霞ヶ浦に浮かぶ名城を街中に探す

土浦城

つちうらじょう Tsuchiura-Jo

別名:亀城

茨城県土浦市中央

(亀城公園)

城の種別 中世〜近世平城

築城時期

永享年間(1429-41)

築城者

今泉三郎

主要城主

今泉氏、菅谷氏、結城(松平)氏、松平氏、朽木氏、土屋氏ほか

遺構

曲輪、土塁、水堀、櫓門、高麗門2基、復原櫓2基

現存太鼓櫓門<<2003年06月29日>>

歴史

平安時代に平将門が砦を築いたという伝承があるというが定かではない。

永享年間(1429-41)に小田城の小田氏の被官、今泉三郎が築城したのが始まりといわれる。永正十三1516)年、土浦城主の若泉五郎左衛門は小田氏の部将・菅谷(すがのや)勝貞に攻め取られ、一時小田氏家臣の信太範貞が城主となり、のちに再び菅谷勝貞が城主となった。菅谷勝貞は第十四代小田城主の小田政治、その子氏治を援け、勝貞の子政貞、その子範貞の時代にも小田氏の勢力が次第に縮小する中、小田氏をよく支えた。

弘治二年(1556)、北条氏康は下総結城城の結城政勝の援軍として江戸城代の遠山・富永、岩槻城の太田資正らを結城城に派遣、関宿城の簗田氏や下野の壬生氏、那須氏、奥州白河結城氏らが結城連合軍に加わって、海老ヶ島城を攻撃したのを契機に小田氏治が出陣、山王堂付近で激突したが結城連合軍が優勢で、氏治は敗走し、小田城も陥とされ土浦城まで撤退した(第一次山王堂合戦)。翌年勢力を盛り返し小田城を奪還した。

謙信の関東出陣後はこれに従い転戦したが、小田氏治はその後、北条氏の調略に応じて謙信に叛いた。永禄七(1564)年、上州厩橋城に駐屯していた謙信は寝返った氏治を討つべく山王堂付近に進軍、越後・佐竹連合軍との間に合戦となり、氏治は再び敗走し小田城に籠城したがこれも陥とされ、土浦城に退いた(第二次山王堂合戦)。この時も翌年、小田城を奪還している。

永禄十二(1569)年、北条によって岩槻城を追われ片野城で対立する佐竹義重に庇護されていた、太田三楽斎資正と梶原政景親子を攻めるべく軍を進めたが、資正親子は真壁城の真壁氏幹らの援軍を得て筑波山麓の手這坂でこれを打ち破り、またしても氏治は小田城を追われ、土浦城に敗走、その後復帰することはなかった(手這坂合戦)。天正元年(1573)には菅谷政貞は小田氏への謀反の罪で木田余城主の信太範宗を誅殺したという。菅谷政貞・範政父子は木田余城に小田氏治を匿い佐竹氏・多賀谷氏の攻撃を防いだが、木田余城は天正六(1578)年に落城、佐竹氏によって破却され、土浦城もたびたび攻撃を受け、天正十一(1581)年、小田氏治は土浦城で佐竹氏に降伏した。

天正十八(1590)年の小田原の役で豊臣軍に参陣しなかった菅谷範政は土浦城を出て真壁郡高津村で蟄居、土浦城結城城主で家康次男の結城秀康の支配下となった。範政はのちに徳川氏の旗本に取り立てられ筑波郡手子生五千石を与えられている。

慶長六(1601)年、結城秀康が越前福井城に移ると土浦城には松平信一が三万五千石で入城、笠間城の松平康重とともに水戸城の佐竹義宣の監視にあたったが、佐竹氏は慶長七(1602)年秋田に移封となり、信一の子信吉の時代には四万石に加増された。元和三(1617)年、信吉は上野高崎城へ移封となり、翌元和四(1618)年八月には西尾忠永が上野白井城より入封、子の忠照の時には東西の物見櫓を建造した。慶安二(1649)年、西尾忠照が駿河田中城に移封され、朽木稙綱が下野鹿沼城から三万石で入封、大手門を太鼓櫓に改造した。その後、土屋氏二代、松平氏と城主が代わり、貞享四(1687)年に土屋政直が六万五千石で入封、その後加増されて九万五千石を領した。土屋氏十代の挙直の時に版籍奉還、廃藩置県となり土浦城は廃城となった。なお廃城後の明治十七(1884)年の火災によって、本丸の建物の大部分が焼失、西櫓、太鼓門、霞門だけが残ったという。

土浦城の本丸・二ノ丸のわずかな一部分は現在「亀城公園」として残されていますが、全体として都市化に呑まれてしまい、残された部分はごくわずか、と思っていました。以前はそんな失望感を「都市化の波に呑まれていく平城の末路はいつも哀しい」などと表現していました。まあ、かつては霞ヶ浦周囲の水を引き入れた堀に幾重にも取り巻かれ、「亀城」とも呼ばれた水城であったはずで、それは今もわずかに残る堀が面影を伝えてくれてはいますが、その残された部分はあまりにも小さく、近世大城郭であった名城の面影を偲ぶのは困難ではあります。亀城公園も、現存櫓門や隅櫓、高麗門などがあるにはあるのですが、「お城らしさ」を感じる縄張の妙などはほとんど感じることができませんでした。ただ公園にいくつか城郭遺構が集まってるだけ、そんな印象です。これも時代の波で、致し方ないんでしょうけどね・・・。

