承安二(1172)年、常陸大掾多気直幹の四男、六郎長幹が築城し、真壁氏を名乗った。長幹は文治五(1189)年には常陸守護八田知家に従い、奥州藤原氏征討に加わり、建久元(1190)年には源頼朝の隋兵として上洛している。三代時幹は建長六(1254)年、鹿島大使になり鹿島にも所領を得た。
南北朝期の興国年間(1340-46)には、真壁幹重は南朝の北畠親房に味方した。応永二十三(1416)年に勃発した上杉禅秀の乱では真壁氏は当初、鎌倉公方・足利持氏に味方したが、応永二十九(1422)年には小栗満重に味方したため真壁秀幹は足利持氏方の宍戸満里に攻められ、翌年真壁城は落城し、秀幹は戦死、その子慶幹は剃髪して松永と号し、所領は没収された。この後、庶子であった景幹の子・朝幹が真壁氏の再興を鎌倉府に働きかけ、永享八(1436)年赦されて旧領を回復した。しかしこの後永享十一(1439)年、秀幹の子と名乗る氏幹が家臣の後ろ盾のもとで所領の継承を求めて強入部し、相続争いが勃発した。この争いは朝幹が勝利した。
戦国時代には真壁氏は小田城主・小田政治と同盟していたが、小田政治の死を機に、天文十七(1548)年、下館城主・水谷治持は真壁氏を誘い結城政勝と同盟させた。永禄二(1559)年、結城政勝が急死、九月六日、小田氏治は政勝急死の報を得て結城城を攻撃したが、城内にいた小山高朝が防戦、下館城主・水谷治持、真壁城主・真壁氏幹らの援軍で小田軍百六十三の首級を挙げた。
永禄四(1561)年には佐竹義昭と同盟し、真壁久幹の子・九郎は義昭から「義」の一字を受け義幹と称するなど、次第に家臣化した。永禄十二(1569)年、小田氏治は片野城で佐竹義重の客将として庇護されていた太田三楽斎資正と梶原政景親子を攻めるべく軍を進めたが、太田資正親子は真壁城の真壁氏幹らの援軍を得て筑波山麓の手這坂でこれを打ち破り、氏治は小田城を追われ土浦城に敗走した(手這坂合戦)。
天正十八(1590)年の小田原の役の後、佐竹義宣は秀吉に常陸一国五十四万石を安堵され、真壁氏も佐竹氏の被官として真壁・筑波に知行を受けた。しかし、慶長五(1600)年の関ヶ原の役での佐竹氏の去就を咎められ、佐竹氏は慶長七(1602)年、出羽久保田城に転封され、真壁氏も随行し出羽角館に移った。
真壁氏の後は浅野長重が二万石で入ったが、元和八(1622)年に笠間城に移され、寛永元(1624)年には稲葉正勝が一万石で入部した。正勝が寛永五(1628)年、下野真岡に移封されると真壁は天領となり、真壁城も廃城となった。