江戸の搦め手を守る

佐倉城

さくらじょう Sakura-Jo

別名:鹿島城、鹿島台城

千葉県佐倉市城内町

(国立歴史民俗博物館周辺)

城の種別 平山城(丘城)

築城時期

慶長十五(1610)年

築城者

土井利勝

主要城主

土井氏、石川氏、松平氏、堀田氏

遺構

曲輪、土塁、馬出し、空堀、水堀、天守台、門跡

復元された椎木門馬出し<<2003年03月08日>>

歴史

天文年間、本佐倉城主・千葉親胤が一族の鹿島幹胤に命じて築城を開始したが、完成前に親胤は家臣に暗殺され、幹胤も一時期ここに館を構えたが、死去により工事は中断した。天正年間に千葉邦胤が中断された工事を再開し、この地に本城を移そうとしたが、邦胤は天正十三(1585)年に家臣の桑田(一鍬田)万五郎に殺されふたたび工事が中断、天正十八(1590)年の小田原の役を迎え千葉氏は滅亡した。

慶長十五(1610)年、徳川家康の命で土井利勝が小見川領から佐倉領に入封し、未完の鹿島城を整備拡張し現在の佐倉城が築かれた。土井氏が古河城に移った後は石川氏、松平氏、堀田氏が入封、堀田氏六代ののちに廃藩置県により廃城となった。城地は戦前、第一軍管第二師営、歩兵第二連隊、歩兵第五十七連隊などが置かれ、地形が改変された。

江戸城の東方の搦手を守る重要な拠点として、家康の落し胤とも言われる土井利勝が築いた近世城郭です。一説には家康自身が縄張をしたとも言われています。土井利勝は家康・秀忠・家光の徳川三代に使えた能吏で、将軍家からの信頼が篤かったことが伺われます。近世城郭としての佐倉城は、土井利勝や堀田正睦など、徳川譜代の重臣、幕府老中クラスが任じられる、格式の高いお城でした。堀田正睦は、「天保の改革」などで登場しますので、中学校くらいの歴史教科書でも登場する人物ですね。城主としては堀田氏の時代が一番長く、佐倉周辺の地元民の間では「佐倉城」=「堀田氏のお城」という印象が深いようです。

中世には本佐倉城の千葉氏が二度にわたって新城築城を試みますが、都度家臣の造反などで頓挫しています。千葉親胤は暗殺された当時、反北条氏的な立場であったらしく、暗殺劇の裏には北条氏と、千葉氏筆頭家臣で実力的には千葉氏を抑えていた原氏らの意向が伺えます。

千葉邦胤の暗殺のキッカケはなんと「屁コキ事件」。前述の通り、格調の高いお城であるにも関わらず尾籠な話で恐縮ですが、なかなかインパクトのあるエピソードなのでご紹介しておきます。

天正十三(1585)年正月、邦胤が本佐倉城内に家臣を迎えて新年の宴を催し、その配膳役を桑田万五郎に命じたところ、役目の最中に二度に渡って屁をコイたという。当然、邦胤は怒ります。この時の万五郎の言い訳が「世に出もの腫れものところ構わずと申します」、要するに「出るモンは出るんじゃ!」という開き直り。激怒した邦胤は万五郎を蹴り倒し、手討ちにしようとするも、家臣たちに押し留められ、万五郎は謹慎したという。で、許されて邦胤の元に再出仕した後も、この時の遺恨が忘れられずに、とうとう寝所に忍び入り、邦胤を二太刀斬り付けたという。結局万五郎は城下で自刃(あるいは斬殺)となり、邦胤も数日後にこの傷が元で死去します。たかが屁、されど屁、「関八州古戦録」の著者も、「邦胤も邦胤だが、万五郎も余計なことを言わずに素直に恐縮しておればいいものを・・・」と半ば呆れております。しかし、この後、千葉氏が事実上北条氏の直轄になったことを考えると、この「屁コキ事件」もコジ付けで、実は黒幕は北条サン!?と思わないわけには行きません。

さてこの佐倉城ですが、近世城郭らしい、理路整然とした縄張の中にも、馬出しや空堀などに戦国の熱気を残していて、近世城郭ながら見ごたえがあります。石垣を一切用いていないので、どこか女性的な優美さもあります。ただ、戦中まで陸軍の駐屯地だったため、堀や地形はところどころ、かなり改変されてしまいました。

国立歴史民俗博物館の前には、椎木門の馬出しが復原されています。やはりここが一番の見どころでしょう。なお、城内姥ヶ池には、姫御を池に落としてしまった姥が入水したという伝説があります。

