一国にも等しい戦略価値の要衝

関宿城

せきやどじょう Sekiyado-Jo

別名:

千葉県東葛飾郡関宿町関宿

(千葉県立関宿城博物館)

城の種別

平城

築城時期

長禄元(1457)年   

築城者

簗田成助

主要城主

簗田氏、松平氏、小笠原氏、久世氏ほか

遺構

曲輪、土塁、模擬御三階櫓(関宿城博物館)、移築現存門2基

スーパー堤防から見た本丸跡と模擬御三階櫓遠景<<2001年7月22日>>

歴史

長禄元(1457)年、側近の簗田成助が古河公方足利成氏の命で築城したと言われるが、永享十二(1440)年に勃発した結城合戦では、関東公方・足利持氏の遺児を奉じて結城城に籠城した結城氏朝・持朝父子に呼応して、下河辺一族が関宿城で挙兵したという記録もある。

享徳三(1454)年に勃発した享徳の大乱で足利成氏が古河に移座して古河公方を名乗ってから、簗田氏は代々古河公方家と血縁を結び、筆頭家老となった。永正三(1506)年、古河公方・足利政氏とその子・高基に内紛が発生、その際、関宿城の簗田氏も父政助、子高助が争った。永正六(1509)年に一旦和睦し政氏は古河城に復帰するが、翌永正七(1510)年、再び対立し、一時高基は関宿城に移座した。高基は永正九(1512)年古河城に復帰し公方となった。このころ、下総・武蔵に勢力を拡めていた小田原城主・北条氏綱は高基に接近、高基は弟で下総小弓城で勢力を伸ばしつつあった小弓公方・足利義明との対立から子の晴氏と北条氏綱の娘を娶わせることを容認するが、北条氏の介入を嫌う晴氏は天文四(1535)年高基の死後、宿城の簗田高助の娘を娶った。天文七(1538)年の第一次国府台合戦で北条氏綱が大勝し小弓公方・足利義明が戦死すると、北条氏は下総をほぼ制圧、圧力に屈して翌天文八(1539)年、晴氏は氏綱の娘(芳春院殿)を娶らざるを得なくなった。この時期、北条氏綱・氏康父子は関宿城の簗田高助・晴助父子を懐柔するために起請文を発給している。しかし天文十五(1546)年の河越夜戦では晴氏は反北条の山内・扇谷両上杉氏の勢力に合流するが大敗、北条氏は晴氏を難詰し、古河公方家および関宿城の簗田氏に圧力を高めた。天文二十一(1551)年、晴氏は北条氏の圧力に屈し、簗田高助の娘との間に生まれた藤氏を廃嫡し、北条氏綱の娘との間に生まれた義氏に家督を相続するが、これを不快とした晴氏は天文二十三(1554)年に古河城で挙兵した。しかし古河城は北条氏により鎮圧され、晴氏は相模波多野に幽閉され公方となった義氏は小田原に移された。これに不満をもつ簗田晴助を懐柔するために義氏は起請文を発給している。北条氏は簗田氏の勢力を弱め、古河公方家への介入を強めるため、永禄元(1558)年、北条氏の画策により足利義氏が小田原から鎌倉経由で関宿城に移座し、かわりに簗田晴助には古河城が与えられた。簗田氏にとっては不本意な関宿城明け渡しであったが、北条氏康は簗田晴助に対し、関宿城明け渡しを賞賛する書状を発行し懐柔している。

永禄三(1560)年に上杉謙信が関東に出陣、翌永禄四(16561)年に小田原城を攻めた。謙信は北条氏の血を引く義氏を追い、嫡流の藤氏に古河公方を嗣がせようと画策、簗田氏に接近し、簗田氏は謙信の意を受けて古河城に藤氏、前関東管領上杉憲政、関白近衛前久らを招きいれた。関宿城にいた義氏は、危険を避けるため下総小金城上総佐貫城に逃れた。しかし永禄五(1562)年には北条氏が古河城をふたたび奪還、北条氏康は簗田晴助を関宿城に戻し、古河城にいた藤氏は里見義堯を頼り逃亡した。

永禄七(1564)年、第二次国府台合戦で里見義弘、太田資正らは大敗し、北条氏は下総を制圧、岩槻城の太田資正の子、氏資の内応で岩槻城も入手すると、北条氏は簗田氏に対する圧力を高め、永禄八(1565)年、江戸城岩槻城を拠点に関宿城を攻撃する(第一次関宿合戦)。北条氏康らは城下を焼き払うところまで肉薄したが簗田氏のゲリラ戦の前に敗北し一旦撤退、永禄九(1566)年に足利藤氏が没したこともあり永禄十(1567)年には一旦和睦した。

