ついにここに来ました。感動・・・!
長尾景虎、のちの上杉謙信はこの春日山城で生まれ、生涯ここを本拠としました。しかし、春日山城での防衛戦はありません。ここを舞台とした防衛戦は父・為景の時代、そして謙信死後の相続争いとなった「御館の乱」時のみです。なぜ謙信は春日山城を攻められなかったのか、もっと言えば、謙信には籠城戦が全くといっていいほどないのはなぜか。ここに謙信の軍略、というか戦術観が見えてきます。つまり、信長や信玄と同じく、謙信にとっての戦とは、城に籠って迎え撃つのではなく、敵地に踏み込んで行うものだったということではないでしょうか。戦国期の主役級はほとんどすべて、この「敵地に討って出る」ことを実践していました。ただ謙信には領土欲というものがなく、あくまで庇護すべき対象がいる(信玄に信濃を追われた村上氏らや北条氏に関東を追われた上杉憲政など)、あるいは叛旗を翻すものがいる、などの理由によるところが特徴でしょう。まあそれ以前に謙信存命中は、どの敵もみな近づくことが出来なかった、という方が正確かもしれません。
勝手な想像ですが、謙信が上杉の名跡を嗣ぐことなく、長尾景虎のままで生涯を終えたとしたら、きっと無益な十数度の関東出兵もなく、大軍を引き連れての晴れの上洛(実は二回も上洛しているが)を果たしていたことでしょう。信玄とは激しく戦ったかもしれませんが、きっと信長などは鎧袖一触に蹴散らしたに違いありません。あのとき上杉憲政が転がり込んでこなかったら・・・・歴史が動いた瞬間だったかもしれません。
春日山城は標高189mの「蜂ヶ峰」に築かれた一大要塞で、「中世五大山城」のひとつにも数えられています。縄張りはほぼ全山に及んでいますが、堀切や腰曲輪を主体とした縄張りで、技法そのものに目新しさはありません。1.2kmに及ぶ惣構えの「監物堀」などもありますが、こちらは堀氏が入封してからのものです。はじめて見学したとき(2001年4月30日)は、「俺は今、あの春日山城に居るのだ!」という興奮で、お城としての遺構そのものはあまり細かく覚えていなかったのですが、今回(2004年5月2日)、お城めぐり仲間多数と二度目に訪れてみて、なんとなく全体像が掴めたような気がします。詳しくは「春日山城の考察」をご覧下され。
見学にあたっては、かなり広大なお城なので数時間はかかるでしょう。一回目も二回目も五時間を超える時間をかけて回りました。コースは春日山神社裏手から登るコースもありますが、ここはやはり「大手道」を通ってみましょう。これが本当に大手道なのかどうかは別途考察するとして、このコースはなかなか距離が長く、「南三ノ丸」「柿崎和泉守屋敷」「上杉景勝屋敷」「大井戸」などを経て、ダラダラっといつの間にか本丸まで着いてしまうルートです。「御成街道」とも呼ばれ、謙信らが歩いた道でもあります。実は二度目の訪問時には、柿崎屋敷からちょっと道を逸れて、堀切が連続する南側の尾根筋なども歩いてみました。コアな城郭ファンにはこちらもお薦めです。あまり整備はされていませんが、一応道もあります。
細かい遺構の状況は次の項目に譲るとして、まあとにかく本丸からの山河のパノラマをぜひ見て欲しいものです。これぞ謙信が見た景色、なのですから。
【春日山城の考察】
春日山城は新潟県下で最も有名な城郭であり、全国的にも相当に知名度の高い城郭である。いまさら「構造」だの「考察」だのというのは口幅ったいというか、畏れ多い気もするが、いくつか気づいた点もあるので記載してみる。とくに後半の「大手道」については通説の解釈に疑問がなくもないので多少念入りに考察してみる。
