「越後の虎」覇権を示す牙城

春日山城

かすがやまじょう Kasugayama-Jo

別名:蜂ヶ峰城

新潟県上越市中屋敷

 

城の種別 山城

築城時期

南北朝期

築城者

長尾氏

主要城主

長尾氏、上杉氏、堀氏

遺構

曲輪、堀切、土塁、空堀、虎口、井戸、復元毘沙門堂 他

春日山城本丸<<2004年05月02日>>

歴史

築城時期については定かではないが、南北朝期に越後府中確保の拠点として取り立てられたと思われる。永正年間(1504-21)頃、守護代・長尾為景により城砦化された。

長尾為景は守護・上杉房能と不和になり、永正四(1507)年、房能の養子で上条上杉氏出身の上杉定実を擁して房能と対抗、房能は兄の関東管領・上杉顕定を頼って関東に脱出する途上、天水越で自刃した。為景は上条上杉家から定実を擁立して守護に迎え、為景に反抗する本庄城主・本庄時長、平林城主・色部昌長らを攻撃、色部昌長は上杉顕定に援軍を求めたが、為景も上野白井城の長尾景春と結んで顕定の動きを封じた。為景は室町幕府に願い出て定実の守護相続を許されるが、永正六(1509)年七月、上杉顕定は長尾景春を鎮圧し越後に侵攻、為景、定実は一時越中に逃れた。為景は永正七(1510)年四月、為景は佐渡を経て蒲原津に上陸、このときに上条城主・上条定憲は為景派に寝返り、顕定は体制を立て直すため関東に撤退を試みたが、六月二十日、長森原で戦死した。これにより為景は事実上越後を掌握したが、次第に定実との確執を深めた。永正十(1513)年、定実は上条城主・上条定憲、琵琶島城主・宇佐美房忠らと語らって挙兵、永正十一(1514)年宇佐美房忠ら一族が討ち死にして反乱は一時収束した。しかし、為景が権威獲得と権力集中を図るのに対し、上条城主・上条定憲らは国人衆の支持を集めて享禄三(1530)年に上条城で挙兵した。この頃為景は府中の長尾館から春日山城に本拠を移したとみられる。享禄四(1531)年に一時収まるが、天文二(1533)年に再発、為景は下倉城主・福王寺孝重や北条城主・北条光広らの支持を得るものの苦戦し、天文二(1533)年には朝廷に奏請して綸旨を得、国人衆の気勢を削ごうとしたが効果なく、天文三(1534)年三月には安田城主・安田景元に上条城攻撃を命じた。安田景元・北条光広らは上条城附近で定憲と戦い勝利した。定憲軍は天文五(1536)年四月十日、春日山城下まで侵攻し、為景は高梨政盛らの援軍を得て三分一原でこれを撃退した。この合戦の後、為景は嫡子晴景に家督を譲って隠居し、まもなく病死した。為景の病死により、定憲の乱は収束に向かった。

長尾晴景は守護代を嗣ぎ、弟の景虎(のちの上杉謙信)を栃尾城に派遣し、国人衆の叛乱を鎮圧した。天文十四(1545)年、黒滝城主・黒田秀忠は春日山城で長尾晴景に謀叛を起こし、晴景は景虎を春日山城に呼び戻した。黒田秀忠は他国への出奔を条件に助命を願い出て赦されたが、翌天文十五(1546)年に再び黒滝城で挙兵したため、景虎はこれを討伐し、黒田一族は悉く自刃して滅んだ。このころ、晴景に代わって景虎を擁立する声が高まり、晴景と景虎は確執を深めたが、守護・上杉定実の仲介で景虎が晴景の養子となって守護代を嗣いだ。これに対して坂戸城主の長尾房長・政景父子は景虎に反抗したが天文二十(1551)年八月、政景討伐のために景虎が出陣し坂戸城包囲を表明すると、房長・政景父子は降伏、越後一国は統一された。守護上杉定実は天文十九(1550)年に死去、越後上杉氏は断絶し、景虎が事実上の国主となった。

