>栃木県

 

壮大、雄大、那須氏の戦国城郭

烏山城

                                                  

からすやまじょう Karasuyama-Jo

別名:臥牛城

城下から見上げる烏山城

<<2004年04月24日>>

所在地
栃木県那須烏山市城山
城山下登山道 八雲神社登山道
埋もれた古城マップ:栃木編
交通アクセス

東北自動車道「矢板」IC車30分。

JR烏山線「烏山」駅徒歩5分。ただし列車本数は極端に少ない。

行き方・注意点

東麓「城山下」バス停(県10)から登山道、もしくは南端付近の八雲神社より毘沙門山経由の登山道。その他登山道複数あり。

【基本情報】

築城年 応永二十五(1418)年 主要遺構 曲輪、土塁、横堀、堀切、石垣ほか
築城者 那須資重 標/比/歩 標204/比100/歩100
主要城主 那須氏、織田氏、成田氏 現況 神社、山林

【歴史】

応永二十一(1414)年頃、那須資氏の跡を継いだ福原城主・那須資之と、その弟で沢村氏を嗣いだ沢村五郎資重が不和となり、那須氏は上那須家・下那須家に分裂した。上那須家の資之は応永二十一(1414)年八月二日、下那須の沢村城を攻撃、資重は沢村城を棄て、一時興野氏の館に落ち着いた後、稲積城を修復して居住し、応永二十四(1417)年に烏山城の築城をはじめ、翌応永二十五(1418)年に完成して稲積城から移った。

永正十一(1514)年、上那須家では資親の死後、白河結城氏から養子入りした資永と、実子の資久の間で跡継ぎをめぐる内紛が発生、大田原胤清らが資永の福原城を攻撃した。資永は山田城に匿われていた資久を拉致した上で殺害、自らも自刃して福原城は落城し、上那須氏は断絶、烏山城の下那須資房によって那須家は統一された。

天文八(1539)年八月、烏山城主の那須高資と、山田城にいたその父・政資が不和になり、政資は佐竹義篤、小田政治、宇都宮尚綱らの援軍を得て烏山城を攻撃した。翌年三月ごろには佐竹氏は撤退している。

天文十八(1549)年には宇都宮尚綱が那須の本拠を目指して侵攻、那須高資はこれを喜連川の早乙女坂で打ち破り、宇都宮尚綱は戦死した(早乙女坂合戦・弥五郎坂合戦)。

永禄三(1560)年三月、那須資胤は奥州小田倉で白河結城晴綱、芦名盛氏らと戦い、資胤は負傷した。この合戦を契機に那須氏と家臣の大田原氏・大関氏が不和となり、大関高増は佐竹義重の弟・義尚を那須家の養子に迎え、資胤排斥を画策した。永禄六(1563)年三月には佐竹義重の援軍を得た大関高増と那須資胤が大海で戦っている。永禄九(1566)年八月には佐竹義重が烏山城南西の治武内山に攻め寄せ、佐竹軍の東義堅により千本城・茂木城が攻略されたが、東義堅は作戦中に孤立して包囲され降伏、佐竹軍は撤退した。その後佐竹義重は永禄十(1567)年二月、長倉義当に命じて烏山城を攻撃したが、那須勢の奮戦で撃退された。さらに同年四月にも霧ヶ沢で戦闘が行われたが、烏山城を落とすことはできなかった。この後、那須氏と大関・大田原市は福原の金剛寿院の仲介で和睦している。

元亀四(1573)年一月には佐竹義重の配下の武茂城主・武茂守綱、松野城主・松野篤通らが烏山城を攻め、天正六(1578)年五月には東義久が烏山城下の幕焼沢まで侵攻したが、那須資胤の反撃で撤退した。天正十一(1583)年二月には、佐竹義重、宇都宮国綱、武茂守綱らが烏山城下に侵攻したが、下境の那珂川河原でこれを迎え撃ち、大関・大田原の援軍で撃退している。

天正十八(1590)年の小田原の役に際し、那須資晴は豊臣秀吉に遅参を咎められて領地を没収され、佐良土城に蟄居した。この小田原の役での論考行賞で、織田信雄が尾張・伊勢・伊賀の旧領から徳川家康の旧領である三河・遠江・駿河への天封を命じられたのを拒否したため、秀吉により領地を没収され、烏山二万石に減封されて、二ヶ月間烏山城主となった。またその後、武蔵忍城主であった成田氏長が烏山城主に任じられている。

那須資晴はその後許されて福原周辺に五千石を与えられ、子の資景にも五千石が与えられて大名に復帰した。那須氏は福原城の一角に陣屋を設けたが、寛永十九(1642)年に後嗣なきを理由に除封された。その後那須家には増山弾正正利の弟・高春を養子に迎え、資弥と名乗った。天和元(1681)年、那須資弥は烏山二万石の大名として烏山城主となった。しかし資弥には嫡子が無かったため、津軽氏から養子を向かえて資徳と名乗らせた。しかしこれに対して福原氏を嗣いでいた資豊が幕府に訴えを起こした。この家督争いで貞享四(1687)年、那須氏は改易となり、烏山城も廃城となった。

