箕輪廃城後の近世城郭

高崎城

たかさきじょう Takasaki-Jo

別名:和田城

群馬県高崎市高松町

城の種別

近世平城

築城時期

正長元(1428)年

築城者

和田義信

主要城主

和田氏、井伊氏、諏訪氏、酒井氏、松平氏、安藤氏など

遺構

土塁、水堀、東門(乾櫓は復元、石垣は模擬)

復元乾櫓と本丸東門<<2001年9月14日>>

歴史

もとはこの地の豪族、和田氏の居城、和田城だった。

和田氏は関東管領上杉氏に従属した。山内上杉氏が衰え、上杉憲政が越後に遁走すると、その養子となり関東管領を継いだ上杉謙信の配下となった。しかし、鶴ヶ丘八幡宮での忍城主・成田長泰への対応に不信感を抱き、次第に武田に内通するようになる。武田氏の滅亡後は滝川一益、北条氏などに従ったが、天正十八(1590)年の小田原の役で、上杉景勝、前田利家らの北方軍に攻められ落城した。

家康の関東入封後は、井伊直政を箕輪城に置いたが、慶長三(1598)年、井伊氏はより交通の便がいいこの和田の地に移り、和田城を修築して「高崎城」と改めた。井伊氏はわずか三年で近江彦根へ転封、以降は諏訪氏、酒井氏、松平氏、安藤氏らが城主・城代を勤めた。

永8年(1632年)、安藤重長のとき、徳川三代将軍・家光の実弟、忠長が駿河から配流、ここ高崎城で蟄居の身となった。三代将軍の座を巡る鬱積から、乱行を繰り返した果ての配流だった。忠長は翌寛永九(1633)年、蟄居先のここ高崎城で自害した。享年29歳。

あいかわらず近世城郭にはあまり興味が無いのですが、近くにいたのでせっかくだから寄ってみました。復元櫓、現存門のほか、土塁が思いのほか良く残っています。ただやはり街中の平城、城地の殆どは県や市の公共施設になっており、往時をしのばせるものはごくわずかです。

城郭としての高崎城はともかくとして、ここ高崎城は、徳川家光の実弟、駿河大納言・忠長が非業の死を遂げた場所であります。家光は幼少より粗暴な気質で、二代将軍秀忠と、その妻お江の方は、家光を廃嫡し次男の忠長に跡を継がせようとします。しかし、筋目を重んずる家康により、跡継ぎは家光と決められてしまいます。おもしろくない忠長は、任地である駿河で乱行を繰り返し、遂に幕府により咎められ、改易、蟄居の身となります。配流先の高崎では、安藤重長らが幕府に釈免を働きかけるものの認められず、終に忠長は自害し果てます。

これを非業の死と取るか、自業自得と取るかは考え方次第ですが、注目したいのは駿河における忠長の乱行。実は、徳川一門にはこの乱行で身を滅ぼした者のなんと多いことか。家康の嫡男・信康、六男・松平忠輝、結城秀康の嫡男・松平忠直、そしてこの忠長。兄・家光も狂躁的な人格の持ち主であったことが知られており、また犬将軍・綱吉に至っては完全な人格障害者であったと言われています。

ここ高崎で起きた悲劇は、この徳川の「呪われた血」が呼び起こしたものなのでしょうか?

なんやかんや言っても、やっぱりこの延々と続く土塁はいいものですな。ちなみに乾櫓周辺の石垣はインチキです。 土塁の周りには、このような水堀も残ります。

 

交通アクセス

関越自動車道「高崎」IC車15分。

JR・上信電鉄「高崎」駅徒歩5分。

周辺地情報

後閑城箕輪城など。

関連サイト

 

 
参考文献 「関東三国志」(学研「戦国群像シリーズ」)、現地解説板

参考サイト

群馬の城郭からっ風倶楽部

 

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