高崎川方面から見た佐倉城の主郭付近。こうしてみると中世城郭そのものの立地ですね。周囲にはかつての湿地帯の名残が色濃く残ります。

「国立歴史民俗博物館」、通称「歴博」入り口付近がかつての田町門。「三十三間堀」といわれた水堀の姿が美しいです。

「歴博」の建つ場所が椎木曲輪。三ノ丸の外郭に相当し、かつては侍屋敷や寺などがあったという。

ある意味で最大の見所、椎木門の大きな角馬出し。周囲の堀は遺構保存のためかつてより浅くしてあります。ちょっと綺麗過ぎる気がしないでもないですが。

椎木曲輪と三ノ丸を隔てる堀はほとんど埋められ遊歩道になっています。台地端にようやくかつての堀の名残を見ることができます。ここから降りると北西の出丸に到達します。

台地下にふたつ、突出した出丸があります。北西の出丸は高い土塁に囲まれて、堀底のように見えます。

北西の出丸に建つ門と水堀。門は、佐倉城内の移築門であるらしいですが、どこの門だったかはわからないそうです。

出丸周囲の水堀。周辺の宅地にも、かつての湿地をしのばせる地形が見え隠れしています。

こちらは角馬出し状の南側出丸。堀は本丸の台地下を囲むように巡っています。

南出丸周辺の堀。折歪みなども見られます。かつては出丸は陸地と繋がっておらず、戦時には橋をつかって連絡していたそうです。

南出丸の内部。高くはありませんが土塁に囲まれていました。

南出丸から三ノ丸御殿の台地下にかけて、一直線に大規模な土塁(土居)があり眼を見張ります。道路はかつては堀でした。この土塁の内部には、かつては家臣団等の屋敷地でもあったのでしょうね。

台地の上に戻って本丸へ。これは「一ノ門」周辺の空堀。とてつもない規模の大きさなのですが、整備されていないので写真じゃそのスゴさがよくわかりませんね。

本丸大手門にあたる一ノ門。かつては格調の高い櫓門でした。本丸にはもう一つ、不明門(あかずのもん)跡があります。

その不明門(あかずのもん)跡。その名のとおり、普段は締切ってあったのでしょう。

不明門からみた本丸周囲の堀。

土塁に囲まれた本丸。奥に天守台が見えます。「徳川系」の近世城郭でありながら、一切石垣は使われていないため、どこか優美に見えます。

二段の土塁で築かれている、珍しい天守台。石垣は使われていません。天守はこの土塁に半分乗り上げる形で築かれていました。その模型は三ノ丸御殿付近の展示室で見ることができます。

本丸天守台から本丸を見渡す。かつて三層の天守が聳えていました。

本丸周囲の大きな土塁。左手は銅櫓跡。なんと、太田道灌の「静勝軒」を江戸城から移築したものだったといわれる。なんで壊しちゃうんだよ〜。。。

茶室「三逕亭」方面と二ノ丸を結ぶ「二ノ門」跡。ここにも大きな堀と土橋、土塁があります。

二ノ門周囲の堀。規模は大きいのに、完全に藪化しているのが残念です。

二ノ丸台地端にある、いかにも中世的な櫓台らしきもの。

左の櫓台からは、寺崎集落・寺崎城方面と、高崎川流域に眺望が利きます。高崎川流域はかつての印旛沼沿岸の湿地帯の景色をよく残しています。

茶室「三逕亭」背後の堀。といっても埋められて更に整地されているために、わずかに窪んでいる程度ですが。

茶室「三逕亭」付近から「姥ヶ池」方面へ向かう道にも堀の名残が残ります。「三逕亭」付近はある種の馬出しであった、と解釈できますね。

「三ノ門」周辺は堀が埋められてわかりづらくなっているものの、堀に囲まれた独立空間、ある種の馬出しでした。往時は二階建ての櫓門でした。

三ノ丸御殿と三ノ門付近を隔てる堀。埋められて浅くはなっているものの、かつての規模の大きさはその痕跡からも十分にうかがうことができます。

おなじく三ノ丸御殿と三ノ門付近を隔てる堀。明治時代に陸軍の駐屯地になった際にかなり改変されています。でもこうしてみるとその大きさがよく分かるでしょう。

三ノ門、三ノ丸御殿周辺にも大規模な空堀が残りますがご覧のとおりの藪です。埋められた堀がよく整備されてて、残ってる堀が藪のまんま、っていうのも何か複雑な気分です。

三ノ丸御殿跡。櫓台のような土台も見えます。が後世に駐屯地としてかなり改変されているようなので、遺構かどうかは分かりません。

三ノ丸御殿の一角では、佐倉城の出土遺物や、ご覧の天守模型などが展示されています。天守下部の構造に注目。

城内の姥ヶ池。城の水の手であるとともに城の東方を守る水堀にもなっています。その名の通り、老女の入水伝説があります。 城下を歩いていてたまたま見つけた「根古谷児童公園」。この台地下に根古屋地域があったのかな。

 

 

交通アクセス

東関東自動車道「佐倉」ICより車10分。

JR総武本線「佐倉」駅徒歩20分、京成電鉄「京成佐倉」駅徒歩10分。

周辺地情報

佐倉市内には臼井氏・原氏の中世城郭、臼井城があります。また、隣町の酒々井町には千葉氏の本城、本佐倉城があります。どちらもオススメ。

関連サイト

 

 
参考文献 「房総の古城址めぐり(下)」( 府馬清/有峰書店新社)、「日本城郭大系」(新人物往来社)、「日本の城ポケット図鑑」(西ヶ谷恭弘/主婦の友社)、「図説房総の城郭」(千葉城郭研究会/国書刊行会)、「関八州古戦録」(ニュートンプレス)、現地解説板

参考サイト

余湖くんのホームページ

 

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