徳川十五代二百六十年を支えた

江戸城

えどじょう Edo-Jo

別名:千代田城、東京城 

東京都千代田区千代田

(皇居・皇居外苑・皇居東御苑・北の丸公園)

城の種別 平山城(丘城)     

築城時期

長禄元(1457)年 

築城者

太田道灌

主要城主

太田氏、遠山氏、徳川氏

遺構

水堀、空堀、石垣、土塁、門、櫓、天守台、番所、二の丸庭園等

伏見櫓と十四間櫓<<2001年12月23日>>

歴史:

古くは十二世紀初頭、秩父平氏である秩父重綱の四男・重継がこの地に館を構えたという。

康正二(1456)年、扇谷上杉家家老・太田道灌が上杉定正の命で築城し翌長録元(1457)年四月八日に完成した。江戸城岩槻城川越城をもって、古河公方・足利成氏に対抗した。長禄元(1457)年に完成した。築城当時は複数の曲輪を持つ斬新な城と言われたが、現在残るほどの規模ではなく、掻き揚げ土塁の城であった。「静勝軒」と呼ばれる三階建ての初期天守の原型となる櫓を持っていた。文明九(1479)年、長尾景春の乱に乗じて石神井城の豊島泰経らが挙兵し、川越城江戸城の連絡を遮断した。太田道灌は四月、扇谷上杉朝昌、相模新井城主・三浦氏、武蔵赤塚城主・千葉自胤、世田谷城主・吉良成高らの援兵で江戸城防備を固め、豊島泰経の弟・泰高の平塚城を攻めた。泰経は石神井城・練馬城から援兵を出し、太田・豊島両軍は江古田原・沼袋原で合戦となった(江古田・沼袋合戦)。泰明は討ち死にし、泰経は石神井城に立て籠もったが、四月二十八日に落城した。太田道灌は主家を上回る名声に危機感を抱いた扇谷上杉定正により、文明十八(1486)年、相模糟屋の上杉館で斬殺され、江戸城には曾我豊後守を城代として置き、その後永正二(1505)年、定正の養子、朝良が居城とした。

大永四(1524)年正月、小田原城の北条氏綱は武蔵に兵を進め、扇谷上杉朝興と高輪原で対陣した(高輪原合戦)が、その際に江戸城代・太田資高の内応を得て江戸城奪取に成功、以降、北条氏の城代、遠山氏、富永氏が置かれ、武蔵・下総への進出拠点となった。

天正十八(1590)年の小田原の役の際は川村秀重が守備していたが、四月二十二日に徳川軍に降伏開城した。北条氏が滅亡すると、同年八月一日、秀吉の命により徳川家康が駿府城から江戸城に入り、関東一円を領土とした。家康は文禄元(1592)年頃から西の丸を中心に普請を開始、また城下の日比谷入江の干拓など、城下町の整備にも着手した。

慶長五(1600)年の関ヶ原合戦勝利後、家康は慶長八(1603)年に征夷大将軍に任じられ、江戸に幕府を開いた。これにより、慶長九(1604)年に江戸城の普請を全国大名に発令、藤堂高虎らに縄張りをさせて慶長十一(1606)年三月一日を起工日として、外様大名を中心とした諸大名に命じて天下普請による大改修を行い、寛永十三(1636)年、三代家光の時代に完成した。家康・秀忠・家光の時代にそれぞれ天守が造営され、家光の時代の天守は寛永十四(1637)年十二月六日に竣工したが、明暦三(1657)年正月十八日の江戸の大火(「振袖火事」)で天守は焼失し以後再建されなかった。

慶応三(1867)年十月、第十五代将軍徳川慶喜は二条城にて大政奉還を上表、江戸城は翌慶応四(1868・明治に改元)年三月十四日、倒幕派による総攻撃の前夜に攻撃中止が命令され、四月十一日、無血開城した。明治元(1868)年十月十三日、明治天皇は京都から江戸城に入り、「東京城」と改めた。現在は皇居。

すいません。埋もれてません。身近過ぎてピンとこなかったのですが、日本最大にして最後の巨城がこんなにそばにあるんです。現在は「皇居」として親しまれている江戸城です。都心のど真ん中に浮かぶこの城に初めて入りました(2001年1月18日)。身近すぎて最近まで行ったことが無かったんです。

まず何より広い!現在残る内堀の周りを歩くだけでも相当に広いのですが、外堀や、台場跡などを含めると、いわゆる都心部全域ですね。内堀の周囲を一周するだけでも結構いい散歩になります。

遺構は石垣、堀など沢山!ただ現在は「皇居」という特殊な地位にあることもあり、普段一般公開されていない部分が多いことや、遺構に関する説明が不充分なのが残念です。そういえば城外を一周して、いろんな石碑や銅像があったけど、家康に関するものは何にも無し。う〜ん、不思議。もしかして「賢きあたり」ではあんまりウケがよくないからかな?

