結城の忠臣、山川氏の旧居館

山川氏館

やまかわしやかた Yamakawashi-Yakata

別名:山川城

茨城県結城市上山川

(東持寺境内)

城の種別

方形武士居館

築城時期

建仁年間(1201-04)  

築城者

山川重光

主要城主

山川氏

遺構

曲輪、土塁、空堀

山川氏館の堀<<2002年07月07日>>

歴史

結城城の結城朝光の子・重光が下総結城郡山川荘の地頭職に任ぜられ、山川氏(山河氏)を称したのが始まりといわれる。山川氏は「結城四天王」のひとつとして、結城氏の同盟者に近い存在であった。永享十二(1440)年に勃発した結城合戦では、山川大膳太夫広朝も結城城に籠城している。永正年間の古河公方の内紛では、山川朝政・政貞らが結城氏に従い高基派として転戦した。

天文三(1534)年、下妻城の多賀谷家重は常陸小田城の小田政治と通牒し結城家からの独立を画策したため、結城政勝は山川城主・山川尾張守らに多賀谷家重討伐を命じた。山川尾張守は配下の手塚某を大将に多賀谷領に侵攻したが、多賀谷勢も豊田・岡田二群の兵を率いて抗戦、山川勢は撤退した。天文六(1537)年一月、多賀谷・小田連合軍は結城城攻撃のため山川領に侵攻、結城政勝は古河城の足利晴氏(古河公方)、弟で下野祇園城主の小山高朝らの援軍を得て反撃、小田政治の本陣を夜襲して多賀谷・小田勢の首級三百を挙げて下妻城に押し寄せたが、水谷治持の取り成しで多賀谷家重の甥の安芸守朝重を人質に差し出すことで和睦した。

弘治元(1555)年、結城政勝は伊勢参内の後、小田原城に立ち寄って北条氏康に誼を通じたが、留守を狙って常陸小田城の小田氏治が結城領内に侵攻する意図を見せた。翌弘治二(1556)年四月、政勝は結城城山川城主・山川讃岐守氏重、下館城主・水谷正村、岩上但馬守、多賀谷安芸守政広らの重臣を参集、小山高朝は榎本大隈守高満、古河公方足利晴氏も配下の関宿城主・梁田晴助らを派兵、北条氏康も太田康資、遠山丹波守、富永三郎左衛門らの江戸城在番衆に岩槻城主の太田資正を軍監に加えて結城城に結集、三千騎で小田領海老ヶ島城を包囲、城将の平塚長春らを討ち取った。小田氏治は急遽出陣し、山王堂で激戦となったが、結城連合軍は小田勢の首級四百八十五を挙げ、小田氏治は本拠の小田城も陥とされて家臣の菅谷氏居城の土浦城に撤退した(第一次山王堂合戦)。

永禄三(1560)年、上杉謙信が関東に侵攻すると、山川氏重は一時北条方につく結城氏を離れ、上杉謙信の陣に参陣している。

その後の山川氏は結城晴朝とともに小田原北条氏と越後上杉氏の間を渡り歩き、永禄八(1565)年には2kmほど南西の地に山川綾戸城を築いて移ったと言われる。慶長六(1601)年、結城秀康が越前に移り、山川讃岐守朝重も同道すると、江戸幕府直轄領となり、伊奈備前守忠次が着任、山川氏館跡には代官所が設置され横田次郎兵衛らが住居した。寛永三(1626)年に曹洞宗の東持寺が館跡に移り、現在まで続いている。

結城氏には一門に近い山川氏のほか、多賀谷氏、水谷氏、岩松氏らの「結城四天王」と呼ばれる重臣がありました。多賀谷氏のように結城氏からの独立を画策する一族もいたなかで、山川氏は代々結城氏をよく助け、常陸小田城の小田政治、氏治や宇都宮氏とたびたび戦っています。

山川氏は戦国期たけなわの永禄八(1565)年に山川新宿に戦国城郭・山川綾戸城を築いて移ったといいます。しかしこの山川氏館は中世初期の方形武士館の形態をよく留めていて、とても永禄八年まで用いられていたとは思えません。ざっと見たところ、堀には横矢や歪みも無く、原型である方形館そのままと言ってもいいでしょう。堀は水堀だったかもしれません。堀も土塁もよく残ってはいますが、とても戦国期の緊張状態に耐えられるものではなく、山川綾戸城を築いて移っていったのはもっと前では、と思います。ただ、周囲が宅地や農地、小学校になっていて判然とはしないものの、南側に続く農地と林には若干の城郭としての拡張がなされていたような痕跡も見えました。

現在は東持寺というお寺の境内になっていて、若干墓地の造営等で地形の変形はあるものの、初期の中世武士館の形態をよく留めていて、それなりに一見の価値あり、です。

諏訪山東持寺境内が館跡。山川氏十一代の朝貞開基といわれ、「指定文化財 中世武家屋敷跡」などの看板が建っています。 寺の周囲の道路沿いには堀がよく残ります。深さはだいぶ埋まっていると思うのではっきり分かりませんが、さして幅も広くなく折や歪みも無く、ごく初期の武士居館の面影をよく残しています。
お寺の境内から見た土塁。曲輪の外側からで高いところで2mくらいでしょうか。墓地造営により若干壊されているのが残念。 東側の土塁。西側に比べて若干高く見えます。
正和六(1317)年二月十五日の記銘年が刻まれているという大板碑。例によって例のごとく、全く読めません。 解説の石碑。「中世武家屋敷」と言われるとあんまりピンときませんね。。。

 

 

交通アクセス

東北自動車道「佐野藤岡」IC車30分。

JR水戸線「結城」駅からバスまたは徒歩60分。

周辺地情報

結城合戦の舞台となった結城城、遺構はほとんど無いが山川氏の戦国期後半の城郭、山川綾戸城。隣接する小山市には祇園城鷲城などの小山氏関連城郭が沢山あります。

関連サイト

 

 
参考文献 「日本城郭大系」(新人物往来社)、「戦国関東名将列伝」(島遼伍/随想舎)、「結城一族の興亡」(府馬清/暁印書館)、「結城氏十八代」(石島吉次/筑波書林)、結城市教育委員会提供資料、現地解説板

参考サイト

常陸国の城と歴史

 

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