すいません。埋もれてません。身近過ぎてピンとこなかったのですが、日本最大にして最後の巨城がこんなにそばにあるんです。現在は「皇居」として親しまれている江戸城です。都心のど真ん中に浮かぶこの城に初めて入りました(2001年1月18日)。身近すぎて最近まで行ったことが無かったんです。
まず何より広い!現在残る内堀の周りを歩くだけでも相当に広いのですが、外堀や、台場跡などを含めると、いわゆる都心部全域ですね。内堀の周囲を一周するだけでも結構いい散歩になります。
遺構は石垣、堀など沢山!ただ現在は「皇居」という特殊な地位にあることもあり、普段一般公開されていない部分が多いことや、遺構に関する説明が不充分なのが残念です。そういえば城外を一周して、いろんな石碑や銅像があったけど、家康に関するものは何にも無し。う〜ん、不思議。もしかして「賢きあたり」ではあんまりウケがよくないからかな?
太田道灌が築城したころには、江戸城は海に面していて、文才あふれる道灌は
わが庵は松原つづき海近く 富士の高嶺を軒端にぞみる
などと詠んだとか。自分には、それほど名句とも思えないんですが(笑)自分のお城を「わが庵」なんて言っちゃうところは、カッコつけの道灌サンにはお似合いな気がします。道灌が築いた当時の江戸城はもちろんこんなに大きくは無かったものの、江戸湾に面した断崖上に「中城」(本丸)を中心に、子城、外城という独立性の高い曲輪を配置し、二十五もの石門(虎口)で接続された「道灌がかり」と呼ばれる築城法を駆使した、東国の名城でありました。その場所は現在の本丸、二ノ丸のあたりといわれ、突端部には「兵ハ静カナルヲ以テ勝ツ」という中国の兵法から名づけた「静勝軒」という、後世の天守に相当する櫓を建てたといわれます。この場所は、現在の富士見櫓のあたり、といわれています。
北条氏の時代には、武蔵南部と江戸湾岸の軍事・交易の中心として重視され、北条氏の一級支城になりました。その後、家康が入封しますが、吝嗇家であった家康は当時、上方で常識とされた石垣工事も天守造営も、屋根の瓦葺さえやらなかったとか。「んなもん、ワシが天下獲ったら諸大名にやらせりゃええわい!」ということで、そのお言葉どおり、家康の天下到来から三代将軍家光の代に至るまで、諸大名の奉仕による「天下普請」が延々と繰り広げられました。江戸城がどんどん大きく堅固になると同時に、湿地は埋め立てられ河川は改修され、町屋は計画的に町割され、すでに江戸時代には世界屈指の巨大都市「シティ・オブ・エド」に成長、その後現代のTOKYOにまで、その姿は受け継がれてきました。
2001年12月23日の天皇誕生日、初めて特別参賀に行きました。この年は敬宮愛子内親王の誕生もあって、何かと皇室の話題も多かったので、「一度くらいは参賀に行こう」という殊勝な気持ち半分、「普段見れない西ノ丸を見るゾ〜」という不純な気持ち半分で行って来ました。近くで見る伏見櫓や富士見櫓の美しさは格別でした。みなさんも機会があったら参賀に出向いてみてはいかがでしょうか。なお、事前に申し込みすれば、平日でも西ノ丸や道灌堀周辺などが見学できるそうです。こちらはいずれ行ってみたいと思います。
さらに2002年12月23日、お城めぐりメーリングリストでお知り合いになった方々と計七名にて、再度特別参賀に行ってまいりました。こちらの模様は江戸城参賀オフの報告頁でご覧下さい。
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