北条五代百年を支えた大城郭 

小田原城

おだわらじょう Odawara-Jo

別名:

神奈川県小田原市城内

城の種別 平山城(丘城)

築城時期

鎌倉時代初期

築城者

土肥氏

主要城主

大森氏、北条氏、大久保氏 他

遺構

曲輪、石垣、土塁、空堀、大堀切、復原天守他

復原天守<<2001年9月1日>>

歴史

治承四(1180)年の源頼朝挙兵時に戦功のあった、伊豆の土肥実平の子、小早川遠平が小峰山に居を構えたのが始まりといわれるが確かなことは不明。

応永二十三(1416)年の上杉禅秀の乱で土肥氏が失脚後は、駿河の大森頼春に土肥氏の遺領が与えられ、小田原城が大森氏の代々の居城となった。

明応四(1495)年、伊豆韮山城を居城としていた伊勢宗瑞(北条早雲)は小田原城の大森藤頼に対し「小田原周辺で鹿追いをしたい」旨を申し入れ、その承諾を得た。宗瑞は鹿追いを装い韮山を出兵、「火牛の計」という奇策を用いて夜間に小田原城を急襲しこれを奪取、宗瑞は伊豆韮山城を居城とし、弟の弥次郎に小田原城を預けたが、弥次郎は明応五(1496)年七月に山内上杉顕定の逆襲で戦死している。宗瑞は永正九(1512)年八月、三浦道寸入道義同の岡崎城を急襲、義同は相模新井城で抵抗するが永正十三(1516)年七月、新井城は陥落し、道寸は自刃、三浦氏は滅亡し、宗瑞は相模一国を手にした。その後、宗瑞の子・氏綱が小田原城を居城とした。氏綱は伊勢姓から北条へ改姓し、以後氏康・氏政・氏直まで代々小田原城が北条氏の居城となった。

永禄四(1561)年三月には上杉謙信が関東管領就任に際し小田原城を十万といわれる大軍で包囲、小田原城主・北条氏康は籠城策を採り、三月十三日より約一ヶ月の攻囲戦ののち、上杉軍を退けている。また、「甲相駿三国同盟」が破棄された後の永禄十二(1969)年十月一日には武田信玄の三万の軍に囲まれたが、この時も三日間の戦闘の後、信玄は軍を退き、いずれも退けている。この頃、氏康は三ノ丸の外郭工事を行っている。

天正十五(1587)年十二月三日、関白豊臣秀吉は関東・奥州の大名に「惣無事令」を発し、北条氏への圧力を加えると、小田原城主・北条氏政、氏直父子は翌天正十六(1588)年八月に氏規を上洛させ秀吉の臣下となったが、沼田城名胡桃城の所属を廻って紛糾した。天正十七(1589)年十月、沼田城代・猪俣邦憲による名胡桃城奪取事件が勃発、十一月二十四日、秀吉は北条氏直に対し宣戦布告し、翌天正十八(1590)年三月一日、秀吉も京都を進発し二十七日に沼津に着陣した。この間、北条氏は小田原城周囲に壮大な「惣構え」を構築し、現在の小田原市主要部を包み込む、延長20kmにも及ぶ塁を構えた。北条氏政・氏直父子は小田原城に三ヶ月の籠城を行うが、支城網を陥とされた上、城内にも内通者が続発、六月七日、南方一里に満たない笠懸山に陣城「石垣山一夜城」の築城を受け、七月五日に降伏開城、七月十一日、北条氏政と八王子城主で弟の氏照、重臣の松井田城主・大道寺政繁、松田憲秀の四名が切腹、当主氏直は高野山に蟄居し小田原北条氏は事実上滅亡した。

徳川家康の江戸入封後は規模を三ノ丸周囲に縮小されて大久保忠世・忠隣の居城となったが慶長十九(1614)年、大久保長安事件の波紋と本多氏との確執の中で謀叛の濡れ衣を着せられ改易となり、その後は阿部氏・稲葉氏・ふたたび大久保氏が城主となり廃藩置県を向かえた。北条氏時代の本丸は現在の城址の北西、八幡山にあった。また、元禄十六(1703)年の大地震で天守崩壊などの大きな被害を受けたほか、廃城後の大正十二(1923)年の関東大震災では残っていた石垣が崩壊するなどの大きな被害を受けている。

