「是非に及ばず」業火に潰えた信長の野望

本能寺

ほんのうじ Honnouji

京都府京都市中京区元本能寺南町

信長が倒れた本能寺跡<<2000年10月25日>>

歴史

永禄十一(1568)年に足利義昭を奉じて上洛を果たした織田信長は京都には居館を構えず、妙覚寺や本能寺を宿所としていた。

天正十(1582)年五月、備中高松城を攻めていた羽柴秀吉が安土城の織田信長に援軍を要請、信長は堀秀政、細川忠興、池田恒興、高山右近、中川清秀らに援軍を命じ、安土城に来ていた徳川家康の饗応役を命じられていた明智光秀にも出陣を命じた。光秀は五月十七日に坂本城、五月二十六日に亀山城に移り、翌二十七日愛宕山に参詣、連歌師・里村紹巴と愛宕百韻を催した。信長は五月二十九日に安土城を進発し、京都本能寺を宿所とした。六月一日、信長は博多の豪商島井宗室らを招き茶会を催した。

六月一日夜半、亀山城を進発した光秀は老ノ坂を東へ向かい、沓掛で全軍を小休止、明智秀満、斎藤利三ら重臣に本能寺襲撃計画を打ち明けた。重臣には反対する意見も出たが、結局明智軍は全軍に「信長公が京で閲兵を望んでいる」と伝え、進路を京都に向かって東に取った。桂川を渡る頃、全軍に本能寺襲撃を下知、先遣隊として天野源衛門を派遣し本能寺までの道程を偵察させ、自軍内や経路上の農民らから本能寺への密報者を防ぐため、不審者は斬り捨てとした。

六月二日早暁、明智軍一万三千は京都の街に侵攻、本能寺を襲撃、信長は弓と槍で奮戦したが、森蘭丸をはじめ、わずかな供廻りの小姓たちの殆どが討死、信長も肘に槍傷を受けて退き、島井宗室や女達を退出させた後、殿舎に火をかけさせ、炎の中で自刃した。嫡子・信忠は妙覚寺に投宿しており、変を知って討って出ようとしたが村井貞勝らがこれを止め、信忠は隣接する二条御所に立て籠ったが、光秀軍は御所に隣接する近衛前久邸の屋上から矢・鉄砲を撃ち掛け、信忠も抗戦敵わず自刃した。

光秀は六月三日に坂本城に入り、五日には蒲生賢秀が放棄した安土城を接収、佐和山城、長浜城などを占領したが、備中高松城攻めの羽柴秀吉が城将・清水宗治の自刃で毛利氏との講和をまとめ、電撃進攻で京へ向かった(中国大返し)。光秀は細川藤孝(幽斎)・忠興(忠興は光秀の娘婿)、大和郡山城の筒井順慶などの与力衆に参陣を呼びかけるが、細川父子は信長に弔意を表し髻を切り、順慶は光秀が洞ヶ峠まで出陣して参陣を促したがこれに応えなかった。六月十一日には秀吉隊の先鋒、中川清秀が天王山を、高山重友が山崎を占領し、明智軍先鋒と小競り合いとなる。六月十三日、丹羽長秀・織田信孝隊が秀吉隊と合流、山崎で秀吉軍と明智軍は激突したが(山崎合戦)、明智隊は総崩れとなり勝龍寺城へ撤退、光秀は坂本城に撤退する途上、山城国伏見郊外の小栗栖で落武者狩りの土民に襲われ落命した。

天正十年六月二日早暁、本能寺に投宿していた信長は騒々しい物音に目を覚ました。「町衆の喧嘩か」そう思った矢先、馬の嘶きと鉄砲の音がはっきりと聞こえた。

「お蘭!何事ぞ!」

「謀叛にござります。旗印は水色桔梗、明智が者と見えまする。」

この日、信長の手元にはわずかな近習しかいない。備中高松城攻めの指揮を執る羽柴秀吉のほか、柴田勝家は越中魚津城で上杉景勝軍と交戦中、滝川一益は関東管領として厩橋城にいる。丹羽長秀、織田信孝は四国攻めのため大坂に集結中、同盟者の徳川家康もわずかな供廻りで堺見物中。織田の主力はことごとく出陣中で、いわば京都は空白地帯だった。堀一重でしかないこの寺が、光秀の軍勢に囲まれたら、もはや防戦の手立ては無い。近親相討つ尾張一国の平定から電撃戦の桶狭間での勝利、苦心の末の美濃併呑と将軍義昭を伴っての上洛、そして義昭の暗躍による本願寺一向一揆、比叡山、越前朝倉、近江浅井、甲斐武田らの包囲網との戦い、それらを外敵を紙一重のところで斬り抜け、やっと前途に「天下布武」が成就するのを見れるはずであった。それが、思いもよらぬ内なる敵、明智光秀によって、すべてが瓦解しようとしていた。いや、故なきことではなかった。林通勝、佐久間信盛ら重臣の追放、朝廷への圧力、反抗勢力への徹底的弾圧。まるで生き急ぐかのような性急な破壊と創造。その破壊の最終段階は、自らの存在の破壊であったのかもしれない。

