松本市街地から国道19号を北上すると、やがて右手に山並み、左手に奈良井川が迫ってきます。奈良井川と梓川が合流して犀川に名を変える附近の右手、山並みがひときわ突出した峰の先端に平瀬城があります。国道沿いに「平瀬城跡入り口」の大きな看板があるのが目印ですが、車で走っていると通り過ぎてしまうかもしれません。国道の東側に広い路側帯(飲食店が数軒建つ)があるので、そこに車を置いて歩くのが無難でしょう。
平瀬城は林城の支城として、平瀬氏の居城でした。天文十九(1550)年、武田信玄は松本周辺に侵攻し、「イヌイの城(埴原城だといわれる)」を攻め落とすと、本拠地の林城をはじめ、属城の桐原城・岡田城・山家城なども次々と自落しますが、この平瀬城は位置的に少し離れていることもあってか何とか踏みとどまります。その後武田氏は戸石城の力攻めに失敗、いわゆる「戸石崩れ」で大打撃を負うと、林城を追われた小笠原長時も「チャンス到来!」とばかり、村上義清と連合してこの平瀬城に陣取り、旧領奪還を狙います。このあたりまではなかなか骨があっていいなあと思うのですが、この平瀬城挙兵の報を受けた信玄が躑躅ヶ崎館を発ったという報にこのニワカ連合軍は動揺、「武田が東信を攻める」との風評に、村上義清が慌てて撤退してしまいます。この義清の行動に長時は口あんぐり、しかし頼みの援軍が勝手に撤退した以上、勝ち目はないとこちらも撤退、長時の第一次旧領回復運動はわずか十日間あまりで自壊してしまったのでした。ただこの後も長時は野々宮の合戦で武田軍を相手に勝利を収め、さらに中塔城などでかなり長期にわたって抵抗していますので、簡単に領土回復を諦めたわけではなさそうです。平瀬城は平瀬八郎左衛門が相変わらず守っており、小岩嶽城などの小笠原属城もしつこく武田軍の侵攻に抵抗していました。
この小笠原残党軍、おそらく単独では武田の脅威にはなり得ないものであったのでしょうが、北信攻略を目指す信玄にとっては放っておいたら背後を脅かされる形になってしまいます。まずターゲットにされたのがこの平瀬城で、城将の平瀬八郎左衛門以下、城兵204名が討ち死にしたというから、かなりの激戦であったのでしょう。このときの戦闘で平瀬八郎左衛門を討ち取ったのは同じ小笠原旧臣で山家城の山家氏の一族とみられる山家右馬允であったといいます。なんだか切ない話です。
信玄は一度この平瀬城を破却、改めて鍬立てを行い、城将に「鬼美濃」原虎胤を配置しています。このころ松本平では深志城(松本城)を拠点城郭として、それ以外のお城はほとんど破却対象とされていましたが、平瀬城だけは例外的に改修を受け、暫くは安曇・筑摩郡への侵攻拠点として、また対小笠原残党への押さえとして存続しています。それも天文二十二(1553)年までで、小笠原勢力がほぼ一掃されると、平瀬城も破却されて使命を終えます。必要な城は改修し、必要が無くなれば即破却する、武田信玄という人物の合理性がここでも伺われます。
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平瀬城平面図(左)、鳥瞰図(右)
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平瀬城は犀川の合流点に突き出た峰の先端附近に主郭を置き、尾根続きには延々と堀切や竪堀を入れていますが、基本的に兵力が駐屯できるのは主郭周辺くらいで、あとはろくすっぽ削平もされていません。ここにも必要最小限の工事しかやらないよ、という合理性が伺えます。地形的に主郭よりも尾根続きのほうが高いこともあり、主郭背後には執拗に連続堀切・連続竪堀を入れているのが特徴です。さらに城郭遺構は主尾根と平行して伸びる北側の尾根や、谷をはさんだ南側の尾根先端にも築かれています。南側の出城は行っていませんが、北側のものは堀切なども本城に比べてかなり小さいもので、せいぜい小規模な砦といった程度のものです。北側の出城はヤブがひどい上、先端部分は歩くのが危険なくらいの急斜面なので、敢えて見なくてもいいかもしれません。ちょっと残念だったのが、主郭部を含めて結構ヤブ化していること。ヤブが酷くて遺構が全然見えない場所もあり、何とかして欲しいところです。武田信玄が破却して新たに鍬立てを行った、ということですが、見た感じだと小笠原氏系統の城郭としての色彩が濃く、武田氏流の改修がどの程度行われているのかはよくわかりませんでした。
ここからの景色は素晴らしく、目の前に犀川、そして安曇野の平原が広がり、彼方に北アルプスの青々とした山脈が横たわる、安曇野の大パノラマが楽しめます。この眺望のよさはこの附近のお城でも抜群でしょう。登るのはやや苦労しますが、その価値がある風景かもしれません。
[2005.10.22]