天文二十一(1552)年には北条氏康に上野平井城を追われた関東管領・上杉憲政が春日山城に援助を請い、景虎は平子氏らを関東へ派遣した。天文二十二(1553)年には武田氏に所領を追われた北信濃の豪族・村上義清らが援助を求め、景虎は川中島へ出陣(第一次川中島合戦)、その後計五回に渡って武田軍と川中島の領有をめぐって争った。

その後春日山城は拡張が進められ、永禄三(1560)年の関東出陣に当たっては、五人の将に留守居の普請を命じている。また永禄五(1563)年には武田軍の越後乱入の報に際して、蔵田五郎左衛門、長尾政景、萩原伊賀守らに春日山城の普請と死守を命じている。元亀元(1570)年、前年成立した越相和睦に際して、小田原北条氏より人質として春日山城に入った北条三郎(上杉三郎景虎)に屋敷を造営、天正元(1573)年五月には実城・二之郭・三之郭の塀普請を命じており、春日山城は大城郭化した。

天正六(1578)年三月十五日、上杉謙信が没すると、上田長尾氏出身の上杉景勝と小田原北条氏出身の上杉三郎景虎の間で後嗣争いの内乱が勃発、景勝は春日山城の実城を占拠し、三郎景虎屋敷に鉄砲を浴びせた。三郎景虎は五月十三日に春日山城を脱出し御館に立て籠もった。五月十七日には御館より桃井伊豆守ら多数が春日山城を攻めたが、景勝はこれを撃退した。この内乱は翌天正七(1579)年三月、三郎景虎が鮫ヶ尾城で自刃し、景勝の勝利に終わった。

慶長三(1598)年に上杉景勝が越後から会津へ転封となり、堀秀治が越前北ノ荘から入封した。堀氏に対し、慶長四(1599)年から五(1600)年にかけて、越後に土着した上杉氏の遺臣らが一揆を起こしたが、慶長五(1600)年の関ヶ原の役の後鎮圧された。堀氏は春日山城に対し近世的な改修を行ったが、やがて福島城を築城、堀秀治の子、忠俊の代の慶長十一(1607)年に完成、居を移し、春日山城は廃城となった。

ついにここに来ました。感動・・・!

長尾景虎、のちの上杉謙信はこの春日山城で生まれ、生涯ここを本拠としました。しかし、春日山城での防衛戦はありません。ここを舞台とした防衛戦は父・為景の時代、そして謙信死後の相続争いとなった「御館の乱」時のみです。なぜ謙信は春日山城を攻められなかったのか、もっと言えば、謙信には籠城戦が全くといっていいほどないのはなぜか。ここに謙信の軍略、というか戦術観が見えてきます。つまり、信長や信玄と同じく、謙信にとっての戦とは、城に籠って迎え撃つのではなく、敵地に踏み込んで行うものだったということではないでしょうか。戦国期の主役級はほとんどすべて、この「敵地に討って出る」ことを実践していました。ただ謙信には領土欲というものがなく、あくまで庇護すべき対象がいる(信玄に信濃を追われた村上氏らや北条氏に関東を追われた上杉憲政など)、あるいは叛旗を翻すものがいる、などの理由によるところが特徴でしょう。まあそれ以前に謙信存命中は、どの敵もみな近づくことが出来なかった、という方が正確かもしれません。

勝手な想像ですが、謙信が上杉の名跡を嗣ぐことなく、長尾景虎のままで生涯を終えたとしたら、きっと無益な十数度の関東出兵もなく、大軍を引き連れての晴れの上洛(実は二回も上洛しているが)を果たしていたことでしょう。信玄とは激しく戦ったかもしれませんが、きっと信長などは鎧袖一触に蹴散らしたに違いありません。あのとき上杉憲政が転がり込んでこなかったら・・・・歴史が動いた瞬間だったかもしれません。

