築城時期は定かではないが、天文年間には埴科郡葛尾城の村上氏の属城であった。
村上義清は天文十(1541)年、甲斐の武田信虎、諏訪の諏訪頼重とともに小県郡の海野平に侵攻、海野棟綱ら滋野一族を上州に追い、小県郡に侵出した。戸石城はこの頃、村上氏の属城郡のひとつとして整備されたものと思われる。
天文十六(1547)年七月、武田晴信(信玄)は佐久で唯一抵抗する笠原新三郎清繁の志賀城を攻めるために侵攻、志賀城には上杉憲政麾下の上州菅原城主・高田憲頼父子らが援軍として立て籠った。援軍の西上野国人衆を中心とした上杉軍二万余と武田軍は八月六日に激戦となり、武田軍は上杉軍の兜首十四、五と雑兵三千を討ち取った(小田井原合戦)。信玄は討ち取った首級三千を夜間のうちに兜首は槍にかざし、平首は棚に掛け並べさせて志賀城を囲んだ。志賀城の籠城兵はこれを見て戦意を阻喪し、十一日正午頃志賀城は陥落、笠原清繁、高田憲頼らをはじめ城兵三百余が戦死した。この笠原清繁は村上氏の属将であったといわれ、志賀城を後詰できなかった村上義清が武田氏との対立姿勢を鮮明にした。信玄も佐久から小県、北信濃への侵攻の姿勢を見せ、村上義清との対立が避けられなくなった。
天文十七(1548)年二月、上田原合戦で武田軍と村上軍が交戦、決着はつかなかったものの武田軍は板垣信方、甘利虎泰ら重臣を戦死させ、実質的に敗北した(上田原合戦)。村上義清らは四月二十五日に上原昌辰の守備する内山城を攻めて宿城に放火、佐久・小県・筑摩の在地土豪や諏訪西方衆などが反武田同盟を結んで武田氏の信濃支配は危機を迎えた。信玄は同年七月、塩尻峠合戦で小笠原長時を破り、天文十九(1550)年五月には小笠原長時の籠る林城を自落させて勢力を回復、余勢を買って村上義清が北信濃で中野小館の高梨政頼と対陣している隙を衝いて小県郡に侵攻し、戸石城攻撃を画策した。八月二十四日には今井藤左衛門、安田式部少輔らを派遣して検分、翌二十五日には大井信常、横田高松、原虎胤らを再度戸石城に派遣して検分、作戦を練った。武田軍は二十七日に長窪城を進発し翌日には屋降に着陣、二十九日には信玄自身が戸石城際まで馬を寄せて検分、敵方に開戦を通告する矢入れを行った。武田軍は村上方諸将への調略も実施、海津に館を構える清野氏の降誘に成功、九月三日から全軍が戸石城に接近し、九日から攻撃に入った。しかし、十日経っても戸石城は落城の気配がなく、九月十三日に村上義清と高梨政頼が和睦し、武田方の寺尾城を攻撃していると注進が入った。九月の末に信玄は評定の上撤退を決意、十月一日から撤退に入ったが、村上軍が追いつき激しく追撃、殿軍の横田高松ら将兵一千余が戦死した(戸石崩れ)。しかし、翌天文二十(1551)年五月二十六日、武田の信濃先方衆である真田幸隆の調略が功を奏し、幸隆は戸石城を乗っ取った。戸石城は真田幸隆に預けられ、これにより、信玄は佐久の反武田勢力を掃討し、小県から北信濃へ向けて侵攻が可能になった。
天正十(1582)年三月に武田氏が滅亡、真田昌幸は天正十一(1583)年に上田城を築城開始し本拠を移すが、戸石城は上田城の背後の固めとして重要視された。天正十三(1585)年、徳川氏と北条氏の和睦条件であった沼田領を真田昌幸が引き渡さなかったことから、徳川家康の大軍が上田城を攻撃したが、その際には真田信幸が戸石城を守備、上田城下に徳川軍をおびき出すのに一役買っている。この合戦では上田城の城兵と伏兵を巧みに用いた攻撃により一説には徳川軍は一千三百余が討ち死にし潰走したといわれる(第一次神川合戦)。
慶長五(1600)年の関ヶ原の役の際には、昌幸・幸村父子は西軍につき、信幸は東軍についた。徳川秀忠率いる徳川本隊三万八千は九月二日に小諸城に着陣し上田城の真田昌幸に降伏を勧告、昌幸は降伏勧告受け入れと見せかけて籠城の準備をし、幸村は戸石城に入った。怒った秀忠は九月五日、真田信幸の一隊に戸石城攻撃を指示、幸村は兄弟の争いを避けて無血開城し、戸石城は信幸に占拠された。六日から上田城攻撃は本格的に始まったが、伊勢崎城の伏兵が背後を襲い、上田城から討って出る昌幸・幸村の巧みな用兵で攻城軍は挟撃され甚大な損害を受けた(第二次神川合戦)。七日になって秀忠はようやく上田城攻撃を諦め中山道、木曽路を西に向ったが、九月十五日の関ヶ原の大会戦には終に間に合わなかった。
役の後、真田昌幸の旧領は信幸(信之に改名)に与えられ、戸石城も支城として存続していたものと思われるが、元和八(1622)年、信之の松代城転封に際して廃城となった。