下野守護の宇都宮氏の一族の八田氏が鎌倉初期に常陸守護職につき、小田城を本拠地とし、建久四(1193)年には旧勢力の多気氏を失脚させ、安定した基盤いた。
四代時氏から、地名に因み小田氏を称した。
延元三(暦応一・1338)年、南朝方の北畠顕家が戦死した後、その父・北畠親房は伊勢から船で東国に向かい、海上で大風に遭って常陸東条浦に着岸、はじめ神宮寺城を拠点としたが形勢が思わしくなく、阿波崎城を経て常陸の有力勢力であった小田治久を頼り小田城に入城、以後、東国における南朝方の中心拠点となった。
延元四(1339)年、後醍醐天皇が崩御し新帝後村上天皇が即位すると、新帝に献上するため親房は「神皇正統記」をこの小田城で著した。暦応四(興国六・1341)年六月、北朝の高師冬が宝篋山に陣取って小田城を攻めたが落城せず、十一月、師冬は懐柔策により和議開城させた。親房は開城直前に常陸関城に移って抗戦した。師冬は小田治久との和議の後、北朝軍の優勢をバックに和議条件を破棄し、小田氏の官位・守護職・所領は常陸の佐竹氏に与えられ、小田氏の勢力は衰えた。
康暦二(1380)年に勃発した「小山義政の乱」では、小田孝朝は足利関東公方・氏満に従っていたが、小山義政の没後、義政の子・若犬丸が反乱を起こし、一時祇園城に立て籠もったがその後逃亡、嘉慶元(元中四・1387)年五月、小田孝朝に小田城で庇護されている事が発覚した。七月十九日、氏満は上杉朝宗を大将に小田城を攻め、孝朝は降伏したがその子治朝・小田五郎らが若犬丸を匿って常陸難台山城に籠城、八ヶ月の攻防の後、難台山城は落城し、若犬丸は逃亡、治朝は那須資之に預けられた。小田五郎は郎党百名あまりとともに討ち死にした。
戦国期、小田氏治は越後長尾(上杉)氏・佐竹氏らと結び北条氏と結んでいた結城氏・多賀谷氏らと対抗した。弘治二年(1556)、北条氏康は下総結城城の結城政勝の援軍として江戸城代の遠山・富永、岩槻城の太田資正らを結城城に派遣、関宿城の簗田氏や下野の壬生氏、那須氏、奥州白河結城氏らが結城連合軍に加わって、海老ヶ島城を攻撃したのを契機に小田氏治が出陣、山王堂付近で激突したが結城連合軍が優勢で、氏治は敗走し、小田城も陥とされ家臣の菅谷氏の守る常陸土浦城まで撤退した(第一次山王堂合戦・海老ヶ島合戦)。謙信の関東出陣後はこれに従い転戦したが、小田氏治はその後、北条氏の調略に応じて謙信に叛いた。永禄七(1564)年、上州厩橋城に駐屯していた謙信は寝返った氏治を討つべく山王堂付近に進軍、越後・佐竹連合軍との間に合戦となり、氏治は再び敗走し小田城に籠城したがこれも陥とされ、土浦城に退いた(第二次山王堂合戦)。
永禄十二(1569)年、北条によって岩槻城を追われ、佐竹義重に庇護されていた、片野城主・太田三楽斎資正と柿岡城主・梶原政景親子を攻めるべく軍を進めたが、資正親子は真壁城の真壁氏幹らの援軍を得て筑波山麓の手這坂でこれを打ち破り、またしても氏治は小田城を追われ、その後復帰することはなかった(手這坂合戦)。小田城には梶原政景が城代として置かれ、土浦城・木田余城に逃亡した小田氏を追い詰めていたが、天正六(1578)年、土浦城に逃れていた氏治は佐竹義重に子を人質にさし出し降伏した。その後、天正十二(1584)年に小田城代の梶原政景が北条に内通し、佐竹義重に攻められたという。
慶長五(1600)年には佐竹氏の配下の小場義成が城主に任じられたが、慶長七(1602)年、佐竹義宣は関ヶ原合戦での去就を徳川家康に咎められ、秋田に転封になると同時に小田城は廃城となった。