榎本城はもともと小山氏の祗園城の支城でしたが、永禄・天正年間頃に激化した北条氏の北関東攻略戦の中で、皆川城主の皆川俊宗によって攻略され、同じく祗園城を攻略した北条氏照の属城となりました。この当時の氏照の本拠は武蔵滝山城でしたが、氏照は関宿合戦などでも方面軍の総大将として活躍し、北関東攻略の中心的な役割を担いました。従って、氏照には八王子周辺を中心とした武蔵西部と、栗橋城・祗園城を中心とした下総・下野方面の、ふたつの本拠地を持っていたことになります。
榎本城は祗園城の西北にあたり、いわば反北条勢力に最も近い「境目の城」の役割を負うことになります。ここに氏照の信任を得て入城したのは近藤大隈守、出羽守綱秀でした。近藤氏の出自は調べてみましたがわかりませんでした。しかし、この地の豪族ではなく、北条氏照に従って滝山城に入った北条氏の譜代家臣か、あるいは氏照が滝山城主となったときに氏照の元に帰服した武蔵の豪族、あるいは大石氏の家臣団だったかもしれません。いずれにしても近藤綱秀は氏照の家老格で、信任篤い人物であったようです。氏照の外交面での折衝役も務めていたようで、天正十三(1585)年には伊達政宗股肱の臣である片倉氏との交渉パイプなども握っており、また氏照からは特に赦されて「天福」という印判を用い、一門並みの決裁権・行政権が与えられるなど、特別な存在であったそうです。
そんな綱秀は「小田原の役」に際し、自らの居城である榎本城を守備することもなく、主君氏照の代理として、八王子城に入城します。外交に長けていたという綱秀のことですから、豊臣軍がどれほど大軍であるか、榎本城を後にする綱秀は知っていたでしょう。それでも主君氏照の留守を務め上げるべく、悲壮な覚悟で榎本城を発ったことでしょう。八王子城での綱秀の持ち場は山麓の「アシダ曲輪」「山下曲輪」でした。当然、押し寄せる豊臣軍北国隊の真正面を受けて立つ形となり、激しい戦闘の後、綱秀は討ち死にします。八王子城の戦闘において、最初の将校クラスの犠牲者でした。
主を失った榎本城は結城晴朝に攻略され、結城領に併呑されます。後に残った家臣たちがどれくらいいたのか、どんな戦闘があったのか、などは分かりませんが、おそらく百人から二百人くらい、城兵は主が不在の中、ある者は討ち死にし、ある者は城を棄てて逃れて行く、そんな感じじゃなかったかと想像します。いずれにせよ、敬愛する氏照のためとはいえ、家臣や家族を見殺しにし、自らの城を守ることもできずに八王子城で果てた綱秀は無念というか、悲壮な気持ちで死に臨んだことでしょう。
榎本城は榎本集落付近の田んぼの中の西側に位置しており、現在給水用の鉄塔が建つあたりの北側から集落の中央付近まで、往時は東西613m、南北396mにも及ぶ壮大な平城だったそうです。しかし現在では耕地整理によって遺構はほとんど消滅してしまいました。現在残っているのは、田んぼの中に前述の給水塔北側の土塁の一部があるのと、榎本集落と真弓集落の境目附近の城址碑周辺に数十mの堀が残っている程度です。前述の土塁のそばで農作業をしていたオバチャンに「榎本城はここですか?」と聞いてみたところ、「ここだよ、ここ」という答えが返ってきましたので、遺構がほとんど消滅した今でも地元ではきちんと知られているようです。そのオバチャンによれば、耕地整理前は高い土塁が附近の永野川の方まで延々と連なっていた、とのこと。ああ、惜しいことをしたものよ・・・。