名族千葉氏も戦国期の後半になると、内紛や一族の家臣の自立などで著しく衰退し、天正年間の後半は北条氏の直接支配に近い状態までなっていました。しかし、さすが名族だけあって、その居城であるこの本佐倉城は実に壮大です。主郭である「城山」付近の堀切や「セッタイ(セッテイ)山」などの周囲の空堀は規模、構造とも実に見事です。当初は北条氏による改修と思いましたが、北条氏に見られる直線的な縄張りが少ないことと、北条氏が直接支配を強化してからはむしろ鹿島台の新城(佐倉城)の築城の方に重点が置かれたと思いますので、北条氏の影響を受けつつも、やはり千葉氏独自の築城コンセプトが反映された結果と見るべきなのでしょう。千葉氏の一族の城館を見ると、城の規模や重要性と関係なく、どのお城も必要以上とも思えるほど雄大な空堀や大規模な土塁などが見られますので、遺構の規模だけで北条氏の直接的な関与を示すことにはならないでしょう。まして本拠であるこの本佐倉城は、ひとつひとつの遺構の規模や周囲にめぐらされた初期の惣構え的なコンセプトを感じる縄張り構造など、千葉氏系城郭のある種の頂点を示すものでしょう。ただこの「惣構え」的発想や、その一部をなす荒上の出枡形状の土塁と堀、向根古屋城の馬出し状構造物などは北条氏の直接的な影響を感じれるところです。「セッタイ」についても、本来の本佐倉城は「城山」「奥ノ院」「倉跡」あたりまでと推測されますので、戦国後期の構造物と見ていいのかもしれません。
築城時期ははっきりとはわかりません。平将門伝説もあり、「将門山城」とも呼ばれていますが、これはあくまでも伝説でしょう。千葉氏との関連で言えば、前述の千葉氏の内訌の直後に馬加康胤が築城したと言う説、あるいは孫に当たる千葉輔胤が築いたという説などがあります。しかし馬加康胤は内訌の翌年に当たる康正二(1456)年に幕府追討軍の東常縁によって滅ぼされており、康胤が築いた、というのは少々無理がある気がします。一応ここでは輔胤築城説を採りました。輔胤は馬加康胤の孫と言われ(異説あり)、庶家の岩橋家を嗣いで岩橋城に在城していましたが、康胤の子、胤持が早世したこともあり、千葉氏を嗣ぐことになったようですが、「千葉介」を名乗ったかどうかはわかりません。しかし、古河公方・足利成氏から見れば頼りになる味方勢力であったようで、文明三(1471)年には主力の一翼として堀越公方・足利政知攻撃に従軍しています。この時、古河公方軍は大敗し、成氏は古河城に逃げ帰り籠城しますが、勢いに乗る上杉氏の武将、長尾景信により古河城が陥落、成氏は輔胤を頼って佐倉に逃れた、と言われます。岩橋城はとても公方を迎え入れるような城とは思えないため、成氏を迎えたのがこの本佐倉城であるとすれば、文明三(1471)年には少なくとも築城されていたことになります。
かつての印旛沼は干拓により遠くはなれ、湿地帯は農地と化しましたが、低湿地に面した舌状台地に築かれた地形は伺えます。平成十(1998)年に、国指定史跡に指定されました。僕が見学に行った日も、地元ボランティアが倒木撤去、倒れかけた木の伐採、下草刈などを行っていました。史跡というのは、こういった熱心な地元の住民によって支えられていることを実感しました。次に見に行くときには、きっともっと整備されていることでしょう。甘美な中世城郭の世界をあなたも味わってみてください。
【再訪:2002.12.09】
前回見ていなかった「荒上」、「向根古屋城」を見学しに行ってきました。「荒上」は家臣団の屋敷地であり、本佐倉城の外郭、あるいは初期の惣構え的な防御ラインにあたります。道路沿いに堀の痕跡があるのは前回気づきましたが、縄張り図を見ると大きな土塁と堀があるようなので、覗いてきました。荒上一帯は畑になっていますので見学は注意を要しますが、土塁は下草が刈られて見やすくなっていました。堀は藪化しているものの、深いところで10m近くあり、横矢や出枡形などもあって非常に見ごたえがあります。「向根古屋城」は本佐倉城から谷津(池跡)を挟んだ対岸わずか100mほどの台地にあり、主要部は畑になっているもののやはり大規模な堀や相横矢の小口などが残り、こちらも見ごたえがあります。本佐倉城の主要部である「城山」「奥の院」(一郭・二郭)は古い時代の築城法が見てとれますが、この向根古屋城や荒上、「セッタイ山」などは後に拡張された部分であると思われ、その分戦国後期の大規模な仕掛けが堪能できるかと思います。セッタイ山に関しては、台地続きとの分断のための突角陣地とも考えられ、「馬出し」というものが一般化する直前の発想が感じられるところです。
この他、本佐倉城周囲には重臣の屋敷跡と目される場所や、惣構えの堀などに相当する遺跡が何箇所かあるようですが、いずれも場所がわからず、現況がそのようになっているかもわかりません。
前回の見学は天候はよかったものの、日差しが強すぎて写真の出来がイマイチでした。今回は曇り空だったので期待したのですが、生憎小雨が降り出したため、光量不足かつすべての遺構を回ることができませんでした。そのうちにもう一度、見学してこようと思います。
<本佐倉城の概念図(現地解説板より)。>
「トウコウジビョウ」「荒上」「セッタイ(セッテイ)」など、語源不明の名称がついています。根古屋、「向根古屋」(出城)を含めると、とてつもない広大さ。