永禄十一(1568)年に足利義昭を奉じて上洛を果たした織田信長は京都には居館を構えず、妙覚寺や本能寺を宿所としていた。
天正十(1582)年五月、備中高松城を攻めていた羽柴秀吉が安土城の織田信長に援軍を要請、信長は堀秀政、細川忠興、池田恒興、高山右近、中川清秀らに援軍を命じ、安土城に来ていた徳川家康の饗応役を命じられていた明智光秀にも出陣を命じた。光秀は五月十七日に坂本城、五月二十六日に亀山城に移り、翌二十七日愛宕山に参詣、連歌師・里村紹巴と愛宕百韻を催した。信長は五月二十九日に安土城を進発し、京都本能寺を宿所とした。六月一日、信長は博多の豪商島井宗室らを招き茶会を催した。
六月一日夜半、亀山城を進発した光秀は老ノ坂を東へ向かい、沓掛で全軍を小休止、明智秀満、斎藤利三ら重臣に本能寺襲撃計画を打ち明けた。重臣には反対する意見も出たが、結局明智軍は全軍に「信長公が京で閲兵を望んでいる」と伝え、進路を京都に向かって東に取った。桂川を渡る頃、全軍に本能寺襲撃を下知、先遣隊として天野源衛門を派遣し本能寺までの道程を偵察させ、自軍内や経路上の農民らから本能寺への密報者を防ぐため、不審者は斬り捨てとした。
六月二日早暁、明智軍一万三千は京都の街に侵攻、本能寺を襲撃、信長は弓と槍で奮戦したが、森蘭丸をはじめ、わずかな供廻りの小姓たちの殆どが討死、信長も肘に槍傷を受けて退き、島井宗室や女達を退出させた後、殿舎に火をかけさせ、炎の中で自刃した。嫡子・信忠は妙覚寺に投宿しており、変を知って討って出ようとしたが村井貞勝らがこれを止め、信忠は隣接する二条御所に立て籠ったが、光秀軍は御所に隣接する近衛前久邸の屋上から矢・鉄砲を撃ち掛け、信忠も抗戦敵わず自刃した。
光秀は六月三日に坂本城に入り、五日には蒲生賢秀が放棄した安土城を接収、佐和山城、長浜城などを占領したが、備中高松城攻めの羽柴秀吉が城将・清水宗治の自刃で毛利氏との講和をまとめ、電撃進攻で京へ向かった(中国大返し)。光秀は細川藤孝(幽斎)・忠興(忠興は光秀の娘婿)、大和郡山城の筒井順慶などの与力衆に参陣を呼びかけるが、細川父子は信長に弔意を表し髻を切り、順慶は光秀が洞ヶ峠まで出陣して参陣を促したがこれに応えなかった。六月十一日には秀吉隊の先鋒、中川清秀が天王山を、高山重友が山崎を占領し、明智軍先鋒と小競り合いとなる。六月十三日、丹羽長秀・織田信孝隊が秀吉隊と合流、山崎で秀吉軍と明智軍は激突したが(山崎合戦)、明智隊は総崩れとなり勝龍寺城へ撤退、光秀は坂本城に撤退する途上、山城国伏見郊外の小栗栖で落武者狩りの土民に襲われ落命した。