烏山城平面図(左)、鳥瞰図(右)

※クリックすると拡大します。

【雑感】

那須氏は幾度かその居城を移していますが、烏山城はそんな中でも那須氏の城館を代表するお城であり、壮大な規模と多彩な歴史を誇っています。

烏山城の創建は応永年間の那須氏の上・下二家の分裂に遡ります。当時、那須家は福原城の那須資之と、その弟で沢村氏を嗣いだ資重が対立、沢村資重も那須氏(下那須氏)を名乗り、那須家は二家に分裂します。やがて下那須の資重は沢村城を追われ、この烏山城を築城、以来ここは下那須氏の本拠となります。やがて上那須氏の内紛がもとで上那須氏は断絶、結局下那須氏の系統が戦国期を生き残ることとなり、烏山城は統一された那須家の居城となります。

その後も那須氏は苦難の日々が続きます。八溝山地を挟んだ隣国、常陸の佐竹氏は何度も国境を越えて那須氏領に攻め込み、烏山城もたびたび攻撃対象となっています。とくに永禄六(1563)年の大海の合戦、永禄九(1566)年の治部内山の合戦、永禄十(1567)年の大崖山の合戦、霧ヶ沢の合戦などは兵力に劣る那須氏はかなりの苦戦を強いられたでしょうが、佐竹側の作戦ミスや諸将の踏ん張りなどもあり、烏山城はかろうじて落城を免れ、那須氏もまた生き残ってゆきます。

こうして名門・那須家は戦国の時代をくぐり抜けて行くのですが、「小田原の役」に参陣しなかった、というカドで豊臣秀吉により改易の処分を食らい、那須資晴は五千石の捨扶持を得て烏山城を出、佐良土城に蟄居、事実上このときに平安以来続いた武士団としての那須氏は歴史の表舞台から姿を消します。のちに資晴の子、資景が福原で一万石を得て大名に復帰、さらに資弥の代にはふたたび烏山城主として復帰しますが、この資弥は那須氏の血を引く人物ではなく、さらに後に家督相続をめぐるゴタゴタで領地を削られ、烏山城主としての那須氏はとうとう終焉を迎えます。「小田原の役」から近世初頭の幕藩体制の確立時期に、関東では多くの伝統的武士団が解体・消滅の運命を辿りましたが、那須与一で名高いこの那須氏も例外ではなく、時代の波に呑まれていくのでした。

烏山城は那須氏の改易後も近世城郭として用いられ、やはり小田原の役で領地の忍城を没収された成田氏長、その論考行賞で秀吉の怒りを買って領地を没収された、あの織田信雄などが城主に任じられるなど、なかなか興味深い脇役たちに彩られています。近世には東の山麓に「三ノ丸」と称する御殿が建てられ、事実上その山麓の御殿を中心に存続していたと思われます。

この烏山城は烏山町の中心部の背後、町の西側に聳える八高山一帯に築かれた壮大な山城で、那須郡域の城館としては比高も高く、さすが那須氏の本拠!と思わせるものがあります。もっとも、前述のとおり烏山城は近世城郭としても用いられていたので、すべてが那須氏時代の遺構とは限りません。一部で見られる石積み遺構などは天正十八(1590)年以後のものでしょうし、T・U曲輪西側の天幅20mはあろうかという巨大な横堀なども、近世初頭の産物かもしれません。ただ、近世城郭としての烏山城の機能はほとんどが山麓に移っていたと考えられるため、山上の遺構も、概ね那須氏時代の面影を残しているものと思われます。ただし、那須氏時代の本丸は「古本丸」と呼ばれ、実質的には那須氏時代の二ノ丸であるU曲輪がいわゆる本丸として用いられていたようです。遺構面でのもうひとつの特徴として、西側の山続き方面を意識して、執拗に横堀が巡らされている点です。とくに西側は、「田」の字状に縦横に横堀がめぐらされており、非常に複雑です。このあたりは近世に屋敷地だった可能性も無くは無いですが、どちらかというと烏山城にとって弱点にあたる、西側の山続き、緩斜面を意識してのもの、とも思われます。

烏山城の全域は県立の自然公園として遊歩道が通っていますが、全体に山林の手入れ状況は良くはなく、「自然」というよりも、山全体がかなり荒れた状態で、ヤブや倒木に覆われています。西側の尾根続きのあたりなどは植林した杉の間伐が全く行われておらず、伸び放題の枝によって地面に全く光が当たらず昼でも真っ暗、附近の山林一帯が枯れ果てて、「死の山」になってしまっています。せっかく植林しても、これでは動植物が少々気の毒ではあります。昨今、荒れる里山について色々取りざたされていますが、この烏山城でも少し考えさせられるものがありました。

[2005.03.12]

