天慶年間(938-948)、藤原秀郷が平将門追討のために常陸伊佐野三ヶ所に館を築いたうちの「下館」にあたるというが定かではない。のちに伊佐城を本拠とする伊佐氏が領有していたといわれる。
文明十(1478)年、水谷伊勢守勝氏が結城氏広から下館領を与えられ築城したという。水谷氏は「結城四天王」の一員として主家の結城氏を援け、近隣諸将と戦った。
天文八(1539)年、結城政勝は武蔵吉見城で古河公方足利晴氏に敵対する大串左衛門入道武成・重義父子を攻撃した。この合戦に下館城主・水谷治持とその子(養子とも)玉若丸(のちの正村)も従軍し戦功を挙げた。この合戦の際に、下妻城主・多賀谷政朝が戦功を偽ったことが発覚し、水谷氏と多賀谷氏は対立、天文九(1540)年三月三日、多賀谷氏の執事、成田知虎の非礼をめぐって武力衝突し、多賀谷氏は下館城に押し寄せたが、城門に差し掛かったとき、水谷正村らが討って出たため多賀谷軍は浮き足立った。この合戦を知った主君の結城政勝は大いに驚き、ただちに仲裁した。
天文十一(1542)年、下館城主・水谷正村は入道して蟠龍斎と号した。蟠龍斎は天文十四(1545)年十月、宇都宮氏の家臣・中村日向入道玄角を下野中村城に攻め滅ぼした上で、宇都宮氏の逆襲に備え久下田城を築城し、自らは久下田城に移り住み、下館城は弟の勝俊に預けた。天文十五(1546)年九月には宇都宮氏の家臣、八木岡城主の八木岡貞家らが久下田城に来襲したがこれを撃退し、八木岡貞家を討ち取った(物井小堀切合戦)。また天文十六(1547)年には武田治部太夫信隆の攻撃を受けたがこれも撃退し、信隆を討ち取っている。この合戦では水谷蟠龍斎は鉄砲を用いていたという。
天文十七(1548)年二月、小田城主・小田政治が没すると、水谷蟠龍斎は真壁城主・真壁氏幹を説いて小田氏との同盟を解消させ、結城氏との同盟に寝返らせている。この後、結城政勝の跡を嗣いだ結城晴朝に従い、北条氏と上杉氏の間を行き戻りしつつ各地で転戦、永禄十一(1568)年には弟の勝俊に家督を譲り隠居したが、その後も多賀谷重経との戦いや田野城攻めなどに転戦し、天正十九(1591)年に下館城に戻り、慶長三(1598)年六月二十日に死去した。
慶長五(1600)年の関ヶ原の役では水谷勝俊は徳川秀忠に従って東軍につき、下館城には上杉景勝攻めに向かう秀忠が逗留したこともある。
水谷氏は勝俊の後、寛永十六(1639)年、勝隆のときに備中成羽に転封、さらにその後に備中松山城に転封となり、松山城を大々的に改修した。下館城には松平頼重五万石が入ったが、寛永十九(1642)年に讃岐高松に移封され、一時幕領となった。寛文三(1663)年、増山正弥が入封、以後井上正岑、黒田直邦と続き、享保十七(1732)年、直邦が上野沼田城に転封となると、石川総茂が二万石で入封し、石川氏九代ののちに明治維新を迎え廃城となった。