春日山城は妙高山地から連なる山塊の北端に近い尾根の先端「蜂ヶ峰」をほぼ全山にわたって城砦化し、さらに近接して多くの支城、砦に囲まれている。標高は189m、麓からの比高は150m程度で、高さとしても地形としてもさほど天嶮の地でもないが、侵食谷を取り込んだ自然地形を巧みに利用して、さらに大掛かりな工事を施すことによって、山全体を要塞化している。また、遠目では連山の一角に過ぎないように見えるが、実は背後の狭い尾根続き以外はほぼ独立した山である。
春日山城は城域が広い上に削平地の数が多く、一見まとまりのない、茫洋とした印象のある縄張りであるが、今回改めて歩いてみて、また鳥瞰図を描いてみると、意外にも主尾根を軸とした、ごく普通の山城とそれほど変わらない基本構造であることが読み取れた。特に、T、U曲輪や「直江屋敷」(V)「景勝屋敷」(Y)などは峰上に綺麗に並んで配置されており、この部分がこの城の「背骨」にあたることがよくわかる。春日山城の全体像が分かりにくいのはむしろ根古屋地区や家臣団屋敷などに相当する「南三ノ丸」(\)や「柿崎屋敷」([)、春日山神社周辺(Z)の削平地を前述の峰上の遺構と同列に扱ってしまっているからで、山の中腹以上とそれ以下のレベルで見ると、割と一般的な山城の要害部と根古屋地区の関係を持っていることが明白となる。ただ、通称「大手道」、または春日山神社裏手の搦手道とも、ダラダラっと登っているのでその境目が明確でないだけである。さらに、各曲輪に明瞭な堀切などの区画がほとんど無いため、一見メリハリの無い構造に見えてしまうのである。
主要部は「実城」と呼ばれる区画で、最高所のT曲輪が主郭である。この主郭は浅い堀切8によってTa、Tbに分かれていて、Tbは天守閣跡であるとも云われるが、長尾(上杉氏)時代、あるいはその後の堀氏の時代も、天守閣と呼べるようなものは造営されなかったと思う。ただ、象徴的な建物はあったかもしれない。
北に繋がるU曲輪附近は一段高い毘沙門堂跡、また諏訪堂、釈迦堂など、仏堂が立ち並んでいたという。さながら宗教区域といったところであろうか。実質的には二ノ丸にあたる場所でもある。なお現在の再建された毘沙門堂は本来の位置ではなく、「不識院」跡に隣接して建てられている。V曲輪群は、最上段が「お花畑」、その下三段は「直江屋敷」とされる。お花畑とは典雅な名前であるが、医療用の薬草園であろう。もしかしたら謙信の二日酔い対策の薬草なども栽培されていたかもしれない。直江屋敷は直江山城守兼続の屋敷だという。兼続は本名を樋口与六といい、景勝の時代に直江氏を嗣いだ。従ってここに兼続がいたとすれば謙信時代ではなく景勝時代となる。しかし、もともと直江氏の屋敷地だったかもしれない。実質的には三ノ丸に相当する位置である。ただし、T曲輪からV曲輪までは堀切等による明瞭な区画はなく、すべて切岸の段差による区画だけである。このあたりがいかにも茫洋とした、古臭い山城の印象を与える。
「二ノ丸」(W曲輪)とされるW曲輪は主郭の東下に位置するが、多少広い帯曲輪という程度で、位置的に見ても二ノ丸、と呼べるかどうかは微妙だ。ここは台所であったといい、井戸跡もあるとのことだったが、それはわからなかった。「三ノ丸」(X曲輪)は「米倉」「景虎屋敷」である。米倉は城内で最も重厚な土塁に守られている。本当に米倉だったのだろうか。弾薬庫だったのではないか。景虎屋敷は小田原北条氏から越相和睦の「客人」として迎えられた上杉三郎景虎の屋敷地である。謙信の死後、実城を占領した景勝は、本丸から景虎の屋敷に向かって鉄砲を撃ち下ろしたという。
