関東管領・山内上杉氏の落日

平井城

ひらいじょう Hirai-Jo

別名:

群馬県藤岡市西平井

城の種別

崖城

築城時期

永享十(1438)年(異説あり)

築城者

上杉憲実(異説あり)

主要城主

山内上杉氏

遺構

曲輪、復元土塁、復元空堀

平井城の模擬土塁<<2001年07月15日>>

歴史

築城は諸説あるが、永享十(1438)勃発した年永享の乱で鎌倉公方・足利持氏と対立した関東管領・山内上杉憲実が総社長尾忠房に命じて築かせたとされる。応仁元(1467)年には上杉顕定によって関東管領府として大改修が行われた。
文明八(1476)年、山内上杉家の家宰職相続をめぐり内紛が発生、長尾景春が鉢形城で挙兵し、翌年に五十子の本陣を襲われて上野那波へ敗走するなど各地で激戦が繰り広げられた。この過程で、分家の扇谷上杉家の家宰、太田道灌が活躍し名声を上げた。扇谷上杉氏の勢力拡大を警戒した顕定は扇谷上杉定正をそそのかし、定正は文明十八(1486)年、相模糟谷の館で道灌を暗殺した。しかしその後、山内上杉氏と扇谷上杉氏は不仲となって、長享元(1487)年十一月、および翌年六月の須賀谷原合戦をはじめ各地で抗争した。明応三(1494)年の高見原合戦では扇谷上杉定正は落馬によって死亡した。永正二(1505)年に扇谷上杉朝良が実質的に降伏する形で和睦、相模から侵攻してきた北条氏と対立した。
永正四年(1507)、顕定の弟で越後守護の上杉房能が守護代長尾為景と対立し敗走中に自刃、顕定は養子、憲房とともに永正六(1509)年越後に出陣、一時為景勢を越中に敗走させたが、翌永正七(1510)年六月二十日、為景の襲撃で長森原で自刃した(長森原合戦)。憲房は平井城へ逃げ帰ったが、顕定の跡目をめぐり古河公方家より養子入りした顕実との内紛が発生、山内上杉氏は分裂抗争した。その後、享禄四(1530)年、上杉憲政が関東管領職についた。
天文十四(1545)年九月から、上杉憲政は扇谷上杉朝定、古河公方足利晴氏ら八万とも言われる軍勢で北条綱成の守備する河越城を包囲したが、天文十五(1546)年四月二十日、北条氏康の奇襲により包囲軍は潰滅、扇谷上杉朝定は討ち死にし、上杉憲政も平井城に逃れた(河越夜戦)。上杉憲政は権威回復のため、箕輪城主の長野業政らの諫言に応じず、天文十六(1547)年佐久に出陣、志賀城を攻める武田晴信(信玄)と小田井原で闘い大敗、関東諸将は上杉憲政を見限って続々と北条に投降・帰参した。
天文二十(1551)年二月、北条氏康は二万の軍勢を率いて平井城攻めのために小田原城を進発、武蔵・上野国境の神流川を挟んで対陣、激戦の末、北条綱成、康成(氏繁)らの活躍で北条が勝利し、憲政は平井城に立て籠った(神流川合戦)。氏康は深追いせずに一旦兵を退き、同年秋に再び平井城に向けて進発した。憲政は翌天文二十一(1552)年二月十日、50名の供を従えて平井城を脱出し、春日山城の長尾景虎を頼り越後に逃れた。平井城には嫡子の龍若丸を残し、後見として目加田新介・長三郎兄弟と九里采女正を配したが、目加田、九里らは氏康に龍若丸を差し出して降伏・開城した。龍若丸は小田原の一色松原海岸で斬られ、目加田、九里らも「不義不忠の逆賊」として磔刑に処された。氏康は叔父の北条幻庵長綱を平井城に置いた。
越後に逃れた憲政は、長尾景虎に上杉の名跡と関東管領職を譲り、平井城の回復を促した。景虎は配下の平子孫三郎、本庄繁長らを関東に進発させ、平井城を奪還、北条幻庵長綱らは一旦武蔵松山城に逃れた。
永禄三(1560)年に関東に出陣した上杉政虎(長尾景虎)は厩橋城を関東における駐屯地として整備し、平井城は廃城とされた。

平井城は、崖上に築かれた平時の城で、有事の際の詰め城としては南西に平井金山城(平井詰城)があります。いまでは静かな住宅と農地になっていますが、上杉氏の全盛時には往時の鎌倉にもひけを取らないほどの繁栄振りであったといいます。失礼ながら、現在の片田舎ぶりからは想像もつかない話です。

しかし上杉憲政、評判悪いですね〜。「酒色に溺れ云々」なんて、ダメ武人の決まり文句で罵られちゃうんですから。このオッサンが北条氏康に追われて越後まで逃げちゃったことで、我が御屋形様、長尾景虎様が泥沼の関東擾乱に巻き込まれるキッカケをつくってしまったわけです。おまけに嫡子を置き去りにしての逃亡ですし。憲政のオッサンがしっかりしていれば、もしかしたら景虎様は上杉なんて名乗ったり関東管領なんていう「腐った鯛」を食べたりしないで済んで、もしかしてひょっとして、信長なんて鎧袖一触で追い払って、京の都でたらふく美酒を呑めたかもしれないのに。まあ、この憲政オッサンがだらしなかったおかげで、我々は関東の歴史とお城を楽しむ(?)ことができるのではありますが。。。こんなだらしないオッサンに最後までお付き合いしたのが長野業政や太田三楽斎資正らの一徹者たち。彼らがいなければ、上杉氏はもっと早く滅亡していたかもしれません。

平井地区はすっかり住宅地、農地となってしまい、城の遺構といえるものはありません。わずかに公園として整備され、土塁等が復元されています。
復原・腰巻土塁と平井金山城(詰城)遠望。 謙信公「奪還・回復」とは言うものの、「廃城」決めたのも謙信公なんだよね(笑)。
二ノ丸跡。いちいち説明するまでもありませんが、ただの畑です。 民家の庭先に立つ三ノ丸跡の標柱。
三ノ丸と総郭の境界線。バックは平井城史探訪会。 平井地区の入り口にある「これより平井城内総郭跡」の標柱。

 

交通アクセス

上信越自動車道「藤岡」IC車15分。

周辺地情報

詰めの城である平井金山城が見どころ一杯。

関連サイト

 

 
参考文献 「日本城郭大系」(新人物往来社)、「真説戦国北条五代」(学研「戦国群像シリーズ」)、「上杉謙信・戦国最強武将破竹の戦略」(学研「戦国群像シリーズ」)、「関東管領・上杉一族」(七宮達三/新人物往来社)、現地解説板

参考サイト

からっ風倶楽部

 

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