あいかわらず近世城郭にはあまり興味が無いのですが、近くにいたのでせっかくだから寄ってみました。復元櫓、現存門のほか、土塁が思いのほか良く残っています。ただやはり街中の平城、城地の殆どは県や市の公共施設になっており、往時をしのばせるものはごくわずかです。
城郭としての高崎城はともかくとして、ここ高崎城は、徳川家光の実弟、駿河大納言・忠長が非業の死を遂げた場所であります。家光は幼少より粗暴な気質で、二代将軍秀忠と、その妻お江の方は、家光を廃嫡し次男の忠長に跡を継がせようとします。しかし、筋目を重んずる家康により、跡継ぎは家光と決められてしまいます。おもしろくない忠長は、任地である駿河で乱行を繰り返し、遂に幕府により咎められ、改易、蟄居の身となります。配流先の高崎では、安藤重長らが幕府に釈免を働きかけるものの認められず、終に忠長は自害し果てます。
これを非業の死と取るか、自業自得と取るかは考え方次第ですが、注目したいのは駿河における忠長の乱行。実は、徳川一門にはこの乱行で身を滅ぼした者のなんと多いことか。家康の嫡男・信康、六男・松平忠輝、結城秀康の嫡男・松平忠直、そしてこの忠長。兄・家光も狂躁的な人格の持ち主であったことが知られており、また犬将軍・綱吉に至っては完全な人格障害者であったと言われています。
ここ高崎で起きた悲劇は、この徳川の「呪われた血」が呼び起こしたものなのでしょうか?