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思川の対岸から見る祗園城。最大城域は1km四方にも及ぶ大城郭でした。現在は「城山公園」を中心に西側の思川に面した部分の遺構がよく残ります。 |
城山公園南側の曲輪。現地の解説板によれば本丸(主郭)、「日本城郭大系」によれば二郭です。ここでは仮に主郭としておきます。 |
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城内から見る景色。下流に、長福城、鷲城を望む。思川に面して連なる「小山氏城郭群」が一望に。 |
主郭の周囲に残る土塁。北側に行くほど高く重厚になっていました。川に面した側にも土塁があるのが意外な気がします。 |
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主郭から祗園橋へ向かう入り口。高い土塁が見所です。ここが本来の虎口だったかどうかはわかりません。 |
祗園城のある種のシンボルである祗園橋。深く雄大な堀切を渡ります。 |
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祗園橋から見る堀切(東側)。堀切は深く幅も広く、現在は車道にもなっています。 |
アジサイが咲く堀底から見る堀切と祗園橋。折れはなく一直線の堀切です。 |
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祗園橋から堀切の西側、思川方面を見る。この堀底をかつての結城道が走っており、向こうの建物の付近に船着場・渡しがあったと思われます。 |
仮称二郭西南の「馬出し」とされる曲輪。が、二郭から祗園橋を経て主郭に入るルートからは外れています。馬出しというより、やっぱり曲輪のひとつと見る方がいいんじゃないかなあ?ちなみに「城郭大系」ではここが本丸とされています。 |
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仮称馬出しの周囲を巡る堀。かなり埋まっているとは思いますが、それでもなかなか大規模なものです。 |
芝生公園となっている二郭(「上段やぶ」)の土塁。 |
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二郭北西に川に面して見られる窪地。ここを舟着場と見る見方がありますが、その通りではないかと思います。 |
二郭と三郭の間は深い溺れ谷を利用した天然の堀切。ここまでが小山氏時代の祗園城ではなかったかと思います。 |
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「塚田郭」と称される三郭。ここも土塁がよく残っています。写真の位置は枡形に見えます。 |
三郭と四郭の間の堀。堀底道も兼ねていたのでしょうか、他の堀に比べてかなり浅くなっています。四郭はほとんど宅地化しています。 |
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三郭「塚田郭」の北側の堀切も非常に規模が大きく、折歪みも見られます。ここは戦国末期の拡張、つまり北条氏の改修を受けた部分と推察します。 |
左の堀切は東に向かって長く延びており、その先は非常に幅広くなっています。ここは現在、ゲートボール場として利用されていました。 |
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小山氏累代の墓地の裏手には正真正銘の馬出しがあります。これこそ北条流の縄張りを感じる場所でしょう。 |
左の馬出し周囲の素晴らしい堀。しかし雨上がりで足元が滑る滑る・・・。 |
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小山氏累代の墓地のある天翁院の裏手の曲輪。一部でトレンチが切られており、何らかの発掘が行われている模様でした。 |
この天翁院曲輪が城域の北限と見ていいでしょう。北側にはさほど大きくは無いものの土塁が見られます。 |
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北限の空堀は深くはなく、幅も狭いですが長さは200mほどもあります。 |
天翁院の小山氏累代の墓所。幾多の戦乱に見舞われた名族小山氏も今はここで静かに眠る。 |
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二郭東側の道路はいかにもかつての堀であったような雰囲気を持っています。 |
城域東側の「南久保郭」付近は完全に市街地化していますが、この一段低い道路は堀らしき面影を持っています。このあたりは本多氏による近世の拡張ではないでしょうか。 |
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県道を挟んで南東に位置する「太鼓郭」付近は城塁の名残を残しています。 |
小山市役所内の「小山評定跡」。小山氏とも北条氏とも別な次元で、歴史が大きく動いた場所です。 |