春日山城は標高189mの「蜂ヶ峰」に築かれた一大要塞で、「中世五大山城」のひとつにも数えられています。縄張りはほぼ全山に及んでいますが、堀切や腰曲輪を主体とした縄張りで、技法そのものに目新しさはありません。1.2kmに及ぶ惣構えの「監物堀」などもありますが、こちらは堀氏が入封してからのものです。はじめて見学したとき(2001年4月30日)は、「俺は今、あの春日山城に居るのだ!」という興奮で、お城としての遺構そのものはあまり細かく覚えていなかったのですが、今回(2004年5月2日)、お城めぐり仲間多数と二度目に訪れてみて、なんとなく全体像が掴めたような気がします。詳しくは「春日山城の考察」をご覧下され。

見学にあたっては、かなり広大なお城なので数時間はかかるでしょう。一回目も二回目も五時間を超える時間をかけて回りました。コースは春日山神社裏手から登るコースもありますが、ここはやはり「大手道」を通ってみましょう。これが本当に大手道なのかどうかは別途考察するとして、このコースはなかなか距離が長く、「南三ノ丸」「柿崎和泉守屋敷」「上杉景勝屋敷」「大井戸」などを経て、ダラダラっといつの間にか本丸まで着いてしまうルートです。「御成街道」とも呼ばれ、謙信らが歩いた道でもあります。実は二度目の訪問時には、柿崎屋敷からちょっと道を逸れて、堀切が連続する南側の尾根筋なども歩いてみました。コアな城郭ファンにはこちらもお薦めです。あまり整備はされていませんが、一応道もあります。

細かい遺構の状況は次の項目に譲るとして、まあとにかく本丸からの山河のパノラマをぜひ見て欲しいものです。これぞ謙信が見た景色、なのですから。

【春日山城の考察】
春日山城は新潟県下で最も有名な城郭であり、全国的にも相当に知名度の高い城郭である。いまさら「構造」だの「考察」だのというのは口幅ったいというか、畏れ多い気もするが、いくつか気づいた点もあるので記載してみる。とくに後半の「大手道」については通説の解釈に疑問がなくもないので多少念入りに考察してみる。

春日山城鳥瞰図

※クリックすると拡大します。

なおこの図の作図にあたっては、「図説中世の越後」(大家健/野島出版)の大家健氏の縄張り図ほかを参考に作図している。

春日山城は妙高山地から連なる山塊の北端に近い尾根の先端「蜂ヶ峰」をほぼ全山にわたって城砦化し、さらに近接して多くの支城、砦に囲まれている。標高は189m、麓からの比高は150m程度で、高さとしても地形としてもさほど天嶮の地でもないが、侵食谷を取り込んだ自然地形を巧みに利用して、さらに大掛かりな工事を施すことによって、山全体を要塞化している。また、遠目では連山の一角に過ぎないように見えるが、実は背後の狭い尾根続き以外はほぼ独立した山である。

春日山城は城域が広い上に削平地の数が多く、一見まとまりのない、茫洋とした印象のある縄張りであるが、今回改めて歩いてみて、また鳥瞰図を描いてみると、意外にも主尾根を軸とした、ごく普通の山城とそれほど変わらない基本構造であることが読み取れた。特に、T、U曲輪や「直江屋敷」(V)「景勝屋敷」(Y)などは峰上に綺麗に並んで配置されており、この部分がこの城の「背骨」にあたることがよくわかる。春日山城の全体像が分かりにくいのはむしろ根古屋地区や家臣団屋敷などに相当する「南三ノ丸」(\)や「柿崎屋敷」([)、春日山神社周辺(Z)の削平地を前述の峰上の遺構と同列に扱ってしまっているからで、山の中腹以上とそれ以下のレベルで見ると、割と一般的な山城の要害部と根古屋地区の関係を持っていることが明白となる。ただ、通称「大手道」、または春日山神社裏手の搦手道とも、ダラダラっと登っているのでその境目が明確でないだけである。さらに、各曲輪に明瞭な堀切などの区画がほとんど無いため、一見メリハリの無い構造に見えてしまうのである。

