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名族小山氏の栄枯盛衰を偲ぶ

祗園城

                                                  

ぎおんじょう Gion-Jo

別名:祇園城、小山城

堀切と祗園橋

<<2003年06月15日>>

所在地

栃木県小山市城山町

埋もれた古城マップ:栃木編
交通アクセス

東北自動車道「佐野藤岡」IC車20分。

JR東北新幹線・東北線・水戸線「小山」駅から徒歩10分。

行き方・注意点

観晃橋東詰の「城山公園」を目指す。城山公園から天翁院付近にかけて広大な範囲に遺構を残す。公園にはPが無いので市役所等のP利用を推奨。

【基本情報】

築城年 平安末期(?) 主要遺構 曲輪、土塁、堀切、馬出し
築城者 小山政光(?) 標/比/歩 標40/比10/歩10
主要城主 小山氏、北条氏、本多氏 現況 公園、寺院

【歴史】

祗園城の歴史

【雑感】

毎度のことで恐縮なのですが、ここもあまり期待していなかったのですが、遺構の状態のよさに驚くことになりました。小山といえば首都圏に十分通勤できる近郊都市で、工場なども多く建ち並んでいる街なので、祗園城も例の「祗園橋」周辺の主郭部分くらいしか見所がないんじゃないの?なんて勝手に決めつけていましたが、各曲輪とそれらを断ち切る堀切や土塁、馬出しなどが非常に良く残されています。もちろん欠損している部分もありますが、公園化に伴って遺構の多くが破壊されてしまう場所が多い中で、よくここまで残ったものです。。もう少し要所要所の標柱や解説が充実しているといいのですが・・・。

名族・小山氏も室町期には「小山義政の乱」で一度滅亡し、結城泰朝系の小山氏(重興小山氏)が再興された後も、北条VS上杉の抗争の中で苦しみ、祗園城周辺も何度も戦乱に襲われています。特に北条氏照が北関東攻略の基地として駐屯してからは「境目の城」としての役割を負うことになってしまい、必然的に常時緊張状態に置かれることとなります。哀れなのは小山氏、名族もすっかり「境目の領主」という、どっちに転んでも損な役回りを演じさせられ、「小田原の役」当時は北条に与していたがために滅ぼされ・・・しかも祗園城を襲ったのは小山秀綱の弟、結城晴朝。小山氏だって好き好んで北条に組していたわけでもないんでしょうが、これも「運命」というものなのでしょうか。。。

ところで、初期の小山氏の本城がどこだったかについては諸説あり、この祗園城のほかにも近隣の鷲城中久喜城宿城などが候補に上げられています。共通しているのは三度に渡る「小山義政の乱」の二度目の挙兵の時には鷲城の攻防が中心だったこと、戦国後期には祗園城が居城となっていたこと、です。もともとの本城がどれだったかはソレガシもわかりませんが、現在の小山の街そのものがこれらの城に囲まれた「城砦都市」とでも言える物で、どれが本城かを云々するより、これらの支城郡をひっくるめた「小山城」全体が居城だったと考えるべきなのかも知れません。

主郭と、L字型の二郭は欠損はあるものの土塁が取り巻いており、とくに祗園橋付近は非常に高さのある重厚な土塁が見られます。特徴的な遺構としては、主郭と二郭の間の思川に面した小曲輪。一応「馬出し」であるとされているようですが、現在「祇園橋」が架かっている場所を主郭虎口とすれば、この馬出しを通らなくても二郭から直接主郭に向かうことができるため、あまり馬出しの意味をなしていない、やや不自然な位置にあるという気がします。この馬出しとされる曲輪は、主郭に対する馬出しではなく、思川の舟付場に向っての馬出しである、という説もあります。そもそも各曲輪の関係も、「どれが主郭なんだ云々」というのも人によって見解が分かれるようですし、小山氏が居城としていた時代と北条氏照が大々的に改修を行ってからでは各曲輪の持つ役割も変化していったかも知れません。ちなみにこの祗園城は土橋の遺構はほとんどなく、主要な曲輪の間は曳き橋で連結されていたと推測できます。

もう一つの特徴は思川に面した舟付場らしき場所の存在。二郭の崖に面した側に、堀切状のくぼ地がありますが、これが舟着場と考えられ、川に面したこの城の立地を生かした機能といえます。主郭と二郭を断ち切る堀切がかつての結城道だとも言われ、その先の建物が建つ付近が舟着場だとも言われますが、これも民間用の舟着場と軍事用のものが分かれていた、と見ることもできます。思川に面したこうした水運を物語る場所は、下流の古河城や関宿城との密接な関係をも想像させるものがあり、北条氏の北関東侵攻にあたって水運というものが如何に重要な要素を占めていたかを想像させます。結城道が貫通している、というのもこの城の立地を際立たせています。これまで見てきた山中城、足柄城、長井坂城など、こうした北条氏系の街道監視用の城ではよく見られる手法です。こうして見ると、今目にすることができる祗園城というのは、小山氏の、というよりもむしろ、北条氏の北関東攻略への足跡である、と見るべきなのかもしれません。