が、ソレガシは残念ながら参加できなかったのですが、「茨城城郭会」のオフ会で街中に残った土浦城の面影を探して歩いた、その成果がひづめさんの「美浦村お散歩団」、余湖さんの「余湖くんのホームページ」などで紹介されていました。これらのHPの助けを借りて、梅雨の合間のスカッと晴れた土浦城周辺をほんの少しですが歩いてみました。結果、土浦城に対する印象がガラリと変わりました。確かに残されている遺構は少なく、ごく小さな亀城公園だけを見てしまうと、「こんなモンかぁ。。。」と思ってしまうのですが、実は街中の随所にかつての面影が色濃く残っていました。住宅街の中に残るクランク、大手門周辺の複雑極まりない道路、丸馬出しの面影を残すS字カーブ・・・中でも、浄真寺の墓地に残る土塁の素晴らしさは、ひづめさん曰く「土浦城最大の遺構」という意見も頷けるほどです。浄真寺の土塁は別として、大半は街の中にその痕跡を残す程度ですが、街中に残ったその痕跡を辿る、というのもまた面白いものだと改めて感じましたね。

近世城郭としての土浦城は水戸街道を城内に取り込んで、水戸城江戸城を結ぶ徳川家御用達の壮麗なお城であったのですが、中世土浦城はまた別の顔を持っていました。ここは小田氏治がたびたびその本城である小田城を敵に奪われる度にお世話になっていたお城でもあります。城主は菅谷氏。怒涛のような佐竹・多賀谷連合軍の南下に耐えて、小田氏治に忠節を尽くしました。衆寡敵せず、やがて佐竹に降伏を余儀なくされますが、ちょっとだらしない氏治トノサマを見限ることなく、主になり代わって、よく働いた人物だと思います。そのご褒美なのか、菅谷氏はのちに家康に見出され、徳川旗本として五千石の高禄を与えられて家名を存続したという。ある意味、家康という人物の人を見る目の確かさを改めて感じる、そんなエピソードでもあります。

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<土浦城縄張り図・現地解説板より>

亀城公園周辺、本丸の水堀。護岸され形も変わっていますが、青空を映す水堀の姿っていうのはやっぱり美しいもんです。

復原の西隅櫓。昭和二十五年のキティ台風で破損、解体保存されていたものを平成に入ってから復原したものだそうです。ある意味、半分現存遺構といってもいいでしょう。

慶安年間、朽木氏の時代に作られたという本丸櫓門、別名太鼓門。なんでも一時、鳥のフンが溜まり過ぎて傾いたこともあるという(「余湖くんのホームページ」)。そんなことってホントにあるのかなあ?恐るべし、フンの山・・・。 太鼓門の前には枡形か馬出しがあったらしいのですが、その痕跡らしいものはありません。
本丸櫓門の太い梁を見上げる。二階の櫓部分に時を知らせる太鼓があったことから、太鼓櫓と呼ばれたといいます。 拍子抜けするほど狭い本丸。櫓門と二基の隅櫓、一基の薬医門がありますが、これがなければただの公園みたいなもんです。
本丸周囲の土塁。どの程度現存なのかはわかりません。 西隅櫓脇の土塁に立つ宝篋印塔は、謀反の疑いにより誅殺された木田余城主・信太範宗の霊を慰めるためのものという(「美浦村お散歩団」)。
本丸東北の薬医門である霞門と前面の枡形。背後は復元された東櫓。霞門は太鼓門とともに明治の火災を生き残った現存建築遺構です。 平成十年に復元された東櫓。内部は土浦市立博物館の一部となり、中に入って見学することができます。
天保七(1837)年のものという西櫓の鯱瓦。 東櫓は総工費一億八千万、木材は外材ではなく国内産のものを探して集めてきたそうです。
庭園などがある二ノ丸から本丸の太鼓門を見る。 かつての二ノ丸門(二ノ門)の位置に移築された前川御門の高麗門。
二ノ丸東側の堀は埋められ、駐車場になっていました。わすかに残った土塁と地形から、当時の姿が思い浮かばれます。 二ノ丸南東の水堀と土塁。現存土塁かと思ったら、公園化の過程でだいぶ変わってしまったらしい。。。
土浦幼稚園脇の大手門の碑。写真ではわかりませんが、ここは道が非常に複雑に交差しています。幼稚園の通用門はこんなでした。 搦手門付近の道路もカクッと曲がっていました。大手と搦手との距離が近く、しかも同じ本丸東側にあるというのは奇異な感じもします。
これは素晴らしい!浄真寺裏手に残る立派な土塁。ひづめさんが「土浦城最大の遺構」というのも納得。 浄真寺土塁の北端はひとき高く櫓台状になっていました。
かつての築地川は暗渠化され遊歩道に。それでもなお、外郭部の水堀の雰囲気を今に伝えています。 北門(真鍋口)は二つの丸馬出しが連続する複雑な虎口で、水戸街道と土浦城の接点でもありました。道のカーブに名残を見るか。

 

交通アクセス

常磐自動車道「桜土浦」ICまたは「土浦北」ICより車15分

JR常磐線「土浦」駅徒歩15分。

周辺地情報

ちょっと足を伸ばして小田城か、木原城。遺構は少ないものの木田余城も近くです。

関連サイト

参加できなかったものの、茨城城郭会のオフ会の報告が大変参考になりました。

 
参考文献 「日本の城ポケット図鑑」(西ヶ谷恭弘/主婦の友社)、「日本名城の旅 東日本編」(ゼンリン)、「日本城郭大系」(新人物往来社)、「結城一族の興亡」(府馬清/暁印書館)、土浦市立博物館配布物、現地解説板

参考サイト

常陸国の城と歴史美浦村お散歩団余湖くんのホームページ

 

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