孤軍奮闘、頑固オヤジ三楽斎

岩槻城

いわつきじょう Iwatsuki-Jo

別名:岩付城、白鶴城、浮城

埼玉県岩槻市太田

(岩槻公園)

城の種別

平城(水城)

築城時期

長禄元(1457)年 

築城者

太田道真・道灌

主要城主

太田氏、北条氏、高力氏、青山氏、阿部氏、大岡氏ほか

遺構

曲輪、土塁、空堀

岩槻公園の八ツ橋と沼<<2001年09月09日>>

歴史

長禄元(1457)年、古河公方足利成氏に対抗する扇谷上杉持朝が太田道真・道灌父子に命じて築城させ、寛正五(1465)年に完成した。太田道灌の甥で養子となっていた図書頭資忠が下総臼井城の合戦で戦死した後、資忠の弟、資家が城主となった。大永五(1525)年二月、江戸城を攻略した小田原城主・北条氏綱は岩槻城を攻め、城主資頼の家臣・渋江三郎を内応させ岩槻城を占領した。城を奪われた資頼は一旦武蔵石戸に逃れたが、享禄三(1530)年九月、渋江三郎を討って岩槻城を奪還した。資頼から家督を受け継いだ資時は密かに北条氏と気脈を通じ、天文十五(1546)年の川越城をめぐる攻防でも北条氏に義理を立てて出陣しなかったが、資頼の次男、資正は上杉方に参陣した。この頃、資時が病死したため、資正が岩槻城主となった。

天文十五(1546)年の河越夜戦で北条氏が武蔵から上杉勢を一掃した後も、城主・太田三楽斎資正は孤軍奮闘、一時期北条氏の傘下に入り、結城城主・結城政勝らとともに常陸小田城主・小田氏治と山王堂で激戦を展開したりしたが、永禄三(1560)年、上杉謙信の関東出陣に呼応し、翌年の小田原城攻撃では先鋒として活躍した。

永禄七(1564)年、第二次国府台合戦の敗北の後、資正が下野宇都宮城へ赴いている留守中に嫡子氏資が北条氏康に内応、弟政景との相続問題から資正・政景を追放し、北条氏へ属した。資正は常陸の佐竹氏を頼り片野城を与えられ武蔵奪還を狙ったが果たせなかった。岩槻城を奪取した氏資は永禄十年(1567)、三船台合戦で戦死、天正八年(1580)、北条氏政の弟・氏房が太田氏を嗣ぎ、岩槻城は北条氏の直轄となった。天正十四年(1586)以降、豊臣氏の上洛要請を無視したことで緊張が高まり、このときに大構え(惣構え)が拡張工事された。天正十八(1590)年の小田原の役では氏房は小田原城に入城し、岩槻城には城代・伊達与兵衛房実ら二千を置いたが、浅野長吉率いる二万の軍勢の前に激戦の末、降伏開城した。

家康の関東入封後は高力清長が二万石で入封、その後も江戸を守る要衝として青山忠俊や阿部正次等の譜代の幕臣クラスが入封した。大岡氏八代のときに廃藩置県で廃城となった。

戦国前期は古河公方勢と上杉勢の最前線として、戦国後期は北条氏と越後上杉謙信の取り合いの地として常に緊張下に置かれたお城です。なかでも太田三楽斎資正は、松山城をはじめとした周囲の諸城が北条氏の手に陥ちてもなお、頑固に反北条の立場を守りつづけ、挙句には息子に裏切られて追い出されてしまう、滑稽なようでなんとももの哀しい姿です。三楽斎資正は松山城の危機に際して、「軍用犬」を使用するなど、なかなかの智将ぶりを発揮する場面もありましたが、肝心の松山城城代の上杉新蔵人憲勝が越後軍の救援を待たずして開城してしまったことで謙信の逆鱗に触れ、あやうく成敗されかけたことも。その後、第二次国府台合戦での敗北を経て、前述のムスコの造反により「流れ武者」となり、どういう経緯かわかりませんが佐竹義重の庇護のもと、「客将」として常陸片野城を与えられて小田氏治らとの戦いの先鋒として活躍するのですが、肝心の岩槻城奪回は果たせずじまい。豊臣政権にも誼を通じるなど、またまた「智将ぶり」を発揮するはずでしたが、今一歩及ばず、というか、結局そのまま異国の地で生涯を終えることになってしまいました。やっぱりこの人、「智将」というキャラクターよりも、どことなく滑稽で最後はほんのり物哀しい、そんなキャラの方が似合う気がします。

岩槻城はその後、父を追って城主となった太田氏資が三船台で非業の死を遂げたこともあり、やがて北条氏より氏房を養子として迎えることにより、事実上北条領に併呑されます。高まる上方との緊張の中、岩槻城もその守備が強化され、全長9kmにもおよぶ「大構え」が構築されます。さすが小田原流、というところです。が、肝心の豊臣軍襲来に際しては、城主氏房が小田原城籠城に加わったことで城主不在となり、城代の伊達房実が奮戦するもわずか一日の攻防で開城を余儀なくされ、岩槻城に預けられていた多くの部将の妻子達は秀吉の本陣へと送還されていきました。秀吉はこれらの捕虜達を鄭重に扱ったということですが、小田原城籠城軍の動揺を誘い、戦意疎漏に一役買ったことは間違いないでしょう。