那珂川対岸の興野氏館附近から見る烏山城。なだらかな山ですが、周囲よりひときわ高く聳えています。 烏山の市街地側から見る烏山城。手前の一段低い田は堀のようにも見えます。
近世に三ノ丸御殿が置かれた寿亀山神社附近の土居と石垣。近世城郭としての烏山城の機能はここ中心だったでしょう。ここは那須氏時代の根古屋であったかもしれません。 毘沙門山との尾根を断ち切る堀切1。
「車橋跡」の標柱の建つ堀切2。常盤門があった場所でもあり、曳き橋が置かれたのでしょう。 烏山城の見所のひとつでもある吹貫門の石垣。近世の遺構でしょうが、関東では珍しい近世山城の石垣遺構です。このあたりには石垣が点在しています。
吹貫門の上の段が「塩倉」とされるY曲輪。大手道に対する迎撃拠点としても重要です。 U曲輪南側の正門跡附近にはあちこちに石垣や礎石が残っています。
全体に山林となっているU曲輪。ここは那須氏時代の二ノ丸であり、近世には本丸として用いられていた場所です。 U曲輪北側に堀切に面して盛られた土塁。高さは1mほどですが、幅は数mあります。
U曲輪からT曲輪へと向かう土橋。 T曲輪とU曲輪の間の堀切4。T曲輪側の深さは5mほど、西側の横堀に向かって傾斜して落ち込んで行きます。堀底には数段の段差があります。
烏山城最大級の遺構である横堀3。幅は最大で20m近くもあるでしょうか。小さな写真ではその壮大さが伝わらないのが残念。 同じく堀3。ここ、もうちょっと綺麗に整備したらスゴイと思うんだけどなあ・・・。この堀底、一部分が深くなっていて、「堀の中に堀」のようになっています。
「古本丸」とされるT曲輪、那須氏時代の本丸に当たります。東側の塁線は大きく鉤型に折れています。ここも山林化していますが、これくらいならまだ許せるかな・・・。 だんだんヤブが酷くなってきたW曲輪(北曲輪・北城)。このあたりの森林はもう放置状態に近い。。。
北曲輪と「中城」を隔てる堀切6。深さは中城側で8mほど。その堀切を歩いていると・・・。 ビックリ、突如現れたバイク!こんな山の中でバイクが突っ込んでくるとは!走るのはいいけど、遺構や歩道を壊さないように頼んますね。
Y曲輪西側の土塁。高さは曲輪内からで2mほど。西側のみにあります。っていってもこの写真じゃ何だか・・・。 そのさらに西側には幅15mはあろうかという横堀7が。ここは堀底に妙な障壁のようなものがあったり、堀底が一段低い部分があったりで不思議な構造。貯水施設であったかもしれません。しかしヤブが酷い、酷すぎる。。。
さらに北に遺構は続く。堀7は横堀から、尾根を立ち切る堀切に変化し、さらに竪堀へと繋がっていました。 尾根はかなり先まで続きますが、堀8、堀9の二重堀切が一応の北限と見ました。堀9は深さ2mほどで、城内主要部に比べるとかなり小規模です。
「大野曲輪」とされる\曲輪。削平はあまり綺麗ではなく、西側に若干傾斜しています。周囲はごく浅い横堀に囲まれていました。 「西城」とされる[曲輪手前の堀。このあたりは横堀があちこちに分岐して非常に見ごたえがあります。
西城の脇を囲む横堀14。ここは二重の横堀になっています。 「西城」西端の堀14先端附近。ここは神長方面への道もあり、ヤブもそれほどひどくはない。このあたりの堀は深さ8mほどもあるでしょうか。
西の尾根続きを分断する堀17附近。田切状の堀が縦横に繋がる、非常に複雑な場所です。しかしご覧のようにオバケでも出そうな真っ暗闇。木々が完全に死に絶えており、非常に不気味。もうちょっと手入れしてやってくれよ、という感じ。 こちらは東側のX曲輪、通称「厩屋」。重厚な土塁があるのが印象的で、厩屋というよりは火薬庫を思わせます。
主郭東側の帯曲輪上に設けられた桜門跡。「十二曲り」方面からの侵入を監視します。 谷戸の中をクネクネ道が伸びる「十二曲り」。湧水もあり、「井戸御門」なるものもあったようです。この周囲の尾根には腰曲輪が何段も設けられています。
「太鼓櫓」などと称される]曲輪。現在の通路はここを迂回していますが、切通し状の道があり、かつてはここを経由していたのでしょう。南端の出丸に相当します。 毘沙門山からの烏山城下町の風景。緑と水に彩られた景色が美しいです。この毘沙門山も物見などの役割は持っていたでしょう。
訪城記録

(1)2004/04/24

(2)2004/12/26

(3)2007/05/12

 

参考サイト

余湖くんのホームページ日本を歩きつくそう!

参考文献

「那須の戦国時代」(北那須郷土史研究会 編)

「栃木の城」(下野新聞社)

「日本城郭大系」(新人物往来社)

「那須記」(『續群書類従第二十二巻上(合戦部)』/續群書類従完成会に所収)

推奨図書

那須の戦国時代

下野新聞社 北那須郷土史研究会(編)

那須地方の戦国史を知るバイブル的な一冊。現在入手は難しいようだが、古本市場で見つけたら入手を推奨。

周辺地情報

少々マニアックですが、出城と見られる神長北要害、神長南要害が近い。那珂川対岸には興野氏館がありますが遺構はほとんどなし。

埋もれた古城 表紙 上へ