十日間で崩れた旧領回復運動

平瀬城

ひらせじょう Hirase-jo

別名:

長野県松本市島内

城の種別

山城

築城時期

不明

築城者

平瀬氏

主要城主

平瀬氏、原氏

遺構

曲輪、石積み、堀切、竪堀、土塁

主郭より松本市街地方面を望む<<2005年05月03日>>

歴史

築城年代・築城者は定かではないが、犬甘氏の一族である平瀬氏が築いたという。平瀬氏はのちに信濃守護として入国した府中小笠原氏の配下となった。

天文十九(1550)年七月十日、武田晴信は村井城に入り、小笠原長時の属城を攻撃した。七月十五日には「イヌイの城(埴原城か)」を陥落させて勝ち鬨を挙げると、小笠原氏の属城は大城(林城)深志城、岡田城、桐原城、山家城の五ヶ城が相次いで自落した。小笠原長時は林城を捨てて一時平瀬八郎左衛門が守る平瀬城に逃れた後、葛尾城の村上義清を頼って落ち延びた。

天文十九(1550)年十月、武田晴信が戸石城の合戦で村上義清に大敗すると(戸石崩れ)、村上義清は佐久地方に侵攻、ついで義清のもとに身を寄せていた小笠原長時とともに十月二十一日に平瀬城に入った。義清・長時の出兵により、筑摩郡では小笠原氏の旧臣らが結集した。これを受けて深志城将の馬場民部少輔信房、日向大和守是吉は籠城の態勢を整えて甲府に報じた。この報を受けた武田晴信は十月二十三日に甲府躑躅ヶ崎館を出陣し、中下條まで出馬した。この晴信の出馬により村上勢は動揺、武田軍が小県から村上領に侵攻するという噂が流れ、村上軍は突如平瀬城から撤退、十一月八日には小諸城に入った。長時は単独で武田軍と対戦を決意するが、武田軍出馬と村上軍の離脱により旧臣諸将の脱落が相次ぎ、長時は平瀬城を出て、野々宮の合戦で武田の前進部隊を破った後、中塔城に立て籠もった。

天文二十(1551)年十月十四日、村上義清は仁科氏の属城であった丹生子城を攻め落とした。この報を受けた武田晴信は十月十五日に甲府躑躅ヶ崎館を出陣、二十日に深志城に入り、二十四日小笠原軍の抵抗拠点となっていた平瀬城を攻撃、城将平瀬八郎左衛門以下二百四名を討ち取り平瀬城は落城、武田の属城となった。晴信はここを前進拠点とするべく、十月二十八日に城割(破却)を実施した上で改めて鍬立てを行い、十一月十日には原美濃守虎胤を城将に任じている。平瀬城は武田氏の小笠原残党掃討の基地となり、天文二十一(1552)年八月には小岩嶽城を攻撃、落城させた晴信が平瀬城に入っている。天文二十二(1553)年五月、晴信は塔原城、平瀬城を破却、筑摩・安曇の拠点を深志城に一本化し、平瀬城は廃城となった。

松本市街地から国道19号を北上すると、やがて右手に山並み、左手に奈良井川が迫ってきます。奈良井川と梓川が合流して犀川に名を変える附近の右手、山並みがひときわ突出した峰の先端に平瀬城があります。国道沿いに「平瀬城跡入り口」の大きな看板があるのが目印ですが、車で走っていると通り過ぎてしまうかもしれません。国道の東側に広い路側帯(飲食店が数軒建つ)があるので、そこに車を置いて歩くのが無難でしょう。

平瀬城林城の支城として、平瀬氏の居城でした。天文十九(1550)年、武田信玄は松本周辺に侵攻し、「イヌイの城(埴原城だといわれる)」を攻め落とすと、本拠地の林城をはじめ、属城の桐原城・岡田城・山家城なども次々と自落しますが、この平瀬城は位置的に少し離れていることもあってか何とか踏みとどまります。その後武田氏は戸石城の力攻めに失敗、いわゆる「戸石崩れ」で大打撃を負うと、林城を追われた小笠原長時も「チャンス到来!」とばかり、村上義清と連合してこの平瀬城に陣取り、旧領奪還を狙います。このあたりまではなかなか骨があっていいなあと思うのですが、この平瀬城挙兵の報を受けた信玄が躑躅ヶ崎館を発ったという報にこのニワカ連合軍は動揺、「武田が東信を攻める」との風評に、村上義清が慌てて撤退してしまいます。この義清の行動に長時は口あんぐり、しかし頼みの援軍が勝手に撤退した以上、勝ち目はないとこちらも撤退、長時の第一次旧領回復運動はわずか十日間あまりで自壊してしまったのでした。ただこの後も長時は野々宮の合戦で武田軍を相手に勝利を収め、さらに中塔城などでかなり長期にわたって抵抗していますので、簡単に領土回復を諦めたわけではなさそうです。平瀬城は平瀬八郎左衛門が相変わらず守っており、小岩嶽城などの小笠原属城もしつこく武田軍の侵攻に抵抗していました。

この小笠原残党軍、おそらく単独では武田の脅威にはなり得ないものであったのでしょうが、北信攻略を目指す信玄にとっては放っておいたら背後を脅かされる形になってしまいます。まずターゲットにされたのがこの平瀬城で、城将の平瀬八郎左衛門以下、城兵204名が討ち死にしたというから、かなりの激戦であったのでしょう。このときの戦闘で平瀬八郎左衛門を討ち取ったのは同じ小笠原旧臣で山家城の山家氏の一族とみられる山家右馬允であったといいます。なんだか切ない話です。