太田道灌が築城したころには、江戸城は海に面していて、文才あふれる道灌は

わが庵は松原つづき海近く 富士の高嶺を軒端にぞみる

などと詠んだとか。自分には、それほど名句とも思えないんですが(笑)自分のお城を「わが庵」なんて言っちゃうところは、カッコつけの道灌サンにはお似合いな気がします。道灌が築いた当時の江戸城はもちろんこんなに大きくは無かったものの、江戸湾に面した断崖上に「中城」(本丸)を中心に、子城、外城という独立性の高い曲輪を配置し、二十五もの石門(虎口)で接続された「道灌がかり」と呼ばれる築城法を駆使した、東国の名城でありました。その場所は現在の本丸、二ノ丸のあたりといわれ、突端部には「兵ハ静カナルヲ以テ勝ツ」という中国の兵法から名づけた「静勝軒」という、後世の天守に相当する櫓を建てたといわれます。この場所は、現在の富士見櫓のあたり、といわれています。

北条氏の時代には、武蔵南部と江戸湾岸の軍事・交易の中心として重視され、北条氏の一級支城になりました。その後、家康が入封しますが、吝嗇家であった家康は当時、上方で常識とされた石垣工事も天守造営も、屋根の瓦葺さえやらなかったとか。「んなもん、ワシが天下獲ったら諸大名にやらせりゃええわい!」ということで、そのお言葉どおり、家康の天下到来から三代将軍家光の代に至るまで、諸大名の奉仕による「天下普請」が延々と繰り広げられました。江戸城がどんどん大きく堅固になると同時に、湿地は埋め立てられ河川は改修され、町屋は計画的に町割され、すでに江戸時代には世界屈指の巨大都市「シティ・オブ・エド」に成長、その後現代のTOKYOにまで、その姿は受け継がれてきました。

2001年12月23日の天皇誕生日、初めて特別参賀に行きました。この年は敬宮愛子内親王の誕生もあって、何かと皇室の話題も多かったので、「一度くらいは参賀に行こう」という殊勝な気持ち半分、「普段見れない西ノ丸を見るゾ〜」という不純な気持ち半分で行って来ました。近くで見る伏見櫓や富士見櫓の美しさは格別でした。みなさんも機会があったら参賀に出向いてみてはいかがでしょうか。なお、事前に申し込みすれば、平日でも西ノ丸や道灌堀周辺などが見学できるそうです。こちらはいずれ行ってみたいと思います。

さらに2002年12月23日、お城めぐりメーリングリストでお知り合いになった方々と計七名にて、再度特別参賀に行ってまいりました。こちらの模様は江戸城参賀オフの報告頁でご覧下さい。

 

[ 江戸城めぐり その1:内堀外周 ] [ 江戸城めぐり2:東御苑 ] [ 江戸城めぐり3:外郭&北の丸 ] [ 白雪の江戸城1 ] [ 白雪の江戸城2 ] [ 特別参賀2001 ] [ 江戸城参賀オフ ] [ 江戸城の桜 ]

 

交通アクセス

東京駅、二重橋前駅(皇居前広場、大手門方面)、大手町駅(大手門方面)、竹橋駅(平川門・北桔橋門方面)、半蔵門駅(半蔵門方面)、桜田門(外桜田門方面)など。道路は首都高「北ノ丸」出口、「神田橋」出口などが便利。

周辺地情報

たぶん一日じゃ全然見切れないと思いますんで、ゆっくり江戸城見ていってくださりませ。

関連サイト

 

 

参考文献

「日本城郭大系」(新人物往来社)、「皇居のしおり」(社団法人菊葉文化協会)、「真説戦国北条五代」(学研「戦国群像シリーズ」)、「日本の城 戦国〜江戸編」(世界文化社)、「日本の城 ポケット図鑑」(西ヶ谷恭弘/主婦の友社)、「歴史と旅 1998.8号」(秋田書店)、現地解説板ほか

参考サイト

 

埋もれた古城 表紙
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江戸城めぐり その1:内堀外周
江戸城めぐり2:東御苑
江戸城めぐり3:外郭&北の丸
白雪の江戸城1
白雪の江戸城2
特別参賀2001
江戸城参賀オフ
江戸城の桜