武蔵国騎西荘多賀谷郷の地頭職、多賀谷左衛門尉家政が結城直光の臣となったのが多賀谷氏の始まり。嘉吉元(1441)年、前年に勃発した結城合戦で結城城は十ヶ月に渡る攻防の末落城し、結城氏朝・持朝父子をはじめ一族は自刃したが、このとき多賀谷氏家は氏朝の末子・七郎を抱いて結城城を脱出し、佐竹氏に庇護されて、後の結城家再興に功績があった。結城合戦によって関東公方足利氏は一時断絶したが、文安四(1447)年、北関東諸将の要請に応える形で越後守護・上杉房定が斡旋し、足利持氏の末子・永寿王丸を奉じて鎌倉府復興を幕府に願い出て許され、鎌倉公方・足利成氏として復活した。この時結城七郎は結城合戦での一族の功を成氏に認められ、中務大輔成朝の名を与えられ結城氏は再興した。成氏は関東管領の上杉憲忠と対立、宝徳二(1450)年の江ノ島合戦を経て享禄三(1454)年十二月、結城成朝、武田右馬守信長、里見民部少輔義実、印東式部少輔、岩松持国らが鎌倉西御門の上杉憲忠邸を襲撃し、金子(多賀谷)高経が憲忠の首級を挙げたことで「享徳の大乱」が勃発した。この功で多賀谷氏は下妻三十三郷を与えられ、康正元(1455)年には飯沼氏の一族・堀戸氏の関城を奪って居城とした。
高経の子家稙は新たに大宝沼の南に下妻城を築いて本拠とした。多賀谷氏は「結城四天王」の一家として結城氏に臣従したが、寛正三(1462)年十二月二十九日、結城城内で結城成朝の勢威を恐れた多賀谷高経が成朝を殺害し、専横を欲しい侭にした。結城成朝の孫、政朝は多賀谷高経(祥賀)の孫、多賀谷和泉守(二代目祥賀)の専横を憎み、明応八(1499)年、下妻城主・多賀谷家稙と謀って多賀谷和泉守の居館を急襲し誅殺した。これで結城四天王と呼ばれた下妻城主・多賀谷氏、山川城主・山川氏、下館城主・水谷氏、岩松城主・岩松氏らと改めて結束した。
天文三(1534)年、下妻城の多賀谷家重は常陸小田城の小田政治と通牒し結城家からの独立を画策したため、結城政勝は山川城主・山川尾張守らに多賀谷家重討伐を命じた。山川尾張守は配下の手塚某を大将に多賀谷領に侵攻したが、多賀谷勢も豊田・岡田二群の兵を率いて抗戦、山川勢は撤退した。天文六(1537)年一月、多賀谷・小田連合軍は結城城攻撃のため山川領に侵攻、結城政勝は古河城の足利晴氏(古河公方)、弟で下野祇園城主の小山高朝らの援軍を得て反撃、小田政治の本陣を夜襲して多賀谷・小田勢の首級三百を挙げて下妻城に押し寄せたが、水谷治持の取り成しで多賀谷家重の甥の安芸守朝重を人質に差し出すことで和睦した。
永禄三(1560)年一月七日、結城晴朝が関宿城に在城する古河公方・足利義氏のもとに年賀拝礼に出かけた留守に下妻城主の多賀谷政経が離反、小田氏治・佐竹義昭・宇都宮広綱ら反北条陣営が結城城を攻撃、落城寸前に古河公方の調停で和睦した。
多賀谷氏は結城氏からの独立色を強め、佐竹氏らと同盟して反北条陣営として勢力を拡張、多賀谷重経は小田氏領にたびたび侵攻、天正四(1576)年に豊田城を攻めて豊田氏を滅ぼし、天正十四(1586)年には岡見氏の支城、谷田部城を陥とし、足高城をも攻め落とした。足高城主岡見宗治は牛久城に逃れたが、牛久城も落城、岡見氏は滅び、多賀谷領は常陸西南部から下総にかけて二十万石に達した。
天正十八(1590)年の小田原の役で多賀谷重経は豊臣秀吉の石垣山城に参陣し、下妻六万石を安堵されるが、結城氏の臣下に組み込まれた。文禄元(1592)年からの「文禄の役」では重経は病気と称して参陣せず、養子の宣家、弟の重康を肥前名護屋城に参陣させたが、秀吉の不興を買って所領の多くを没収、下妻城の破却を命じられた。
慶長五(1600)年、関ヶ原の役に際し、重経は佐竹義宣、石田三成らの西軍に加担し、会津征伐に向かう徳川家康の下野祇園城本陣を夜襲しようとして露見、多賀谷氏は改易された。
慶長十一(1606)年、徳川頼房が十万石で下妻城に封じられたが慶長十四(1609)年に水戸城へ移封、元和元(1615)年松平忠昌(結城秀康次男)、翌年には松平定綱が封じられたが、定綱が遠江掛川城に移封されると一時幕府直轄領となった。のちに井上氏が陣屋を構えたが、下妻城と違う場所だった。