しかし永禄十一(1568)年、滝山城主・北条氏照が野田氏の下総栗橋城を接収、ここを拠点に再び関宿城の攻撃が始まった(第二次関宿合戦)。しかし、武田信玄による駿河侵攻とそれに伴う甲相駿三国同盟の破棄、翌年の相越和睦により攻撃は中止された。簗田晴助は藤氏の弟・藤政を擁立し武田信玄と接近した。元亀二(1571)年に相越和睦が破棄されると簗田氏は孤立した。天正元(1573)年に北条氏照が関宿城を夜襲するが失敗、天正二(1574)年には北条氏政・氏照兄弟の二万の兵が関宿城を包囲した(第三次関宿合戦)。簗田持助は佐竹義重・上杉謙信らに救援を求めたが、利根川の増水や、太田金山城主・由良成繁の離反により積極的な支援ができず、簗田氏はとうとう開城し水海城へ撤退、以降は北条直轄の軍事拠点となった。天正十八(1590)年の小田原の役で落城、徳川家康は異父弟・松平康元を関宿城に配した。江戸期には利根川水運の要衝として栄えた。幕府重臣に取り立てられるための「出世城」と呼ばれ、久松松平氏、能見松平氏、小笠原・北条・牧野・板倉等の諸氏が目まぐるしく城主の座についた。城主が久世氏の時、明治の廃藩置県で廃城となった。 

利根川と江戸川が合分流する地点の微高地に築かれ、水に守られた要害であるとともに古くから水上交通の要衝として栄えました。現在は、河川改修とスーパー堤防によって城地の殆どは河川や堤防の下になっています。まあ、治水を考えればしかたのないところです。この河川改修によって、川の流れも変えられたため、当時の地勢とはかなり異なっていますが、大河が合分流する水郷地帯であり、交通上の要衝であっただけでなく軍事的にも非常に重要な地点でした。北条氏康は「関宿城を獲ることは一国を獲ることに等しい」とまで言っています。この関宿と切っても離せない人物が古河公方と、その側近中の側近であった簗田氏。古河公方家や簗田氏をめぐる情勢は上記の歴史でも書いたとおり非常に複雑ですが、簗田氏に関しては一貫して「古河公方」に与していた筆頭家老であったことが重要で、「北条・反北条」というカテゴリで捉えるよりも、つねに「古河公方という役職を持つ人物」と行動をともにしていると見たほうがわかりやすいでしょう。北条としては関東の完全制圧のためには、この古河公方の権威を利用する必要があり、そのためにはこの簗田氏をひきつけ、古河城と並んで重要な関宿城を手中に収める必要がありました。簗田氏に対して、時には懐柔し、時には恫喝して、なんとかこの関宿城を手に入れようとしています。華々しい戦歴などはあまりない簗田氏ですが、関東の戦国時代を紐解く上で、非常に重要な地位を占めたことは疑いありません。

現状は前述のとおり、ほとんどの城地が河川改修により川とスーパー堤防の下に埋没し、わずかな痕跡を残すに過ぎません。まあ、これも関東一帯の治水という安全上の問題を考えれば、止むを得ないところでしょう。遠くからでもはっきりと見える模擬天守形式の建築物は千葉県立関宿城博物館です。御三階櫓を模した関宿城博物館のテーマは「治水と利水」。城マニアにはあまり興味の無い分野かもしれませんが、それなりに展示は充実していました。

いまや河川の流れも変わり、そこに城があったことを教えてくれるのはわずかの曲輪跡になってしまいましたが、水上交通の要衝であったことは十分にうかがえる風景で、なんとなく満足してしまいました。利根川を渡って東側の逆井城には薬医門が移築現存しています。なお、城下には埋門や殿社の一部が移築現存されているそうです。見逃した〜!

【再訪:2003年06月01日】

というわけで、見逃した埋門やら本丸御殿やら、その他もろもろを見学しに、雨の中行って来ました。そしてこの日の最大の成果は、関宿城から遠く離れた栃木県下都賀郡石橋町に移築されたという「伝・関宿城城門」を見たこと。この城門の情報は小山市在住の鳥居さんから頂いたメールによるものです。鳥居さん、有難うございました。その城門はなんと、国道沿いのとんかつ屋の敷地内にありました。長屋門形式の立派なもので、裏手に回るとこの門の由来が書かれていました。それによると、「寛延元(1748)年、関宿城主であった久世出雲守広明(幕府老中・京都所司代)の時代に大手門として築かれ、慶応・明治の倒幕の時代、時の城主久世隠岐守広文が幕府方に加担し、その際に幕府の命により戦費調達のため、もろもろの物資とともに川の対岸(埼玉県鷲宮)の資産家に売られた、昭和五十三年に近江弘氏の手のよって現在地石橋町に移築された」とのこと。これが本当だとすれば、なんと百三十年もの間、「出世城」関宿城の大手門を務め上げた、由緒正しい門、ということになります。明治の廃藩置県では多くの城郭は「カネ食い虫」「お荷物」として解体され、あろうことか風呂の薪材などとして消えていったものも多くあるのですが、この城門は「戦費調達」のために資産家に売られたといいます。そんな末路もあったのか!でも、当時の資産家って城主よりも裕福だったのかなあ??そして紆余曲折の末、現在は石橋町下石橋134-1「とんかつ合掌」敷地内に移築されています。この「とんかつ御門」、建築遺構を見分ける目を持たないソレガシですが、門の規模といい構造といい、そこら辺の農家の門でないことは見て感じました。場所は国道四号の旧道沿い、東北本線と国道の間に挟まれたここらへんです。とんかつ屋さん自体、結構目立つので気をつけて探せば見落とすことはまずないでしょう。

