北アルプスに映える漆黒の天守

松本城

まつもとじょう Matsumoto-Jo

別名:深志城、黒烏城

 

長野県松本市丸の内

城の種別

平城

築城時期

永正年間(1504-1520)ごろ(?)

築城者

島立貞永

主要城主

島立氏、坂西氏、小笠原氏、石川氏、松平氏、堀田氏、水野氏、戸田氏

遺構

現存天守群、金蔵、復元門、石垣、水堀等

北アルプスの銀嶺と天守<<2001年04月23日>>

歴史

永正年間(1504-1520)ごろ、小笠原氏の家臣である島立右近貞永が深志城を築いたというが、それ以前に国衙在庁官人の犬甘氏の古い館があったらしいともいう。のち同じく小笠原氏の家臣の坂西氏が城代として置かれた。

天文十七(1548)年、武田晴信(信玄)が上田原の合戦で村上義清に敗北すると信濃の国人衆の間で動揺が広がり、七月十日には諏訪西方衆らが反乱、これに呼応して小笠原長時は塩尻峠に布陣した。晴信は七月十一日に甲府躑躅ヶ崎館を出陣したが、遅速行軍で相手を油断させ、十八日に上原城に入った。晴信はその夜のうちに密かに軍勢を塩尻峠に展開させ、翌早朝に一斉攻撃をかけ、小笠原軍は一千名が戦死して敗退した(塩尻峠の合戦、勝弦峠の合戦)。塩尻の合戦に勝った晴信は村井城を築城して前進拠点とし、天文十九(1550)年七月十日、晴信は村井城に入り、十五日には「イヌイの城(埴原城か)」を陥落させて勝ち鬨を挙げると、小笠原氏の属城は大城(林城)深志城、岡田城、桐原城、山家城の五ヶ城が相次いで自落、長時は一時平瀬城に入ったが、のちに村上義清を頼って塩田城に逃れた。十九日には武田軍は深志城に入り、晴信臨席のもとで駒井高白斎らによって鍬立ての式が行われ、二十三日には惣普請を実施、深志城を武田氏の拠点とし、馬場民部少輔信房、日向大和守是吉を城将に任じた。

その後深志城は、天文十九(1550)年の戸石城攻撃、天文二十(1551)年の小笠原長時残党の掃討戦、その後の川中島をめぐる越後の長尾景虎(上杉謙信)との抗争などの際に武田軍の中継基地として重視された。弘治三(1557)年の第三次川中島合戦においては、武田晴信はこの深志城で全軍の指揮を執っている。

天正十(1582)年三月、武田氏の滅亡ののち、深志城は木曽義昌の領地となったが、同年六月二日の本能寺の変により織田信長が横死すると、上杉氏・徳川氏・北条氏による争いが勃発した。上杉景勝は小笠原長時の弟・貞種を支援して木曽義昌を追ったが、同年七月十六日、徳川家康の支援を受けた小笠原貞慶(長時の子)が深志城を攻撃、貞種は越後に逃れ、小笠原貞慶が筑摩・安曇などの旧領を回復した。貞慶は深志の地を「松本」と改名し、城下町の整備などを行った。貞慶はのちに嫡男の秀政を徳川家康に人質として差出して徳川氏に帰属したが、「小牧・長久手合戦」ののち、徳川家の重臣・石川数正が徳川家を出奔して豊臣家に奔ったことから一時徳川家を離反し、保科正直の高遠城を攻撃している。しかし徳川家と豊臣家の和睦により、貞慶はふたたび徳川氏の麾下に帰った。天正十八(1590)年、徳川氏が関東に移封となり、小笠原貞慶・秀政は下総古河城に移った。

松本城には石川数正が十万石で入封、天守や櫓が造営され、その子康長の代に完成し、近世城郭としての様式を整えた。慶長十八(1613)年、石川康長が大久保長安事件に連座して改易されると、下総古河城より小笠原秀政が再び城主に任じられたが、元和元(1615)年五月七日、「大坂夏の陣」で大野治長・毛利勝永隊と闘い、嫡子・忠脩とともに戦死、次男の忠真が跡を嗣いだが、元和三(1617)年七月、播磨明石に転封となった。

小笠原氏の後は上野高崎より戸田丹波守康長が七万石で入封、康長・康直二代ののち播磨明石に転封となり、越前大野より松平出羽守直政が入封した。松平直政は天守などに改修を加え、巽附櫓、月見櫓を造営した。松平氏が出雲松江に転封されると、武蔵川越より堀田加賀守正盛が入封、さらに堀田氏が下総佐倉に転封されると。寛永十九(1642)年、三河吉田より水野隼人正忠清が入封した。水野氏は六代在城したが、享保十(1725)年、水野忠恒が江戸城中で刃傷事件を起こし改易、松本城は一時幕府直轄となった。

翌享保十一(1726)年、戸田丹波守光慈が志摩鳥羽より入封、九代ののち廃藩置県を迎え廃城となった。

北アルプスの山嶺をはるかに望む松本平、国宝天守を擁する松本城はいつも多くの観光客で賑わっています。

松本城はもともと深志城といい、信濃守護・小笠原氏の本城である林城を守る支城郡のひとつに過ぎませんでした。しかし天文十七(1548)年、塩尻峠の合戦で小笠原長時を破った武田信玄は、村井城を拠点に小笠原領に圧力をかけ、天文十九(1550)年、「イヌイの城」(埴原城か)を屠ると、林城をはじめ小笠原氏の主要な支城はビビってしまって自落、小笠原帝国はあっけなく崩壊します。信玄は林城には目もくれず、この深志城を大々的に改修し、以後北信攻略への重要な兵站拠点になります。第三回川中島合戦の際などは、信玄の本陣を必死で探す上杉軍に対し、実は信玄は戦場にすら行かずに、後方の深志城で指揮を執っていた、などという話もあります。戦国の末期というにはまだ早いこの時期に、天嶮の山城ではなく、移動や駐屯に便利な平城である深志城に目をつけたあたりにも、信玄という男の並々ならぬ才覚を感じます。