主要部は「実城」と呼ばれる区画で、最高所のT曲輪が主郭である。この主郭は浅い堀切8によってTa、Tbに分かれていて、Tbは天守閣跡であるとも云われるが、長尾(上杉氏)時代、あるいはその後の堀氏の時代も、天守閣と呼べるようなものは造営されなかったと思う。ただ、象徴的な建物はあったかもしれない。

北に繋がるU曲輪附近は一段高い毘沙門堂跡、また諏訪堂、釈迦堂など、仏堂が立ち並んでいたという。さながら宗教区域といったところであろうか。実質的には二ノ丸にあたる場所でもある。なお現在の再建された毘沙門堂は本来の位置ではなく、「不識院」跡に隣接して建てられている。V曲輪群は、最上段が「お花畑」、その下三段は「直江屋敷」とされる。お花畑とは典雅な名前であるが、医療用の薬草園であろう。もしかしたら謙信の二日酔い対策の薬草なども栽培されていたかもしれない。直江屋敷は直江山城守兼続の屋敷だという。兼続は本名を樋口与六といい、景勝の時代に直江氏を嗣いだ。従ってここに兼続がいたとすれば謙信時代ではなく景勝時代となる。しかし、もともと直江氏の屋敷地だったかもしれない。実質的には三ノ丸に相当する位置である。ただし、T曲輪からV曲輪までは堀切等による明瞭な区画はなく、すべて切岸の段差による区画だけである。このあたりがいかにも茫洋とした、古臭い山城の印象を与える。

「二ノ丸」(W曲輪)とされるW曲輪は主郭の東下に位置するが、多少広い帯曲輪という程度で、位置的に見ても二ノ丸、と呼べるかどうかは微妙だ。ここは台所であったといい、井戸跡もあるとのことだったが、それはわからなかった。「三ノ丸」(X曲輪)は「米倉」「景虎屋敷」である。米倉は城内で最も重厚な土塁に守られている。本当に米倉だったのだろうか。弾薬庫だったのではないか。景虎屋敷は小田原北条氏から越相和睦の「客人」として迎えられた上杉三郎景虎の屋敷地である。謙信の死後、実城を占領した景勝は、本丸から景虎の屋敷に向かって鉄砲を撃ち下ろしたという。

本丸の南側には、橋台を挟んで二重の堀切(堀6、7)があり、その先に「景勝屋敷」(Y)がある。この二重堀切には曳き橋がかかっていたとのことであるが、あまりそのようには見えない。景勝屋敷から南西側の尾根には一般の見学コースから外れているためにあまり目立たないが、堀切2-5が連続している。堀2はそのまま柿崎屋敷と北側の実城方面を分断する竪堀に繋がっている。ここはもともと泥田堀、あるいは溜池であったらしく、湿生植物が群生している。堀3-5は春日山城内では比較的大きい堀切が連続する区画であるが、基本的に自然地形を巧みに利用したもので、施工規模そのものは意外と大きくはない。

景勝屋敷より南東側には「伝柿崎屋敷」(Z)、南三ノ丸(\)などの比較的広い曲輪が連なる。このあたりはもう山上の要害とは別の、根古屋の一部と捉えた方がわかりやすい。これらの曲輪群の間を「大手道」が通り抜けている。

