長禄元(1457)年頃、下河辺氏の居館であった古河城を改修して移った。

結城成朝は古河公方・足利成氏とともに闘い戦功を挙げたが、寛正三(1462)年十二月二十九日、結城城内で成朝の勢威を恐れた重臣の多賀谷高経により殺害された。成朝の子・氏広も古河公方に従い、上杉勢および幕府が派遣した堀越公方・足利政知と対抗、文明三(1471)年三月には伊豆堀越御所の襲撃に参陣するが大敗し、成氏は古河城に籠城したが、長尾景信に攻め陥とされて千葉氏を頼り下総本佐倉城に避難、翌文明四(1472)年二月に結城氏広、烏山城主の那須資持らによって古河城を奪還した。氏広の子、政朝は多賀谷高経(祥賀)の孫、多賀谷和泉守(二代目祥賀)の専横を憎み、明応八(1499)年、下妻城主・多賀谷家稙と謀って多賀谷和泉守の居館を急襲し誅殺した。これで結城四天王と呼ばれた下妻城主・多賀谷氏、山川城主・山川氏、下館城主・水谷氏、岩松城主・岩松氏らと改めて結束した。結城政朝は佐竹義舜に攻められた宇都宮城主・宇都宮忠綱を援護するために永正十一(1514)年八月に出兵したが、その後宇都宮忠綱は政朝を疎んずるようになり、政朝は猿山ヶ原で宇都宮軍と闘い、忠綱は鹿沼城に逃れた。

天文三(1534)年、下妻城の多賀谷家重は常陸小田城の小田政治と通牒し結城家からの独立を画策したため、結城政朝の子、政勝は山川城主・山川尾張守らに多賀谷家重討伐を命じたが多賀谷勢の抵抗で失敗、結城・多賀谷は敵対した。天文六(1537)年一月、多賀谷・小田連合軍は結城城を攻撃、結城政勝は古河城の足利晴氏(古河公方)、弟で下野祇園城主の小山高朝らの援軍を得て反撃、多賀谷・小田勢の首級三百を挙げて下妻城に押し寄せたが、水谷治持の取り成しで多賀谷家重の甥の安芸守朝重を人質に差し出すことで和睦した。

政勝は天文八(1539)年には宇都宮俊綱を攻めて領内を荒らし、また武蔵吉見城で古河公方足利晴氏に敵対する大串左衛門入道武成・重義父子を攻撃し自刃させ、また同年十月には那須政資・高資父子と宇都宮の連合軍が結城城を襲ったがこれも撃退、また家老の水谷正村と多賀谷家重の内紛調停などでその手腕を発揮した。天文十六(1547)年には父・政朝の喪を狙って弟の小山高朝の居城・祇園城を包囲した宇都宮俊綱と闘い押し返した。天文十七(1548)年、下館城主・水谷治持は真壁城主・真壁氏幹を誘い結城勢と同盟、下妻城の多賀谷重政を攻めた。重政は結城政勝に降伏を願い出て許された。

弘治元(1555)年、政勝は伊勢参内の後、小田原城に立ち寄って北条氏康に誼を通じたが、留守を狙って常陸小田城の小田氏治が結城領内に侵攻する意図を見せた。翌弘治二(1556)年四月、政勝は結城城下館城主・水谷正村、山川城主・山川讃岐守氏重、岩上但馬守、多賀谷安芸守政広らの重臣を参集、小山高朝は榎本大隈守高満、古河公方足利晴氏も配下の関宿城主・梁田晴助らを派兵、北条氏康も太田康資、遠山丹波守、富永三郎左衛門らの江戸城在番衆に岩槻城主の太田資正を軍監に加えて結城城に結集、三千騎で小田領海老ヶ島城を包囲、城将の平塚長春らを討ち取った。小田氏治は急遽出陣し、山王堂で激戦となったが、結城連合軍は小田勢の首級四百八十五を挙げ、小田氏治は本拠の小田城も陥とされて家臣の菅谷氏居城の土浦城に撤退した(第一次山王堂合戦)。この年、政勝は分国法である「結城氏新法度」百四ヶ条(のち二条追加)を制定し領国内の統制を堅固なものとしたが、永禄二(1559)年に急死した。政勝の子・明朝も夭折し、結城氏は小山高朝の次男・晴朝が相続した。九月六日、小田氏治は政勝急死の報を得て結城城を攻撃したが、城内にいた小山高朝が防戦、水谷治持、真壁氏幹らの援軍で小田軍百六十三の首級を挙げた。結城氏を相続した晴朝は政勝の喪の明けるのを待って報復、常陸北条城を攻め城将の手塚自省を自刃させた。

永禄三(1560)年一月七日、結城晴朝が関宿城に在城する古河公方・足利義氏のもとに年賀拝礼に出かけた留守に下妻城主の多賀谷政経が離反、小田氏治・佐竹義昭・宇都宮広綱ら反北条陣営が結城城を攻撃、落城寸前に古河公方の調停で和睦した。この年九月、越後春日山城主、長尾景虎(上杉謙信)が関東に出陣、小山高朝、山川氏重、多賀谷政広、水谷勝俊ら結城氏の近親・重臣も相次いで上杉軍に参じた。

永禄六(1563)年の謙信の関東出陣の際に、謙信は北条に寝返った小山秀綱を祇園城に攻め、晴朝は祇園城に援軍を派遣したが、小山秀綱は降伏開城、謙信は晴朝の籠る結城城を攻めようとしたが小山秀綱の助命嘆願で許され、上杉軍に下った。しかし永禄七(1564)年四月、謙信が越後に帰陣すると北条氏政は二万の兵を率いて古河城に入り、小山秀綱の籠る祇園城を攻撃、高朝・秀綱父子は城を棄てて逃れ、氏政は祇園城に北条氏照を置いた。氏政はついで結城城を攻撃、晴朝は氏政に降伏した。しかし永禄八(1565)年十二月、謙信が関東に出陣するとまたもや上杉に奔り、さらに謙信が帰陣すると北条に奔った。

天正二(1574)年、北条氏政は結城晴朝に兄・小山秀綱の籠る祇園城を攻撃させ、降伏させた。しかし晴朝は密かに上杉勢に誼を通じ、宇都宮・佐竹勢に同盟を求め、宇都宮広綱の次男を養子として向い入れ、結城七郎朝勝と名乗らせた。

天正十八(1590)年、豊臣秀吉が小田原城を包囲すべく関東に侵攻した際に、結城晴朝は秀吉に誼を通じ、北条氏照配下の祇園城榎本城を攻め落城させたが、どさくさにまぎれて宇都宮領にも侵攻、鹿沼・壬生などを横領した。晴朝は石垣山城に秀吉を訪れ、北条氏滅亡後、奥州討伐に下向する秀吉を結城城で饗応、養子の斡旋を嘆願し、家康次男で秀吉の養子に入っていた秀康を養子に向い入れ、宇都宮氏からの養子朝勝を廃嫡として宇都宮に送り返した。八月六日に早くも秀康は結城城に入り、秀吉から宇都宮領横領分を含む十万一千石を安堵された。慶長六(1601)年、結城秀康は関ヶ原の役での戦功により越前福井城に転封、一時結城城は廃城となったが、元禄十三(1700)年、水野勝長によって再興され、明治の廃藩置県に至るまで水野家の居城となった。

 

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