信玄は一度この平瀬城を破却、改めて鍬立てを行い、城将に「鬼美濃」原虎胤を配置しています。このころ松本平では深志城(松本城)を拠点城郭として、それ以外のお城はほとんど破却対象とされていましたが、平瀬城だけは例外的に改修を受け、暫くは安曇・筑摩郡への侵攻拠点として、また対小笠原残党への押さえとして存続しています。それも天文二十二(1553)年までで、小笠原勢力がほぼ一掃されると、平瀬城も破却されて使命を終えます。必要な城は改修し、必要が無くなれば即破却する、武田信玄という人物の合理性がここでも伺われます。

平瀬城平面図(左)、鳥瞰図(右)

※クリックすると拡大します。

平瀬城は犀川の合流点に突き出た峰の先端附近に主郭を置き、尾根続きには延々と堀切や竪堀を入れていますが、基本的に兵力が駐屯できるのは主郭周辺くらいで、あとはろくすっぽ削平もされていません。ここにも必要最小限の工事しかやらないよ、という合理性が伺えます。地形的に主郭よりも尾根続きのほうが高いこともあり、主郭背後には執拗に連続堀切・連続竪堀を入れているのが特徴です。さらに城郭遺構は主尾根と平行して伸びる北側の尾根や、谷をはさんだ南側の尾根先端にも築かれています。南側の出城は行っていませんが、北側のものは堀切なども本城に比べてかなり小さいもので、せいぜい小規模な砦といった程度のものです。北側の出城はヤブがひどい上、先端部分は歩くのが危険なくらいの急斜面なので、敢えて見なくてもいいかもしれません。ちょっと残念だったのが、主郭部を含めて結構ヤブ化していること。ヤブが酷くて遺構が全然見えない場所もあり、何とかして欲しいところです。武田信玄が破却して新たに鍬立てを行った、ということですが、見た感じだと小笠原氏系統の城郭としての色彩が濃く、武田氏流の改修がどの程度行われているのかはよくわかりませんでした。

ここからの景色は素晴らしく、目の前に犀川、そして安曇野の平原が広がり、彼方に北アルプスの青々とした山脈が横たわる、安曇野の大パノラマが楽しめます。この眺望のよさはこの附近のお城でも抜群でしょう。登るのはやや苦労しますが、その価値がある風景かもしれません。

[2005.10.22]

梓川と奈良井川が合流して犀川になる、その対岸からの遠景。突出した平瀬城主要部に、谷を挟んで北と南に小規模な出城を構えています。それにしても、五月の梓川の水量の多さには圧倒されました。
国道19号からJR篠ノ井線の下をくぐって平瀬城の登り口に達します。大きな看板ですが車で走っていると十中八九、通り過ぎてしまう場所です。 登り口から沢伝いに奥へ奥へと登る。途中左に分岐する道がありますがそちらには行かず、どんどん沢沿いに登りつめるのが正解です。
山頂附近からの眺めはまさに絶景、北アルプスの山並み、田植え時期の安曇野の広がり・・・小笠原長時が駆け回った大地が眼前に。 主郭ですが、どうにもこうにもヤブです。そこだけが残念なところです。
主郭の西側は低い土塁によって方形空間が作られています。 主郭南側の塁線には、ごく低い石積みの列も見られます。
U曲輪とV曲輪の間には竪堀状の通路があり、虎口が形成されています。しかし倒木だらけで歩きにくい・・・。 主郭先端の下段に位置するV曲輪。この先も段々が続いているようでしたが、いかんせんヤブが酷くてこのへんまでで引き返しました。
主郭東南隅の標柱と、おそらく城兵の霊を祀ったのであろう石塔。このあたりからは松本市街地も望めます。 さて尾根続きの堀切群に突入。堀1は主郭からは10mほどもあります。ここもヤブだなあ・・・。
主郭背後の連続竪堀。かなり規模が大きく、山腹がウネウネと波打っているように見えます。 尾根上のW曲輪。まともな削平地らしい削平地はこの曲輪までくらいで、あとはほとんど自然地形の緩傾斜のままです。
W曲輪背後の堀切12、ここは土橋が明瞭です。 堀12と13の間に挟まれた小空間には低い土塁もあり、尾根上に位置する馬出しのように見えます。
長く山麓近くまで続く竪堀14。この堀は登山道の途中で、木橋がかかっている場所に繋がります。 搦手尾根上に複雑に張り巡らされた堀底状通路。この地方の山城でよく見られる遺構ですが、意図はいまひとつ不明です。
北出城へと向かう尾根。延々と痩せ尾根が続いています。 北出城の堀はいずれも小さく、曲輪もほとんど削平されていません。この先端附近は非常に急傾斜でアブナイので、下山するには本城まで戻ったほうが安全です。

 

 

交通アクセス

長野自動車道「豊科」ICより車10分。

JR篠ノ井線「田沢」駅から徒歩30分で登り口。バス等は不明。  

周辺地情報

城山公園になっている犬甘城や車で山頂近くまでいける光城など。

関連サイト

 

 

参考文献

「戦史ドキュメント 川中島の戦い」(平山優/学研M文庫)

「信濃の山城」(小穴芳実編/郷土出版社)

「戦国武田の城」(中田正光/有峰書店新社)

「日本城郭大系」(新人物往来社)、現地解説板

参考サイト

ゆうさんの独善的松本案内 信玄を捜す旅 武田家の史跡探訪

埋もれた古城 表紙 上へ