問題はこの「大手道」が果たして本当に大手の道かどうか、ということだが、どうもこのあたりが疑問である。この通称「御成街道」とされる道は、春日山神社の正面、方角で言うと北東側山麓から、南の尾根筋をぐるっと迂回して南三ノ丸、柿崎屋敷を横切り、景勝屋敷直下を経て本丸に通じる。山麓の居館・政庁からはかなりの迂回路である上、通常最も念入りに隔絶を施すはずの尾根続き方面からの進入経路は大手道としてはやや奇異な印象を受ける。むしろ全体の縄張りから見れば、城の正面、かつ最も枢要な居館・政庁区域であった現春日山神社附近の真裏にあたる「千貫門」(通常搦手とされる)の方がより大手に相応しい気がする。実際、「上杉家御年譜 景勝公」の天正六(1578)年五月十七日の条にも「大手の千貫門を」という記述があるくらいなのである。江戸時代に描かれた絵図を見ても、その絵図が正確であるかどうかは別としても、どの図にも千貫門の場所には大きく立派な門が描かれており、おそらくこれらの絵図の作者も千貫門を大手門として意識していたのではないかと思う。春日山城全体の立地・縄張りから防衛構想を考えてみても、主尾根の先端にあたる千貫門の方が要害部全体の防衛には都合がよく、討って出るにも適切な位置にある。

ちなみにこの千貫門の脇には、二重の堀切10、11があり、その附近に「搦手」の史跡標柱も設置されている。この堀切には曳き橋が架かっていた、という。堀切そのものはなかなか見事な遺構であるが、通説ではこれは敵を騙して通路のように見せかけ、押し寄せた敵を但馬谷に追い込むものである、ともいう。しかし、そんなにうまくいくものなのだろうか?そもそも敵がこれを通路だと思ってくれるかどうか、引き橋の下の堀を敵が通路だと思うかどうか、それに騙されて谷まで落ちてくれるかどうか、なんとも怪しい。さすがに敵もこんな策では騙されてくれないのではないかと思う。それに、千貫門附近の門遺構などを見る限り、ここに引き橋があったかどうかかなり疑わしい。仮に曳き橋があったとしても、その先の通路がない上、こんな場所に仮に通路があったら、千貫門の存在意味が無くなってしまう。ここに橋があった、という解釈自体、後世の軍学的な発想に思える。ここの堀切は規模や断面の形状、構造などから見て、戦国期の比較的後期のものではないかと思う。この部分は鮫ヶ尾城などの構造と似通っているようにも見えるが如何であろう。

春日山城は長い期間にわたって継続的に拡張・改修されているので、ある時期に大手道が変わった可能性はある。ただ、戦国末期にかけては千貫門方面こそが大手道だっただろうと思う。あるいは、「大手」「搦手」などの後世の軍学的解釈によるよりも、賓客の接待などに用いる公的な道と、城主や家臣団が日常的に通行する道、あるいは出陣用の道、などというように、目的別に区分されていたのかもしれない。

[2004.07.10]

春日山城1(大手道・南三ノ丸・柿崎屋敷・堀切群)

春日山城2(実城・直江屋敷・二ノ丸・三ノ丸)

春日山城3(千貫門・春日山神社・御屋敷・林泉寺)

東城砦・監物堀

春日山城バーチャルマップ

交通アクセス

北陸自動車道「上越」IC車15分。

JR信越本線「春日山」駅徒歩30分。

周辺地情報

近世城郭高田城がオススメ。マニアックな人は福島城御館などが近いですがあんまりおすすめできないです。それより春日山城、じっくり見たほうがいいです。

関連サイト

 

 
参考文献

「図説中世の越後」(大家健/野島出版)

「日本城郭大系」(新人物往来社)

「上杉謙信大事典」(花ヶ前盛明/新人物往来社)

「上杉謙信と春日山城」(花ヶ前盛明/新人物往来社)

「春日山城とその支城群」(大塚直吉遺作集出版委員会)
「上杉謙信・戦国最強武将破竹の戦略」(学研「戦国群像シリーズ」)

「疾風 上杉謙信」(学研「戦国群像シリーズ」)

「上杉家御書集成」T、U(上越市史中世史部会)

「上杉家御年譜 第一巻・第二巻」(米沢温故会」) 

参考サイト  

埋もれた古城 表紙 上へ