本丸の南側には、橋台を挟んで二重の堀切(堀6、7)があり、その先に「景勝屋敷」(Y)がある。この二重堀切には曳き橋がかかっていたとのことであるが、あまりそのようには見えない。景勝屋敷から南西側の尾根には一般の見学コースから外れているためにあまり目立たないが、堀切2-5が連続している。堀2はそのまま柿崎屋敷と北側の実城方面を分断する竪堀に繋がっている。ここはもともと泥田堀、あるいは溜池であったらしく、湿生植物が群生している。堀3-5は春日山城内では比較的大きい堀切が連続する区画であるが、基本的に自然地形を巧みに利用したもので、施工規模そのものは意外と大きくはない。
景勝屋敷より南東側には「伝柿崎屋敷」(Z)、南三ノ丸(\)などの比較的広い曲輪が連なる。このあたりはもう山上の要害とは別の、根古屋の一部と捉えた方がわかりやすい。これらの曲輪群の間を「大手道」が通り抜けている。
問題はこの「大手道」が果たして本当に大手の道かどうか、ということだが、どうもこのあたりが疑問である。この通称「御成街道」とされる道は、春日山神社の正面、方角で言うと北東側山麓から、南の尾根筋をぐるっと迂回して南三ノ丸、柿崎屋敷を横切り、景勝屋敷直下を経て本丸に通じる。山麓の居館・政庁からはかなりの迂回路である上、通常最も念入りに隔絶を施すはずの尾根続き方面からの進入経路は大手道としてはやや奇異な印象を受ける。むしろ全体の縄張りから見れば、城の正面、かつ最も枢要な居館・政庁区域であった現春日山神社附近の真裏にあたる「千貫門」(通常搦手とされる)の方がより大手に相応しい気がする。実際、「上杉家御年譜 景勝公」の天正六(1578)年五月十七日の条にも「大手の千貫門を」という記述があるくらいなのである。江戸時代に描かれた絵図を見ても、その絵図が正確であるかどうかは別としても、どの図にも千貫門の場所には大きく立派な門が描かれており、おそらくこれらの絵図の作者も千貫門を大手門として意識していたのではないかと思う。春日山城全体の立地・縄張りから防衛構想を考えてみても、主尾根の先端にあたる千貫門の方が要害部全体の防衛には都合がよく、討って出るにも適切な位置にある。
ちなみにこの千貫門の脇には、二重の堀切10、11があり、その附近に「搦手」の史跡標柱も設置されている。この堀切には曳き橋が架かっていた、という。堀切そのものはなかなか見事な遺構であるが、通説ではこれは敵を騙して通路のように見せかけ、押し寄せた敵を但馬谷に追い込むものである、ともいう。しかし、そんなにうまくいくものなのだろうか?そもそも敵がこれを通路だと思ってくれるかどうか、引き橋の下の堀を敵が通路だと思うかどうか、それに騙されて谷まで落ちてくれるかどうか、なんとも怪しい。さすがに敵もこんな策では騙されてくれないのではないかと思う。それに、千貫門附近の門遺構などを見る限り、ここに引き橋があったかどうかかなり疑わしい。仮に曳き橋があったとしても、その先の通路がない上、こんな場所に仮に通路があったら、千貫門の存在意味が無くなってしまう。ここに橋があった、という解釈自体、後世の軍学的な発想に思える。ここの堀切は規模や断面の形状、構造などから見て、戦国期の比較的後期のものではないかと思う。この部分は鮫ヶ尾城などの構造と似通っているようにも見えるが如何であろう。
春日山城は長い期間にわたって継続的に拡張・改修されているので、ある時期に大手道が変わった可能性はある。ただ、戦国末期にかけては千貫門方面こそが大手道だっただろうと思う。あるいは、「大手」「搦手」などの後世の軍学的解釈によるよりも、賓客の接待などに用いる公的な道と、城主や家臣団が日常的に通行する道、あるいは出陣用の道、などというように、目的別に区分されていたのかもしれない。
[2004.07.10]