人間五十年、下天のうちを比ぶれば夢幻の如く也

その五十年にあと一年、掴みかけた天下が、指の隙間から擦り抜けていった。

「是非に及ばず」

万感の思いを込めた言葉を最後に、信長の天下布武はその完成を見ないまま、業火の中で灰燼に帰した。

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この、日本史上最も有名な叛乱事件「本能寺の変」。光秀がなぜ、謀叛に及んだのかは諸説あり、真相はわかっていません。代表的な説、

怨恨説:甲斐平定戦で光秀は酒宴の最中、「我らも長年の骨折りの甲斐があった」と発言したことに信長が立腹、光秀を激しく打ちすえ、満座の中で恥をかかせた。徳川家康の饗応役を命じられたが、料理の食材にする魚が腐臭を放っていたことを信長に激しく咎められ饗応役を解任された。丹波八上城攻めに際し、波多野氏へ母を人質に出したが、波多野氏が安土城下で磔にかけられたことで人質の母を殺された、所領の近江坂本・丹波を召し上げられ、毛利領の石見・出雲への国替えを命じられた、等。

危機感説:重臣の佐久間信盛、林通勝らが追放されたことや前述の国替えなどから、次は自分が迫害されるとの危機感を募らせた。

秀吉ライバル説:破竹の勢いで出世を果たした秀吉に嫉妬を抱いていた。備中高松城攻めへの援軍を命じられたことで、秀吉の与力に成り下がることを恐れた。

天下簒奪説:光秀は信長に変わって天下に号令することを望んだ。京都が軍事的空白地帯であることに目をつけ、朝廷を味方につけて天下簒奪を狙った。自らが美濃源氏の末裔であることから、「源平政権交代説」をもって源氏による支配を狙った、等。

この他、「信長の皇位簒奪阻止のための朝廷黒幕説」「秀吉・家康共同犯行説」「蜂須賀党による陰謀、光秀犯行に加担せず罠にはめられた説」などの多数の説があります。多少荒唐無稽とも思える説もありますが、どれもある程度、真相であったような気がします。というより、これほどの大事を決意するに至るまでに、単一の動機であったと考えるよりも、様々な要因が積もり積もって、突発的に犯行に及んだもの、と見るのが妥当ではないかと思っています。いずれにせよ、計画的犯行でなかったことはその後のドタバタを見れば明らかで、光秀は大事を成し遂げながらも周囲を味方につけることができず、焦燥の中で畿内すら制圧できないまま秀吉の「中国大返し」によって窮地に追い詰められ、山崎合戦で大敗、小栗栖の竹薮の中で土民の竹槍によってすべてが露と消えてゆきます。その後、「あれよあれよ」という間に秀吉によって天下統一が成し遂げられ、秀吉は卑賤の身から関白太政大臣にまで登りつめたことはご存知のとおりです。しかし、光秀は実は死んでいない、落ち延びて「天海僧正」として徳川幕府のブレーンとなった、などの説もあり、この「本能寺の変」は様々な憶説が生まれています。

中世的な権威や社会構造をことごとく破壊した信長が最後に破壊したのは「おのれ自身」でありました。それを引き継いで新しい時代を再構築したのが秀吉であり、家康であったのでしょう。その中で光秀は時代の変わり目を演出し、中世から近世への橋渡しをするための触媒として生まれ、死んでいった、そんな風に思えてなりません。

現在の本能寺は区画整理によって京都市役所に近い、寺町通り商店街のすぐ横にひっそりと建っていました。ホテルやビルに囲まれた一角は、意外なほど静寂に包まれています。 信長公廟。人間五十年、信長四十九年、夢幻のような生涯を駆け抜け、日本史を飾った男は破壊と創造の中で、最期に自らを破壊して業火の中に消えてゆきました。
本能寺の変、陣没者名簿。森蘭丸らの名も書き記されています。 旧本能寺の跡に建つ本能小学校。現在は廃校。小さな通りの角には「此付近、本能寺」の石碑が建つ。420年前、水色桔梗の旗がこの通りを埋め尽くした。

 

交通アクセス

本能寺:京都市営地下鉄「京都市役所前」駅徒歩1分。京阪鴨東線「三条京阪」駅徒歩5分。

旧本能寺:阪急電鉄京都線「大宮」駅、京福嵐山線「四条大宮」駅徒歩5分。

周辺地情報

旧本能寺近くには信長がその建設を認めた南蛮寺跡があります。徳川の二条城も近くです。京都御苑には、地下鉄工事の際に発掘された、信長が築いた旧二條城の石垣が復原されています。その他の史跡は京都の町じゅうにありますので、お好きなところへどうぞ。

関連サイト

 

 

参考文献

別冊歴史読本「織田信長その激越なる生涯」(新人物往来社)、ビッグマンスペシャル「織田信長」 (世界文化社)、「元亀信長戦記」(学研「戦国群像シリーズ」)、小説「下天は夢か」(津本陽)、小説「明智光秀」(桜田晋也)ほか

参考サイト

 

 

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