小田原駅のすぐ近く、箱根から関東への入り口を守る小田原城は「埋もれた古城」ではなく、超有名城と言っていいでしょう。天守を中心に、城内は多くの観光客で賑っています。

が、しかし!北条五代の小田原城はこんなもんじゃなかった!現在の小田原市中心部をほぼスッポリ包んでしまう、周囲20kmにも及ぶ総構えを持ち、武田信玄、上杉謙信といった名将たちの攻撃にも耐えた、大城郭でありました。現在観光地になっている小田原城は、家康の関東入封後、大久保氏によって再建されたもので、北条氏の時代はこの数十倍の規模を持つ、信じられないくらいの巨大城郭だったのです。そもそも小田原駅だって、城内の一部だし。

小田原北条氏は五代百年に渡ってこの小田原城を居城とし、関八州を麾下に収めるべく戦につづく戦を行っています。こうした「闘う戦国大名」としての側面のほかに、先進的な行政手腕を持っていたことも特徴でしょう。すべてを挙げるわけにはとてもとてもいきませんが、例えばそれは「衆」と呼ばれる家臣団の編成と軍事管轄制度であったり、城下町の整備や振興策であったり、公平かつシンプルな税制・土地制度であったりします。一般に「北条五代」とひとくくりで見られがちですが、早雲、氏綱、氏康はいずれも劣らぬ名将・名政治家でした。「暗愚」「凡愚」といわれることの多い氏政だって、領土的には最大領土を実現しているし、他の戦国大名に比べて、そんなに暗愚であるようには思えません。若くして北条五代の幕引き役を演じることとなった氏直についてはなんともいえませんが、とにかく「ハズレなし」の家系ではなかったかと思います。当主クラスだけでなく、ざっと名を挙げても、幻庵、氏照、氏邦などの一門はみな、並以上の将器だと思いますし。なかには「小田原評定」や「秀吉政権への対応の誤り」などを持ち出して、北条氏の時勢の読みの甘さを指摘する声もありますが、基本的に北条氏の「関八州独立国」的な構想は、秀吉らの西国的価値観とはもともとの思想・発想が違うものであり、北条氏に対するこの点での批判は結果論に過ぎない、という気もします。北条氏の先進的な思想や行政手腕、築城コンセプトや都市計画コンセプトは、その後の近世における江戸幕府が、そっくりオイシイところを真似ているように見えるのは気のせいではないでしょう?

近世小田原城は、丘陵上に小ぢんまりとまとまった、典型的な近世平山城。小一時間で見学できるくらいのお手軽な城ですが、小田原城惣構えを見るとなるとこれは大変。半日は覚悟しなくちゃいけません。そういう僕は前日から車中泊で待機、朝6時から見学を開始して、ひととおり見終わったのは午後2時ころでした。とくに御鐘台の大堀切は中世小田原城のダイナミックさを感じさせてくれる、素晴らしい遺構です。ぜひゆっくり見て欲しい城ですね。

 

小田原城めぐり1:近世小田原城  小田原城めぐり2:中世小田原城

 

 

交通アクセス

JR東海道新幹線・東海道線、小田急線、箱根鉄道線「小田原駅」徒歩10分

小田原厚木有料道路「荻窪」IC車10分、西湘バイパス「小田原」IC車15分。

周辺地情報

石垣山一夜城はセットで見学。また関東の主だった城のほとんどは小田原城の支城として機能していました。お近くに城があったら調べてみるといいでしょう。

関連サイト

 

 
参考文献 「日本城郭大系」(新人物往来社)、「戦国関東名将列伝」(島遼伍/随想舎)、「真説戦国北条五代」(学研「戦国群像シリーズ」)、「関東三国志」(学研「戦国群像シリーズ」)、「小田原合戦」 (下山治久/角川選書)、「歴史と旅1988.2月号」(秋田書店)、現地配布資料、現地解説板、および現地ボランティアガイドほか

参考サイト

北条五代の部屋北条早雲公園を創る市民の会

 

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