この信玄時代の深志城がいかなる規模のお城であったものか、今となっては全然わかりませんが、いわゆる近世三ノ丸にあたる外郭部には3箇所の丸馬出しがあったことが古図からわかります(現在は全部湮滅)。いずれも武田氏時代のものといわれていますので、近世松本城相当の規模はあったのかもしれません。

現在見られる松本城の姿の基礎を作ったのは、徳川譜代の重臣から豊臣家に翻った男、石川数正の頃でした。現存する天守はその数正の子、康長時代のもの、ともいわれています。一説に、この天守は飯田城からの移築である、ともいわれるそうですが、その根拠は不明です。たぶんそんなことはないでしょう。現存天守としては姫路城に次ぐ規模の天守で、五層六階の大天守、三層四階の乾小天守、巽附櫓、月見櫓が一体化した複合連立天守の形態です。姫路城との最大の違いはその漆黒の外装でしょう。白漆喰の壁が「白鷺城」とも呼ばれる姫路城に対し、こちらはキリリと引き締まった無骨な黒塗りの板張り、「黒烏城」という別称に相応しい概観です。この質素にして華麗、無骨にして優美な、相反する要素を持つ天守はやはり「国宝」に相応しいものであり、一度は拝んでおくべきでしょう。面白いのは「月見櫓」で、近世初期に松平直政によって造営されたもの。直政は徳川家康の次男、結城秀康の三男で、乱行事件で改易の憂き目にあった松平忠直の弟にあたる人物で、初陣の「大坂の陣」で武勇を奮った人物ですが、その直政が造営した月見櫓は開けっぴろげの窓(舞良戸:まいらど)と廻縁とがおよそ「城」のイメージとかけ離れていて、やっと訪れた平和な時代を象徴する建物に見えます。

天守以外に目を向けると、本丸の御殿跡や埋門などが目を曳きます。本丸の御殿は享保十二(1727)年に火災で焼失、財源不足で再建されることはなく、その後の主要な機能は二ノ丸御殿に移ったといいます。本丸の御殿跡は現在、平瓦で当時の建物の配列を示しています。この火災のとき、必死の消火作業によって奇跡的に天守が焼け残ったのは「狐の化身・華姫」の加護である、という伝説もあります。埋門は現在、赤い橋(埋橋)を渡って料金所が建つ手前にあり、もともとは足駄塀という、堀を横切る塀があったらしいですが、これがどういう意味なのかよくわかりません。天守の直下の「水門」はもともとは舟着き場になっていたということです。自然の沼や湖ならともかく、本丸の堀に船着場、というのも一風変わっています。

本丸の南には昭和三十五(1960)年に復元された黒門枡形があり、二ノ丸に通じます。二ノ丸の北東には、本丸焼失後にこのお城の中心となった二ノ丸御殿跡がありますが、現在は発掘作業中のようで、中には入れませんでした。さらに平成十一(2000)年に復元された太鼓門枡形を越えると、外堀に達します。太鼓門枡形には「玄蕃石」なる大石もあります。外堀は北辺と東側が残るのみですが、二ノ丸周囲は石垣があまり使われておらず、「土の城」松本城の姿を楽しむことができます。

三ノ丸はほとんど市街地化し、めぼしい遺構といえば北東の惣堀くらいなものですが、埋められた堀のラインは意外とよくわかります。あちこちに自然の湧水を生かした井戸があり、松本城の周囲が豊富な湧水で満たされていたことがわかります。大手門は明瞭な遺構があるわけではありませんが、街のメインストリートである「大名町通り」が女鳥羽川の橋(千歳橋)の先で不自然にカクンと折れ曲がっており、一目でお城の名残だということがわかります。三ノ丸は広大ですが、近世城郭としてはごく標準的な大きさだったでしょう。

松本城は一大観光地であり、多くの人が押しかけますので、純粋にお城を楽しみたい方は早朝に来るべきでしょう。天守の中は階段も急で狭く、大渋滞が必至です。実は、最初にここに行った日には、天守内部のあまりの大渋滞に最上階まで辿り着けず、途中で引き返した苦い経験があります。それから、「エレベータは無いの?」とか言わないように(ホントにいるんだこれが)。

[2005.07.06]

本丸 天守内部 二ノ丸〜三ノ丸 エピソード おまけ

 

交通アクセス

JR大糸線・篠ノ井線・松本電鉄線「松本」駅より徒歩15分。

長野自動車道「松本」IC車20分。

周辺地情報

一番近いのは犬甘城(城山公園)、見ごたえがあるのは林城桐原城埴原城などの小笠原氏関連の山城群です。

関連サイト

 

 
参考文献

「戦史ドキュメント 川中島の戦い」(平山優/学研M文庫)

「中部の名族興亡史」(新人物往来社)

「日本城郭大系」(新人物往来社)

「日本の城 戦国〜江戸編」(世界文化社)

「日本の城 ポケット図鑑」(西ヶ谷恭弘/主婦の友社)

歴史街道スペシャル「名城を歩く7・松本城」(PHP研究所)

小学館ウィークリーブック「名城をゆく12・松本城」(小学館) 

「松本城の歴史」(日本民俗資料館・松本市立博物館)

「松本城 その歴史と見どころ」(金井圓 編著/名著出版)

「信州の城と古戦場」(南原公平/令文社)  ほか

参考サイト ゆうさんの独善的松本案内

 

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