岩槻城跡は現在、一部が岩槻公園になっていますが、肝心の本丸はなんとショッピングセンターになってしまいました。公園の周囲に多数あるスポーツ施設や学校、住宅地などもみな岩槻城の一部です。もともとは元荒川周囲の湿地に浮かぶ城で、現在もわずかに沼地が残り、低湿地だったころの面影を残しています。また、新曲輪・鍛治曲輪周囲の空堀は遊歩道として整備されています。

見学当日は台風接近の影響で時折大粒の雨に攻撃されながらの見学。ま、忍城もそうでしたが、水の城には雨がよく似合います。しかしデジカメ濡らしたのはまずかったかな〜。

【再訪:2003.07.20】

この日、「お城めぐりメーリングリスト」他で知り合った11名のメンバーで、岩槻城周辺を歩いてみました。前回見ていなかった大構えの土塁、藩校である「遷喬館」なども見てきました。岩槻公園内の新曲輪・鍛冶曲輪から時の鐘や遷喬館附近まではかなりの距離があり、往時の岩槻城の広大さを改めて体感しました。近世三ノ丸であった市街地も、遺構と言えるものはほとんどないものの、かつての武家屋敷であったであろう街並みの雰囲気は意外と残っていました。遷喬館は昭和三十一年の再建(改修)ですが、現在傷みが激しく危険なため、立ち入りはできませんでした。大構えの土塁上は「愛宕神社」になっています。この神社が鎮座していてくれたおかげで、破壊を免れることができたみたいです。往時を偲ぶには物足りないかもしれませんが、北条氏が小田原式の惣構え城郭の技法と考え方を持ち込んだ、貴重な痕跡として見ておくのもいいでしょう。

沼地を利用した池に架かる八ツ橋。岩槻公園のある種のシンボルですね。小雨がパラついていたけど、それが逆にいい雰囲気でした。

かつて城を守る沼であった低地は見事に何の変哲も無い市民の憩いの場に。この芝生一帯がすべて湿地でした。

出丸である鍛治曲輪に建つ城址の碑。なんでこんなところにあるかというと、本丸は市街地化してしまったから(涙)。もっとも、道灌が築城したオリジナル岩槻城はこの鍛冶曲輪・新曲輪附近だったそうです。 有名な城の割には遺構は少ない。これは鍛冶曲輪を廻る空堀。結構深いですが往時はもう3mくらい深かったとか。
鍛冶曲輪の東側、元荒川に面した方面の堀。水路になっていますが、かつては湿地帯と繋がった水堀だったかもしれません。 左写真と同じく、「道灌橋」から見る堀。しっかり横矢もかかっています。

鍛冶曲輪周辺の土塁。

遺構は少ない、とは言っても決して見ごたえが無いわけじゃない。鍛冶曲輪、新曲輪周辺は馬出しなども伴っているため、堀は複雑でなかなか良い。

鍛冶曲輪から外の車道に出る部分の虎口土橋なんですが、あとでこの車道のあたりが馬出しだったことが分かりました。

新曲輪南側の堀。かなり藪化していてさすがに入る気は起きませんでしたが、かなり長大な堀です。

新曲輪周囲の土塁を曲輪内部から。ここから岩槻公園内の堀を見下ろすと、かなりの高さがあります。 新曲輪を貫く車道の脇に残る櫓台。
新曲輪付近の土塁と堀。いわゆる「比高二重土塁」です。堀はかつてはもっと深かったはずです。 埋め戻されてしまった障子堀の跡。なんで埋めちゃうんだよ〜!とは思うけど、保存のためにはこれが一番だったのかも。。。

公園から少し離れた空き地の片隅に残る湿地。公園内よりも意外と当時の面影を伝えてくれているのかも。

時の鐘近くの、何の変哲もない住宅地の交差点に突然現れた「大手口」の碑。公園からは結構な距離がある。やっぱり相当広かったらしい。

公園から1kmほど離れた住宅地の中に復原された時の鐘。なかなかカッコイイ。 移築現存している長屋門形式の通称・黒門。大手門であったと伝えられているそうですが、多分そうではないでしょう。
黒門の近くに同じく移築現存されている裏門。 近世岩槻藩の藩校であった遷喬館。建物の傷みが激しく立ち入りはできなくなっていました。
岩槻公園からかなり離れた、岩槻駅近くにある愛宕神社。ここが北条氏が構築した、大構え土塁を残す唯一の遺構です。 城の東を流れる元荒川。堤防らしい堤防もなく自然河川の雰囲気を残す。でも治水は大丈夫なのかな?

 

 

交通アクセス

東北自動車道「岩槻」ICより車15分。

東武野田線「岩槻」または「東岩槻」駅徒歩15分。

周辺地情報

 

関連サイト

関宿合戦」の頁もご覧下さい。

 
参考文献 「日本城郭大系」(新人物往来社)、「戦国関東名将列伝」(島遼伍/随想舎)、「真説戦国北条五代」(学研「戦国群像シリーズ」)、「歴史読本2001.12月号」(新人物往来社)、「日本の城 ポケット図鑑」 (西ヶ谷恭弘/主婦の友社)、「日本名城の旅 東日本編」(ゼンリン)、「埼玉の古城址」(中田正光/有峰書店新社)

参考サイト

埼玉の古城址北条五代の部屋

 

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