信玄痛恨の「戸石崩れ」

戸石城

(枡形城・本城・戸石城、付・米山城)

といしじょう Toishi-Jo

別名:砥石城、伊勢山城

長野県上田市上野

城の種別

山城

築城時期

不明 

築城者

村上義清(?)

主要城主

村上氏、真田氏

遺構

曲輪、堀切、竪堀、土塁、石積み、虎口 他

真田町の信綱寺から見る戸石城<<2002年11月05日>>

歴史

築城時期は定かではないが、天文年間には埴科郡葛尾城の村上氏の属城であった。
村上義清は天文十(1541)年、甲斐の武田信虎、諏訪の諏訪頼重とともに小県郡の海野平に侵攻、海野棟綱ら滋野一族を上州に追い、小県郡に侵出した。戸石城はこの頃、村上氏の属城郡のひとつとして整備されたものと思われる。

天文十六(1547)年七月、武田晴信(信玄)は佐久で唯一抵抗する笠原新三郎清繁の志賀城を攻めるために侵攻、志賀城には上杉憲政麾下の上州菅原城主・高田憲頼父子らが援軍として立て籠った。援軍の西上野国人衆を中心とした上杉軍二万余と武田軍は八月六日に激戦となり、武田軍は上杉軍の兜首十四、五と雑兵三千を討ち取った(小田井原合戦)。信玄は討ち取った首級三千を夜間のうちに兜首は槍にかざし、平首は棚に掛け並べさせて志賀城を囲んだ。志賀城の籠城兵はこれを見て戦意を阻喪し、十一日正午頃志賀城は陥落、笠原清繁、高田憲頼らをはじめ城兵三百余が戦死した。この笠原清繁は村上氏の属将であったといわれ、志賀城を後詰できなかった村上義清が武田氏との対立姿勢を鮮明にした。信玄も佐久から小県、北信濃への侵攻の姿勢を見せ、村上義清との対立が避けられなくなった。

天文十七(1548)年二月、上田原合戦で武田軍と村上軍が交戦、決着はつかなかったものの武田軍は板垣信方、甘利虎泰ら重臣を戦死させ、実質的に敗北した(上田原合戦)。村上義清らは四月二十五日に上原昌辰の守備する内山城を攻めて宿城に放火、佐久・小県・筑摩の在地土豪や諏訪西方衆などが反武田同盟を結んで武田氏の信濃支配は危機を迎えた。信玄は同年七月、塩尻峠合戦で小笠原長時を破り、天文十九(1550)年五月には小笠原長時の籠る林城を自落させて勢力を回復、余勢を買って村上義清が北信濃で中野小館の高梨政頼と対陣している隙を衝いて小県郡に侵攻し、戸石城攻撃を画策した。八月二十四日には今井藤左衛門、安田式部少輔らを派遣して検分、翌二十五日には大井信常、横田高松、原虎胤らを再度戸石城に派遣して検分、作戦を練った。武田軍は二十七日に長窪城を進発し翌日には屋降に着陣、二十九日には信玄自身が戸石城際まで馬を寄せて検分、敵方に開戦を通告する矢入れを行った。武田軍は村上方諸将への調略も実施、海津に館を構える清野氏の降誘に成功、九月三日から全軍が戸石城に接近し、九日から攻撃に入った。しかし、十日経っても戸石城は落城の気配がなく、九月十三日に村上義清と高梨政頼が和睦し、武田方の寺尾城を攻撃していると注進が入った。九月の末に信玄は評定の上撤退を決意、十月一日から撤退に入ったが、村上軍が追いつき激しく追撃、殿軍の横田高松ら将兵一千余が戦死した(戸石崩れ)。しかし、翌天文二十(1551)年五月二十六日、武田の信濃先方衆である真田幸隆の調略が功を奏し、幸隆は戸石城を乗っ取った。戸石城は真田幸隆に預けられ、これにより、信玄は佐久の反武田勢力を掃討し、小県から北信濃へ向けて侵攻が可能になった。

