筑波の山塊を仰ぐ壮大な平城

真壁城

まかべじょう Makabe-Jo

別名:

 

茨城県真壁郡真壁町古城

mapion

城の種別

平城

築城時期

承安二(1172)年  

築城者

真壁長幹

主要城主

真壁氏、浅野氏、稲葉氏

遺構

曲輪、土塁、水堀、復元枡形、移築城門

「三の堀」越しに見る筑波山<<2002年09月29日>>

歴史

承安二(1172)年、常陸大掾多気直幹の四男、六郎長幹が築城し、真壁氏を名乗った。長幹は文治五(1189)年には常陸守護八田知家に従い、奥州藤原氏征討に加わり、建久元(1190)年には源頼朝の隋兵として上洛している。三代時幹は建長六(1254)年、鹿島大使になり鹿島にも所領を得た。

南北朝期の興国年間(1340-46)には、真壁幹重は南朝の北畠親房に味方した。応永二十三(1416)年に勃発した上杉禅秀の乱では真壁氏は当初、鎌倉公方・足利持氏に味方したが、応永二十九(1422)年には小栗満重に味方したため真壁秀幹は足利持氏方の宍戸満里に攻められ、翌年真壁城は落城し、秀幹は戦死、その子慶幹は剃髪して松永と号し、所領は没収された。この後、庶子であった景幹の子・朝幹が真壁氏の再興を鎌倉府に働きかけ、永享八(1436)年赦されて旧領を回復した。しかしこの後永享十一(1439)年、秀幹の子と名乗る氏幹が家臣の後ろ盾のもとで所領の継承を求めて強入部し、相続争いが勃発した。この争いは朝幹が勝利した。

戦国時代には真壁氏は小田城主・小田政治と同盟していたが、小田政治の死を機に、天文十七(1548)年、下館城主・水谷治持は真壁氏を誘い結城政勝と同盟させた。永禄二(1559)年、結城政勝が急死、九月六日、小田氏治は政勝急死の報を得て結城城を攻撃したが、城内にいた小山高朝が防戦、下館城主・水谷治持、真壁城主・真壁氏幹らの援軍で小田軍百六十三の首級を挙げた。

永禄四(1561)年には佐竹義昭と同盟し、真壁久幹の子・九郎は義昭から「義」の一字を受け義幹と称するなど、次第に家臣化した。永禄十二(1569)年、小田氏治は片野城で佐竹義重の客将として庇護されていた太田三楽斎資正と梶原政景親子を攻めるべく軍を進めたが、太田資正親子は真壁城の真壁氏幹らの援軍を得て筑波山麓の手這坂でこれを打ち破り、氏治は小田城を追われ土浦城に敗走した(手這坂合戦)。

天正十八(1590)年の小田原の役の後、佐竹義宣は秀吉に常陸一国五十四万石を安堵され、真壁氏も佐竹氏の被官として真壁・筑波に知行を受けた。しかし、慶長五(1600)年の関ヶ原の役での佐竹氏の去就を咎められ、佐竹氏は慶長七(1602)年、出羽久保田城に転封され、真壁氏も随行し出羽角館に移った。

真壁氏の後は浅野長重が二万石で入ったが、元和八(1622)年に笠間城に移され、寛永元(1624)年には稲葉正勝が一万石で入部した。正勝が寛永五(1628)年、下野真岡に移封されると真壁は天領となり、真壁城も廃城となった。

真壁城は常陸大掾氏の一族、真壁氏累代の居城で、近世に入ってからも「忠臣蔵」で有名なあの浅野氏が一時居城とするなど、平安時代末期から近世初頭にかけて、五百年近くにわたって用いられたお城でした。この本丸附近にはかつての郡衙があってのではないか、とも見られています。真壁氏はその位置的な関係から、小田城の小田氏とも密接な関係を築いていたようですが、戦国中期から後期にかけて、小田政治・氏治の頃になると小田氏の力もめっきり弱くなり、近隣の結城氏らと戦っては連戦連敗の状態でした。結城の忠臣、下館城主の水谷治持はこの機を見て真壁城主・真壁久幹を説得、結城氏との同盟に踏み切ります。そこから手這坂の合戦などで真壁氏は対小田の主力の一角として活躍、「鬼真壁」「夜叉真壁」といわれた久幹は鉄の六角棒をぶん廻して敵兵を恐怖のどん底に叩き落した、ということです。