スーパー堤防の下にわずかに残った本丸の曲輪と城址の碑。 スーパー堤防から見下ろす本丸跡地と遠く御三階櫓を模した関宿城博物館。この小さな緑地がわずかに残った関宿城の名残です。

その本丸周囲には堀跡と思われる微低地が残る。

本丸の塁壁には横矢がかけられていました。水の張った田んぼにさらに雨によって、水に浮かぶお城が再現されたかのようです。雨の日のお城めぐりもなかなか良い(?)

二ノ丸以下は宅地や農地、畜産施設などによって見る影はほとんどありません。 土砂降りの中の関宿城博物館。別に好き好んで雨の中来た訳ではない。家を出るときは晴れていたのに。。。「関博」のテーマは「河川とそれにかかわる産業」。河川の変遷や人々の生活とのかかわりはなかなか面白い。
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関宿城博物館の模擬御三階櫓。非常に目立ちます。三層の櫓があったのは事実のようです外容が不明のため江戸城の富士見櫓を模したとか。そんな安易な。。。

関博最上階から利根川、江戸川の分流地点を見下ろす。河川の流れは変わっても、大河に囲まれたその要害ぶりは変わっていません。氏康曰く「一国に等しい」とまで言わせた、関東戦国史の要衝でした。

関宿城博物館に展示の関宿城模型。まるで巨大な環濠集落のようではないですか。三ノ丸以上の曲輪は複雑な堀で囲まれた、まさに水に浮く城。今も残ってたらスゴかっただろうな〜。こちらは御三階櫓附近。なおこの写真は千葉県立関宿城博物館の撮影許可・掲載許可を頂いています。
城下の実相寺は近世久世氏の菩提寺。もともとは梁田氏の本領、水海にあったものを移したもの。お城マニア的にはこの、本丸御殿を移築した客殿が見どころ。宝暦六(1709)年建造、千葉県下唯一の本丸建築遺構。 こちらはちょっと南に離れたに東高野バス停附近にある四足門である埋門。旧い門ですが大切にされています。鬼瓦には「丸に竪鷹」という久世氏の家紋が飾られています。それにしてもこの雨、いい加減にしてほしい。。。
これは城下を彷徨っていてたまたま見つけた処刑場跡。別説に、処刑場ではなくその首を埋めた場所とも。なんとも薄気味悪いこの場所、目を凝らせば何かが見えてくるかも。。。

こちらもたまたま見つけた関宿関所跡。中世に一国に等しかった戦略拠点・関宿は近世には物流・交通のターミナルとして、また江戸の外郭の守りとして、栄えたことでしょう。

お待たせしました。栃木県の石橋町にあるとんかつ御門、もとい「(伝)大手門」です。とんかつ屋さんの敷地にありますが、手入れが行き届いて大切にされているようです。 ちょっと車が邪魔ですが、逆にその大きさは十分に分かってもらえると思います。しかし、戦費をひねり出すために大手門まで売っ払うとは。。。トノサマってのも大変なんだなあ。。。
重厚な門扉はやはりそんじょそこらの門ではないことを伺わせてくれます。さすが出世城の大手門(?)。その数奇な運命はこんな感じです。 利根川東岸の茨城県の逆井城には、関宿城の移築城門があります。逆井城そのものもオススメです。

 

 

交通アクセス

東北自動車道「久喜」IC車30分。

周辺地情報

逆井城に移築現存門があります。

関連サイト

千葉県立関宿城博物館関宿合戦」の頁もご覧下さい。

 

参考文献

「房総の古城址めぐり(下)」( 府馬清/有峰書店新社)、「新編房総戦国史」(千野原靖方/崙書房)、「国府台合戦を点検する」(千野原靖方/崙書房)、「日本城郭大系」(新人物往来社)、「真説戦国北条五代」(学研「戦国群像シリーズ」)、「関宿城と戦国簗田氏」(千葉県立関宿城博物館)、「古河公方展 古河足利氏五代の興亡」(古河歴史博物館)

なお「伝大手門」については小山市の鳥居さん情報がもとになっています。鳥居さん、有難うございました。

参考サイト

余湖くんのホームページ房総の城郭帝國博物学協会城郭研究部

 

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