天正十(1582)年三月に武田氏が滅亡、真田昌幸は天正十一(1583)年に上田城を築城開始し本拠を移すが、戸石城上田城の背後の固めとして重要視された。天正十三(1585)年、徳川氏と北条氏の和睦条件であった沼田領を真田昌幸が引き渡さなかったことから、徳川家康の大軍が上田城を攻撃したが、その際には真田信幸が戸石城を守備、上田城下に徳川軍をおびき出すのに一役買っている。この合戦では上田城の城兵と伏兵を巧みに用いた攻撃により一説には徳川軍は一千三百余が討ち死にし潰走したといわれる(第一次神川合戦)。

慶長五(1600)年の関ヶ原の役の際には、昌幸・幸村父子は西軍につき、信幸は東軍についた。徳川秀忠率いる徳川本隊三万八千は九月二日に小諸城に着陣し上田城の真田昌幸に降伏を勧告、昌幸は降伏勧告受け入れと見せかけて籠城の準備をし、幸村は戸石城に入った。怒った秀忠は九月五日、真田信幸の一隊に戸石城攻撃を指示、幸村は兄弟の争いを避けて無血開城し、戸石城は信幸に占拠された。六日から上田城攻撃は本格的に始まったが、伊勢崎城の伏兵が背後を襲い、上田城から討って出る昌幸・幸村の巧みな用兵で攻城軍は挟撃され甚大な損害を受けた(第二次神川合戦)。七日になって秀忠はようやく上田城攻撃を諦め中山道、木曽路を西に向ったが、九月十五日の関ヶ原の大会戦には終に間に合わなかった。

役の後、真田昌幸の旧領は信幸(信之に改名)に与えられ、戸石城も支城として存続していたものと思われるが、元和八(1622)年、信之の松代城転封に際して廃城となった。

戸石城は、あの信玄が人生最大の敗北を喫した「戸石崩れ」の場所として有名です。この頃信玄は、しつこく叛旗を翻す佐久の在地土豪衆や本拠の松本平を追われ筑摩郡付近でゲリラ戦を展開する小笠原長時軍と戦いながら各個撃破し、ようやく上田原合戦での村上義清軍との敗戦から立ち直りつつある時期でした。おりしも村上義清は同じ北信濃国人の高梨政頼と小競り合いの最中、この機に目障りな戸石城を叩き、一挙に上田・小県を押さえて川中島まで伺ってしまおう、そんな風に考えていたのかもしれません。この戸石城攻めは強引な力攻めが大敗北を招いたように言われるケースも多いのですが、攻撃に際しては信玄はいつもの慎重さを発揮し、将校斥候として「鬼美濃」原虎胤や横田備中らを検分に遣わし、信玄自らも大物見に出るなど、事前の準備はかなり時間を割いているようです。しかし結局、力攻めに及ぶこと一ヶ月、神川の断崖に面し「砥石」のように鋭く切り立った戸石城は全く陥ちる気配もなく、そうこうしているうちに村上義清本隊が高梨軍と和睦し後詰に向ってきます。ここで信玄はやむなく撤退を決意するのですが、ほんの一瞬の判断の遅れが命取りになり、村上義清本隊の激しい追撃を受けて横田備中守高松ら将兵1000を討たれ、「ほうほうの体」で望月城に退却します。世に言う「戸石崩れ」とはこの退却戦での惨敗を指し、力攻めの失敗、というよりも「進退の時期を間違えた用兵ミス」が損害を大きくしてしまったのでしょう。戦死した横田高松は信玄の父・信虎の代から仕える名足軽大将で、「先手必勝」が武器でした。その「先手必勝」の大将が「殿軍」を引き受けざるを得ないところにこの敗北の異常さが伺われます。のちに信玄は近習たちに語るとき、「武篇覚えの者になろうとするならば、原美濃、横田備中のようになれ」と、いつまでもその死を惜しんだと言われます。上田原合戦でも板垣信方、甘利虎泰らの「宿老」を失い、今また横田備中を失い、信玄も悔やんでも悔やみきれなかったでしょう。

ところが!そのわずか数ヵ月後、驚くべき事態が発生します。駒井高白斎の日記「高白斎記」に一言、「砥石城真田乗取」、知謀の将、真田幸隆によって戸石城は乗っ取られた、というのです。この間の経緯は諸説あり、城兵の少ない隙を狙って真田勢が夜襲を掛けた、あるいは幸隆が得意の調略で無血占領した、城内に籠っていた城兵の中に幸隆の弟・矢沢綱頼がいて、その手引きで乗っ取った、様々な説があり、お話的にはどれも面白いものです。真相はわかりませんが、この地に多くの縁故を持つ幸隆の調略・説得が功を奏したのは間違いないでしょう。

