一般に戦国時代、といえば「応仁の乱」以降を指す場合が多いのですが、ここ関東では中央政界よりも一足先に戦乱の時代が到来していました。室町時代初期には南北朝の対立や、小山義政の乱などもありましたが、関東の戦乱時代の重要なファクターである「関東公方と関東管領上杉氏の対立」は、上杉禅秀の乱あたりから顕著になり、永享の乱で足利持氏が自刃したことにより、一時関東公方は途絶します。しかし、持氏の三人の遺児を奉じて挙兵した人物がいました。下総結城城主、結城氏朝・持朝父子です。結城父子は関東諸侯に布令を発し、関東公方の再興を志します。ときの室町将軍は強権的政治で悪名高い足利義教。義教はただちに上杉憲実、上杉清方らに結城氏追討を命じ、駿河守護の今川氏や信濃守護の小笠原氏など、坂東武者総動員、その数十万で結城城を包囲します。しかし結城城は周囲を深い湿田に囲まれて容易に陥ちず、城兵の士気も盛んで幕府軍は大いに苦戦します。結局籠城十ヶ月、最後は城門を開けて討って出た結城父子は討ち死にし、春王丸、安王丸も京に護送の途上で殺害されます。三男の永寿王丸だけは助けられ、のちに古河の御所を本拠に「古河公方」足利成氏となって関東を引っ掻き回すのですがそれは後の話。幕府軍は辛うじて面目を保ちましたが、そのわずか数ヵ月後、将軍義教は「嘉吉の乱」で赤松満祐に討たれ、以後室町幕府は衰退の一途を辿ります。
この「結城合戦」では、幕府十万の追討軍を相手に一年近く籠城戦を続けたこと、籠城軍と追討軍の間に一族が分裂している例(宇都宮氏、小山氏、佐竹氏など)が注目されます。前者は幕府権威の没落を予兆させ、後者は中世的な家督制度、惣領制の崩壊を予感させます。永享の乱で滅んだ足利持氏が目指したものも、単なる幕府への反抗というよりは、自らが将軍権力に取って代わろうとする野心の表れでもあり、「下剋上」そのものの構図です。そういった意味で、上杉禅秀の乱からはじまって永享の乱、この結城合戦、そして後の享徳の大乱は、中央政界に先駆けて中世的権威と支配体制の崩壊、下剋上のはじまりを告げる事件でもあったわけです。
なぜ氏朝は幕府を相手に挙兵したか、そしてなぜ、一年近い籠城をすることができたのか。氏朝がどの程度、関東公方を崇拝していたかはわかりませんが、ここは素直に、自分を頼ってきた者に対する義侠心だと解釈します。そして長期にわたる籠城を行うことができたのは、一族の結束の現れであり、また伝統的な惣領制に不満を抱く各豪族の分家・庶流の不満の高まりの現われでもあったかもしれません。
戦国期の結城氏は政朝、政勝などの英傑も輩出し、基本的には古河公方を支えて北関東に勢威を奮います。その後に、もうひとりの注目すべき人物が出てきます。結城晴朝。この小悪党は、本来であれば小山氏の庶流として生涯を終わるはずの男だったのですが、先代の政勝の死とその嫡子の夭折で、計らずも結城氏を嗣ぐことになりました。しかし、結城氏配下の多賀谷氏や水谷氏も強大化し、周囲は本家筋に当たる小山氏をはじめ、佐竹、宇都宮、小田などの諸氏に囲まれ、なかなか立ち回りが難しい時期に来ていました。そして関東管領山内上杉氏の没落と北条氏の台頭。一時期、晴朝は北条氏の配下に入り、反北条の諸将と戦います。しかし、ここで上杉謙信の関東出陣が始まります。するとこの男、謙信が関東に出てくれば謙信に従い、越後に帰れば北条に寝返る、といった背腹離反を平然と繰り返します。果ては豊臣秀吉による北条討伐の機運が高まるや、すぐさま豊臣に誼を通じ、養子秀康(家康次男、豊臣家へ養子)を迎え入れます。それだけならともかく、宇都宮氏から養子に入れた朝勝を廃嫡し、どさくさまぎれに味方の反北条(つまり親豊臣)諸将(宇都宮氏、壬生氏)などの所領を掠め取り、それを秀吉に所領安堵の朱印状まで貰ってしまいます。火事場泥棒というか節操が無いというか、御家安泰と領土拡張のためには手段を選ばず、って感じですかね。まあこの人に限らず、大勢力の狭間に立たされた小豪族というのは、家名存続のためにはあらゆる手段を用いるのが珍しくないのですが、北関東の諸侯(結城氏や金山城の由良氏、唐沢山城の佐野氏など)はそれが最も極端な形で表れていると思います。しかも、秀康に家督相続後、秀康は越前北ノ庄へ移封となり、「結城」姓を捨てて松平を名乗ります。晩年、晴朝は寺社への願文の中で、「結城へ帰城成就の所祈り奉る者也」と狂ったように繰り返したといいます。梟雄も老いては故郷が恋しくなったか、はたまた世渡りに行き詰まって神頼みとなったか。
さて結城城は、さして比高差も無く急崖でもない台地上にあり、今の目で見ればお世辞にも堅固なものには見えませんが、周囲の水田はかつて深い沼田であり、幕府十万の敵をさんざん悩ませたことでしょう。一部が「城跡公園」になっていて市民の憩いの場になっていますが(誰もいなかったが)、この公園内には目ぼしい遺構はありません。しかし公園の入り口付近には規模の大きい堀跡が横たわり、その堀に沿って住宅地を進んでいくと、竹薮の中に素晴らしい堀が残っていました。台地上はかなり広く、宅地や農地に化けてはいるものの、土塁や堀、土橋、櫓台などの残欠が広範囲に散在していて、規模の大きい城であったことが偲ばれます。台地の周囲にも虎口や土橋、泥田堀などの名残が感じられます。決して見所が多い、という城ではないですが、十万の敵と闘った結城氏朝・持朝父子の決意、自家存続のためになり振り構わなかった無節操戦国大名、結城晴朝の執念を感じに訪れてみるのも悪くないでしょう。