家族連れで賑う古河総合公園の一角に「御所沼」という湿地があり、そこに半島状の台地が突き出しています。これが「享徳の大乱」からその死まで四十年にも渡って関東を揺さぶった「関東の爆弾男」、古河公方・足利成氏の館跡です。足利成氏の父・鎌倉公方四代の持氏は、ことあるごとに野心を抱き、室町幕府に反抗姿勢を示します。「上杉禅秀の乱」では幕府は持氏を支持するものの、あまりの横暴ぶりに時の将軍、「くじ引き公方」の足利義教が激怒、持氏は「永享の乱」で滅び、その遺児を奉じて結城城で挙兵した結城氏朝・持朝父子も滅ぼされ、遺児の安王丸・春王丸も斬殺されます。しかし、四男の永寿王丸は匿われ、やがて鎌倉公方の復活を願う関東諸将の後押しを受ける形で永寿王丸は鎌倉公方に就任します。これが成氏です。しかし、成氏は「父の仇」とばかりにわずか十三歳の関東管領・上杉憲忠を殺害し、武蔵高安寺を本陣に、京の室町幕府の支持を得た上杉勢と対峙します。緒戦は成氏勢が優勢で、上杉勢は常陸小栗城まで敗走しますが、やがて幕府追討軍の総大将、今川範忠が鎌倉に討ち入ったことによって成氏は下総古河に落去します。これが関東を震撼させる「古河公方」の生い立ちであり、以後140年近くにわたって、この地は関東擾乱の震源地となります。もっとも、成氏がこの館に住んだのは二年間ほどで、ほどなく渡良瀬川に面した下河辺氏の古い城館を改修してそちらに移ります。これが古河城です。ですから、この仮の館を中心にした騒乱の時期は約二年間ほどであるようです。
この成氏、北関東諸将の支持を得て、なかなか戦には強かったようで、上杉軍は苦戦を強いられます。そんな中で上杉軍を引っ張って各地を転戦したのがおなじみ、太田道灌です。道灌は成氏や、山内上杉氏の家宰職相続で対立した長尾景春らと各地で戦いを繰り広げました。結局、古河公方は幕府を仲介に和睦(この、非合法地方政権を中央政府が和睦の斡旋をする、という矛盾!)、景春の乱も鎮撫されて、いっとき関東に平和が訪れるかに見えましたが、道灌は相模糟谷の館であろうことか主君の扇谷上杉定正に暗殺され、その後は山内・扇谷両上杉氏の対立、古河公方内部の対立、その間隙を縫って北条氏の台頭、などに連なってゆきます。そのすべてのはじまりが、この足利成氏と言う男(とその父持氏)にあったと言ってもいいでしょう。そもそも、この古河という地は水運の要衝でもあり、また付近には足利氏直轄の御領所が集中していることから、成氏の古河移座は落去などではなく、もっと積極性を持ったものだったかもしれません。「成氏像」とかは見たことが無いので現存するかどうか知りませんが、何となく「一見単純でキレやすいように見えて、実はしたたかな計算ずくで動く底意地の悪い小悪党」っぽい面相を勝手に想像しています。ちなみに僕はこういう、ヒネクレた思考回路を持つキャラクターが結構好きです。
もうひとり、最後の古河公方となった足利義氏の息女、氏女にも触れておきましょう。彼女は、小田原の役ののち、秀吉に命じられてこの鴻巣御所に移り、やがて小弓公方・足利義明の孫に当たる国朝との婚姻を命じられ、喜連川氏のもととなりました。国朝の姉、嶋子が秀吉の側室となったことで、名門足利氏に存続の道が開かれたのです。しかし、国朝はその二年後に死去し、国朝の弟、頼氏と再婚、一子義親を設けた後、父祖伝来の悲喜こもごもが籠ったこの鴻巣御所でその生涯を閉じました。喜連川氏として足利氏の名跡を残したとはいえ、その人生は波乱に満ちたものであったでしょう。氏女の墓は鴻巣御所のすぐ隣、徳源院跡の片隅で、父義氏、子義親らとともに、ひっそりと佇んでいます。
遺構は、わずかの堀と土塁のみですが、明瞭に残っています。周囲の御所沼は近年に復原されたものですが、自然の湖沼地帯のような雰囲気を感じさせてくれます。この半島状台地は狭く、ほんとにこれだけの規模しかなかったのかどうかは疑問も残ります。