はじめてここを訪れたとき、中世の山城とか、崖端城とかを中心に見てきたソレガシにとって、中世の城郭遺構で、これほどまっ平らな平城はちょっとしたカルチャーショックでした。これまで見てきた平城は、多かれ少なかれ丘だったり多少の微高地だったりしたのですが、ここは完全な平城です。現存する屈指の中世平城遺構と言えるでしょう。主郭は方形で、もともとは典型的な中世の方形武士館だったのでしょうが、南北朝期から戦国期にかけての相次ぐ戦乱の中で拡張に拡張を重ねて、「前山」の外郭線を含む広大な城に発展していったのでしょう。まあ、殆どは農地になってはいますが、それでも地形がハッキリ残っていますからね。
現在は史跡公園化に向けての発掘調査と整備を行っている途中とのことで、たまたま発掘作業の方にもいろいろお話を聴くことが出来ました。それによれば、一部の堀が障子堀であったらしいこと、堀には水のある時期と無い時期があったらしいこと(水堀というより泥田堀)、堀の間を木橋で繋いでいたらしいことなどが分かっているそうです。曲輪間を結ぶ土橋も最近発掘されたそうです。
ただ、堀跡はよく残っている反面、土塁は殆ど崩れていたり、主郭のど真ん中を関東鉄道が走っていたり(現在は廃線)で、かなり遺構が失われていることも事実のようです。外郭線にあたる前山にも堀切などがあるらしいですが、発掘調査員の人によるとブッシュが密生していて歩けたものじゃないとのこと(行ってきましたがホントにヤブだらけでした)。
有名な「神皇正統記」は、北畠親房がここ小田城に滞在しているときに書かれたといわれています。北畠はもともと学問で朝廷に仕える中級公家の一族でしたが、この南北朝の動乱期は南朝方の一勢力として、武家顔負けの活躍をしていました。とくに親房の子、「花将軍」と呼ばれた顕家は鎮守府将軍として奥州方面の鎮撫や建武二(1335)年、足利尊氏を京都から九州に敗走させた合戦などで大活躍しました。親房は顕家の死後も南朝の中心的人物として東国を中心に活動し、小田治久に招かれてこの小田城に入城、以降、暦応四年(1341)に高師冬に小田城を追われるまで、南朝方の中心地になりました。武家にも負けぬ縦横無尽の活躍ですが、しかしそこはさすが学問の家、親房は後醍醐天皇の崩御(延元4年:1339年)後、新帝・後村上天皇に献上するために戦地であるこの地で「神皇正統記」を執筆したそうであります。主郭の南端にあたる櫓台「涼台」脇には、「神皇正統記起稿之地」の石碑が建っています。ただ、「公家一統政治」という理想論はやはり武士の間では広く受け入れられることはなく、南朝方の分裂(藤氏一揆)などで小田治久も最後は降伏せざるを得ない状況でした。治久としてはのちにこの降伏をかなり後悔したようですが、一方の親房は長年に渡る「戦友」であり最大の庇護者であった治久を「万代の恥辱を表す」などと罵っているくらいですから、所詮は公家的な理想論と武士的な価値観は相容れなかったのかもしれません。
小田氏最後の城主は小田氏治でしたが、佐竹・多賀谷らの南進と北条氏の勢力拡大のもと、間に立たされた氏治は去就が定まらず、上杉謙信や佐竹義重、太田三楽斎らに攻められ三度落城しています。やはり、名門といえども時代の波には太刀打ちできず、苦悩の末に滅亡していきました。この滅亡に至る苦悩の模様は「小田天庵記」などの軍記物では面白おかしく脚色されて伝わっています。個人的には北条・上杉らの大勢力の狭間に立ち、かつ佐竹・多賀谷・結城などの近隣諸勢力との関係の中で苦しんだ小田氏には「境目の領主」に近い苦悩を強いられていただろうとも思え、多少同情的になってしまいます。まあ、小田氏治という人は少なくともいくさは下手だったみたいですが、ソレガシ的には「判官びいき」とでもいうか、こういう負けっ放しの人というのも嫌いではありません。
小田城はソレガシはその後も何度も訪れています。その都度、新しい発見があったり、変わりゆく姿に一喜一憂したりしています。毎年十二月には発掘調査現地説明会なども行っていますので、足を運んでみるといいでしょう。なお主郭周囲の堀は雨の多い夏は水堀の様子が再現されますが、冬はほとんど水が無くなります。隅々まで歩くなら堀を横切ることが出来る冬を、満々と水の張った堀の姿を見たいなら夏をオススメします。
[2004.09.04]