真壁氏はその後、佐竹氏と接近し事実上その家臣団に組み込まれていきますが、佐竹氏が関ヶ原の役に際しての去就を咎められ、秋田に移封となったときに真壁氏も同道し、中世城郭としての真壁城は一旦ここに幕を閉じます。しかしその後も近世初頭まで使用され、茨城県でも屈指の規模をもつ大城郭となりました。

真壁城の立地は筑波山系の加波山の西山麓にあり、傾斜地を利用した平城となっています。当時は周囲は湿地帯に守られていたのでしょうが、加波山系の山上を敵に取られると城内が丸見えになってしまう、という不利な地形に敢えて築城した、という意図が不思議な気がします。筑波山系の麓には同じく広大な平城形式の小田城もあり、霞ヶ浦湖畔の土浦城なども含め、この地方でこうした似たような築城形態が近接しているのは面白いと思います。真壁城も非常に広大なお城で、複雑に折れ曲がる当時の水堀の痕はなかなか見ごたえがあります。現在は国指定史跡として発掘整備が進められ、一部土塁の復元なども行っています。土塁の復元はちと「やりすぎ」の感もありますが・・・。大変残念なことに、肝心の主郭には町立の体育館が建ち、二郭が残土が高々と盛られてしまっていること。せっかく広大かつ巧妙なお城も、中枢部がこう破壊されていてはねぇ。なんでこんなことになってしまったんでしょ。。。。まあ、三郭以下が見所ですので、主郭は駐車場として使わせてもらうってことで。。。公園化のほうも、できるだけ自然に、ね。

発掘の成果は毎年十二月に現地説明会をやってるそうで、昨年(2002年)にはソレガシも説明会に参加、当時の地下水道である木樋などを見ました。このときはカメラを忘れてしまい写真が残っていませんが、今ではもう、その場所はすっかり埋め戻されていて、あの日の忘れ物が今でも悔やまれるところです。

いきなりでナンですが、体育館になってしまった主郭です。かなりの土盛りもされてしまったらしい。ああ、なんと勿体無いことをしたものよ・・・。 その体育館の正面の林の中にポツンと建つ城址碑。この附近はわずかに古城の趣があるかな。
主郭周囲の「一の堀」越しに見る筑波山。一の堀は北側にも残っています。左手に写ってるのが二郭。ここも相当に土盛り(というか残土の山)されています。。。 二郭から三郭以下を見る。この真壁城の素晴らしいのはこの三郭以下です。あちこち発掘もやってます。田のように見える中に、カクカクと堀が走っているのがわかりますか?
「二の堀」を土橋から。季節にもよるんでしょうが、泥田状の水堀がよく残っています。 三の堀の北側。連続する横矢がはっきりとわかり、遺構面での最大の見所といっていいでしょう。
こちらは三の堀の南側。こちらも写真でははっきり分かりませんが、しっかり水堀です。 ちょっと分かりにくいですが、三郭(中城)への虎口となる土橋です。
こちらは外堀の北側。真壁城は傾斜地に築かれているので、堀は場所によって随分と深さが違います。北側は比較的浅いものが多いようです。 こちらは東側の外堀。こちらは周囲との比高差がかなりあります。このあたりは土塁の復元工事もやってます。
南東角にある鹿島神社附近の土塁。復元ではない土塁がいい感じです。写真ではわかりませんが、ものすごくでかい土塁です。 復元された南側の土塁から外堀を見下ろす。復元とはいえ、この高さはすごいですな。
南側の復元土塁。別に復元が悪いとは言わないけど、どうしてこう角ばってしまうんだろう・・・。 こちらも復元された南側の枡形。復元とはいっても、これはこれでなかなかスゴイです。

 

 

交通アクセス

JR水戸線「下館」駅からバス(?)。

常磐自動車道「土浦北」IC車30分。

周辺地情報

近くの雨引観音には移築城門があります。近隣の谷貝城、塙世城なども見所があります。

関連サイト

 

 
参考文献 「日本城郭大系」(新人物往来社)、「戦国関東名将列伝」(島遼伍/随想舎)、「中世の真壁氏」(ふるさと真壁文庫/真壁町歴史民俗資料館)、「結城一族の興亡」(府馬清/暁印書館)

参考サイト

常陸国の城と歴史

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