戸石城は太郎山の裾野に突き出した峰の先端部にあり、上田平と真田盆地の両方に睨みが利く、抜群の立地にあります。よく知られるように、戸石城は「枡形城」「本城」「戸石城」(+「米山城」を含む場合もある)の複合城郭群です。これによって、どこか一箇所が攻められても、他の曲輪が敵の背後を襲う、という、「蛇の頭と尻尾」の関係にあります。「本城」はさすがに規模が大きく、削平地の大きさ、削崖の規模などは目を引きます。「枡形城」は最高所に位置し、真田の郷が一望に見渡せます。「本城」の背後を固めるとともに、狼煙台や後方の指揮所として機能したでしょう。「戸石城」は峰の最先端にあり、ここからは上田盆地が一望に見渡せます。ちょっと離れた「米山城」は戸石城群とは別峰で、戸石城の横腹を守ります。これらの要素のほかに忘れてはならないのが「内小屋」と呼ばれる、三方を峰に囲まれた居住区です。これについては別冊歴史読本「戦国・江戸 真田一族」という本で藤井尚夫氏が戸石城は「山頂に曲輪を置いて、高所を守る山城ではない。山の峰と尾根を利用した"谷を守る山城"なのである」と、実に的確な指摘をされています。この形式は「殿谷形式」という、鎌倉期からの古い居館の立地形態をさらに発展させたものと捉えることができ、居住区に当たる谷津の三方を守るように尾根上に城砦郡を点在させる、というやり方は戸石城のすぐ麓の内小屋城、近隣では塩田城荒砥城、林城などでよく見られる手法で、山と谷が多い信濃では比較的多く採られる手法かと思います。「内小屋」正面には堀があり、この堀は「戸石城」から連なる竪堀とも連結され、谷の正面を守っています。谷の最も奥には「水の手」を注進とする大規模な削平地が多数あります。

アプローチには本来複数のルートがあるようですが、止山処置がされている場所も多く、内小屋経由で「本城」に出る大手道がやはり無難かと思います。もしくは南側の山麓から、「戸石城」と「米山城」の間の尾根鞍部に出るルートもあります。さすがに大きなお城だけあって、山路も決して平坦ではなく、歩く距離も見学時間も相当になりますので、見学には余裕をもって臨みましょう。見学路は整備されていますので、危険はありません。「水の手」が若干分かりにくいかな。この手の高い山城の割には結構たくさんの人が歩いています。これも「風林火山」効果でしょうか。

[2007.06.14]

  

戸石城群概念図(左)、東側より全景(中)、南側より全景(右)

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「内小屋」-「枡形城」  「本城」-「戸石城」-「米山城」 

 

 

交通アクセス

上信越自動車道「上田菅平」ICより車10分。

長野新幹線・しなの鉄道・上田交通「上田」駅から登山口までバス(?)または徒歩50分。  

周辺地情報

上田市内の上田城、真田町の真田本城松尾古城など。周囲の峰には山城だらけなので、ご興味と体力があれば全部廻ってみてください。

関連サイト

信濃城攻め紀行」もぜひご覧下さい。

 

参考文献

「戦史ドキュメント 川中島の戦い」(平山優/学研M文庫)

「風林火山・信玄の戦いと武田二十四将」(学研「戦国群像シリーズ」)

「歴史読本 1987年5月号」(新人物往来社)

別冊歴史読本「武田信玄の生涯」(新人物往来社)

「日本城郭大系」(新人物往来社)

「真田戦記」(学研「戦国群像シリーズ」)

別冊歴史読本「戦国・江戸 真田一族」(新人物往来社)

別冊歴史読本「戦国古城」 (新人物往来社)

別冊歴史読本「検証 戦国城砦攻防戦」 (新人物往来社)

真田町観光課提供資料、上田市観光協会提供資料ほか

参考サイト

上田・小県の城

 

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