思川の対岸から見る祗園城。最大城域は1km四方にも及ぶ大城郭でした。現在は「城山公園」を中心に西側の思川に面した部分の遺構がよく残ります。 城山公園南側の曲輪。現地の解説板によれば本丸(主郭)、「日本城郭大系」によれば二郭です。ここでは仮に主郭としておきます。
城内から見る景色。下流に、長福城、鷲城を望む。思川に面して連なる「小山氏城郭群」が一望に。 主郭の周囲に残る土塁。北側に行くほど高く重厚になっていました。川に面した側にも土塁があるのが意外な気がします。
主郭から祗園橋へ向かう入り口。高い土塁が見所です。ここが本来の虎口だったかどうかはわかりません。 祗園城のある種のシンボルである祗園橋。深く雄大な堀切を渡ります。
祗園橋から見る堀切(東側)。堀切は深く幅も広く、現在は車道にもなっています。 アジサイが咲く堀底から見る堀切と祗園橋。折れはなく一直線の堀切です。
祗園橋から堀切の西側、思川方面を見る。この堀底をかつての結城道が走っており、向こうの建物の付近に船着場・渡しがあったと思われます。 仮称二郭西南の「馬出し」とされる曲輪。が、二郭から祗園橋を経て主郭に入るルートからは外れています。馬出しというより、やっぱり曲輪のひとつと見る方がいいんじゃないかなあ?ちなみに「城郭大系」ではここが本丸とされています。
仮称馬出しの周囲を巡る堀。かなり埋まっているとは思いますが、それでもなかなか大規模なものです。 芝生公園となっている二郭(「上段やぶ」)の土塁。
二郭北西に川に面して見られる窪地。ここを舟着場と見る見方がありますが、その通りではないかと思います。 二郭と三郭の間は深い溺れ谷を利用した天然の堀切。ここまでが小山氏時代の祗園城ではなかったかと思います。
「塚田郭」と称される三郭。ここも土塁がよく残っています。写真の位置は枡形に見えます。 三郭と四郭の間の堀。堀底道も兼ねていたのでしょうか、他の堀に比べてかなり浅くなっています。四郭はほとんど宅地化しています。
三郭「塚田郭」の北側の堀切も非常に規模が大きく、折歪みも見られます。ここは戦国末期の拡張、つまり北条氏の改修を受けた部分と推察します。 左の堀切は東に向かって長く延びており、その先は非常に幅広くなっています。ここは現在、ゲートボール場として利用されていました。
小山氏累代の墓地の裏手には正真正銘の馬出しがあります。これこそ北条流の縄張りを感じる場所でしょう。 左の馬出し周囲の素晴らしい堀。しかし雨上がりで足元が滑る滑る・・・。
小山氏累代の墓地のある天翁院の裏手の曲輪。一部でトレンチが切られており、何らかの発掘が行われている模様でした。 この天翁院曲輪が城域の北限と見ていいでしょう。北側にはさほど大きくは無いものの土塁が見られます。
北限の空堀は深くはなく、幅も狭いですが長さは200mほどもあります。 天翁院の小山氏累代の墓所。幾多の戦乱に見舞われた名族小山氏も今はここで静かに眠る。
二郭東側の道路はいかにもかつての堀であったような雰囲気を持っています。 城域東側の「南久保郭」付近は完全に市街地化していますが、この一段低い道路は堀らしき面影を持っています。このあたりは本多氏による近世の拡張ではないでしょうか。
県道を挟んで南東に位置する「太鼓郭」付近は城塁の名残を残しています。 小山市役所内の「小山評定跡」。小山氏とも北条氏とも別な次元で、歴史が大きく動いた場所です。
訪城記録

(1)2004/04/24

(2)2004/12/26

(3)2007/05/12

 

参考サイト

余湖くんのホームページ日本を歩きつくそう!

参考文献

「鷲城・祗園城・中久喜城」(鷲城・祇園城跡の保存を考える会/随想舎)

「戦国関東名将列伝」(島遼伍/随想舎)

「日本城郭大系」(新人物往来社)

「結城一族の興亡」(府馬清/暁印書館)

「結城氏十八代」(石島吉次/筑波書林)

「関東管領・上杉一族 」(七宮達三/新人物往来社)

推奨図書

鷲城・祇園城・中久喜城―小山の中世城郭 (ずいそうしゃ新書 (2))

小山氏の歴史と周辺の城郭を知る基本の一冊。

周辺地情報

思川に面した長福城鷲城など。とくに鷲城は必見。城域北部の天翁院には小山氏累代の墓所、市役所Pには関ヶ原合戦時の小山評定の石碑がある。こちらも必見。