現在の茨城県下館市に、戦国の時代、「常勝」を謳われた名将がいました。名を水谷(みずのや)正村、入道して蟠龍斎。結城城主・結城政勝(この人も名将です)、晴朝(迷将?)に仕えた結城の忠臣にして結城四天王の頂点、いわば結城の守り神のような存在でした。「水谷氏?聞いたこと無いなあ」という方には、あの備中松山城を思い出して頂きましょう。今に残る松山城の天守をはじめとした近世山城の遺構は、この水谷蟠龍斎の後裔が備中成羽を経て高梁に入部した際に築いたものです。
それはともかく、蟠龍斎の初陣は武蔵大串領への出陣、このときはまだ玉若丸を名乗る少年でしたが、古河公方足利晴氏、主君結城政勝の命により父(養父とも)の水谷全芳治持に従い出陣、奮戦ののちに大串左衛門尉は自刃し、玉若丸は勝利の証として、附近の寺から梵鐘をぶん取って帰還しました。いわゆる「蟠龍の釣鐘」と呼ばれるもので、実物は戦時中の供出で失われましたが、復元の釣鐘が久下田城下の芳全寺(治持全芳の菩提寺で、蟠龍斎の墓所もある)にあります。
蟠龍斎の戦国武将としての活躍は久下田城の頁を見ていただくとして、政治家としての蟠龍斎を見てみると、これが出来すぎていると思ってしまうくらいよく出来ています。
たとえば竹垣のエピソード。天文十(1541)年、春から夏にかけての大雨続きで領内は食料も燃料も枯渇、そのとき、城内御目付役の中村九郎右衛門成勝なる人物が雨で崩れた三ノ丸の竹垣の一部を燃料として燃やしてしまった。これを見ていた人々、「御目付役がやるのだから」と自分たちもどんどん竹垣を燃やし始め、竹垣百間ばかりが完全に壊されてしまった。やがてこれは蟠龍斎の知るところとなり、詮議が行わたが、ここで領民の窮乏ぶりを知った蟠龍斎、「三ノ丸の竹垣を燃やした中島を罰するよりも、家中のものが困らぬ政ごとを行うべきである。今、譜代の家臣の命はとても大切だ。百間の竹垣よりもただ一人の足軽の命の方が尊い。」と、くだんの目付けを無罪放免し、それどころか米百俵。薪百駄を緊急にお下しになったとか。蟠龍斎版「米百俵」というところでしょうか。このエピソードでは、お城の城壁に「竹垣」が使われていたことも分かりますね。中世城郭の様相を想像するのに役立つ挿話でもあります。
また不作の年には年貢を三分の一に減免し、足りない年貢は自らの伝家の宝刀を売り払って充当した、とか、翌年は豊作になり、領民がいつもどおりの年貢と宝刀の買戻しを訴えると、「去年のままでいい」とまたまたあっさり減税延長。いやぁ、今の時代にこそ欲しい人材ですよね(笑)。そんな水谷正村は結城政勝にも頼みとされ、二十一歳のときに政勝の息女、小藤姫を娶り、主君から「政」の字を拝領して水谷政村と名乗ります。しかし、花のように美しいと云われた小藤姫は翌年、女児を出産後に十七歳で死去、これを機に結城の乗国寺にて剃髪・入道し「蟠龍斎」と号し、下館城を弟の勝俊にポンと譲り、自らは敵地最前線の久下田城に居住、生涯妻も持たず、跡嗣ぎも持たずに戦火の中に身を投じたという、武人の鑑のような人生を送ったのでした。
水谷蟠龍斎の跡を嗣いだ人々は前述のとおり水谷氏は備中成羽を経て高梁に移封となり、下館城は近世も様々な大名が入れ替わり立ち代り入城していますが、残念ながら現状は遺構と言えるものは殆ど無く、広大な城地の大部分は市街地や小学校になってしまいました。わずかに八幡社の社殿が建つ附近がその本丸の名残を残し、下館城址の石碑が建っているのみです。仔細に見れば街中を走る道路などにその名残があったりするのかも知れませんが、台地の真中を県道が貫いている上、宅地が密集していてなかなか往時を偲ぶのは困難です。強いて言えば、東側の五行川に面した急斜面にわずかにその面影が見えるかな、といった程度です。ちょっと蟠龍さんを偲ぶには物足りないかな・・・。