利根川と江戸川が合分流する地点の微高地に築かれ、水に守られた要害であるとともに古くから水上交通の要衝として栄えました。現在は、河川改修とスーパー堤防によって城地の殆どは河川や堤防の下になっています。まあ、治水を考えればしかたのないところです。この河川改修によって、川の流れも変えられたため、当時の地勢とはかなり異なっていますが、大河が合分流する水郷地帯であり、交通上の要衝であっただけでなく軍事的にも非常に重要な地点でした。北条氏康は「関宿城を獲ることは一国を獲ることに等しい」とまで言っています。この関宿と切っても離せない人物が古河公方と、その側近中の側近であった簗田氏。古河公方家や簗田氏をめぐる情勢は上記の歴史でも書いたとおり非常に複雑ですが、簗田氏に関しては一貫して「古河公方」に与していた筆頭家老であったことが重要で、「北条・反北条」というカテゴリで捉えるよりも、つねに「古河公方という役職を持つ人物」と行動をともにしていると見たほうがわかりやすいでしょう。北条としては関東の完全制圧のためには、この古河公方の権威を利用する必要があり、そのためにはこの簗田氏をひきつけ、古河城と並んで重要な関宿城を手中に収める必要がありました。簗田氏に対して、時には懐柔し、時には恫喝して、なんとかこの関宿城を手に入れようとしています。華々しい戦歴などはあまりない簗田氏ですが、関東の戦国時代を紐解く上で、非常に重要な地位を占めたことは疑いありません。
現状は前述のとおり、ほとんどの城地が河川改修により川とスーパー堤防の下に埋没し、わずかな痕跡を残すに過ぎません。まあ、これも関東一帯の治水という安全上の問題を考えれば、止むを得ないところでしょう。遠くからでもはっきりと見える模擬天守形式の建築物は千葉県立関宿城博物館です。御三階櫓を模した関宿城博物館のテーマは「治水と利水」。城マニアにはあまり興味の無い分野かもしれませんが、それなりに展示は充実していました。
いまや河川の流れも変わり、そこに城があったことを教えてくれるのはわずかの曲輪跡になってしまいましたが、水上交通の要衝であったことは十分にうかがえる風景で、なんとなく満足してしまいました。利根川を渡って東側の逆井城には薬医門が移築現存しています。なお、城下には埋門や殿社の一部が移築現存されているそうです。見逃した〜!
【再訪:2003年06月01日】
というわけで、見逃した埋門やら本丸御殿やら、その他もろもろを見学しに、雨の中行って来ました。そしてこの日の最大の成果は、関宿城から遠く離れた栃木県下都賀郡石橋町に移築されたという「伝・関宿城城門」を見たこと。この城門の情報は小山市在住の鳥居さんから頂いたメールによるものです。鳥居さん、有難うございました。その城門はなんと、国道沿いのとんかつ屋の敷地内にありました。長屋門形式の立派なもので、裏手に回るとこの門の由来が書かれていました。それによると、「寛延元(1748)年、関宿城主であった久世出雲守広明(幕府老中・京都所司代)の時代に大手門として築かれ、慶応・明治の倒幕の時代、時の城主久世隠岐守広文が幕府方に加担し、その際に幕府の命により戦費調達のため、もろもろの物資とともに川の対岸(埼玉県鷲宮)の資産家に売られた、昭和五十三年に近江弘氏の手のよって現在地石橋町に移築された」とのこと。これが本当だとすれば、なんと百三十年もの間、「出世城」関宿城の大手門を務め上げた、由緒正しい門、ということになります。明治の廃藩置県では多くの城郭は「カネ食い虫」「お荷物」として解体され、あろうことか風呂の薪材などとして消えていったものも多くあるのですが、この城門は「戦費調達」のために資産家に売られたといいます。そんな末路もあったのか!でも、当時の資産家って城主よりも裕福だったのかなあ??そして紆余曲折の末、現在は石橋町下石橋134-1「とんかつ合掌」敷地内に移築されています。この「とんかつ御門」、建築遺構を見分ける目を持たないソレガシですが、門の規模といい構造といい、そこら辺の農家の門でないことは見て感じました。場所は国道四号の旧道沿い、東北本線と国道の間に挟まれたここらへんです。とんかつ屋さん自体、結構目立つので気をつけて探せば見落とすことはまずないでしょう。