「小笠原流」築城の最高峰

桐原城

きりはらじょう Kirihara-jo

別名:

長野県松本市入山辺桐原

城の種別

山城

築城時期

寛正元(1460)年頃

築城者

桐原真智

主要城主

桐原氏、遠山氏(?)

遺構

曲輪、石積み、堀切、竪堀、土塁

主郭周囲の石積み<<2002年11月10日>>

歴史

寛正元(1460)年頃、犬甘城主・犬甘大炊介政徳の弟、桐原真智が築き、小笠原清宗に属したという。

天文十九(1550)年七月十日、晴信は村井城に入り、小笠原長時の属城を攻撃した。七月十五日には「イヌイの城(埴原城か)」を陥落させて勝ち鬨を挙げると、小笠原氏の属城は大城(林城)深志城、岡田城、桐原城、山家城の五ヶ城が相次いで自落、長時は一時平瀬城に入ったが、のちに村上義清を頼って塩田城に逃れた。このとき桐原氏(長真か)は周囲が武田氏に内通する中、小笠原長時に人質を出して忠節を尽くし、一時長時を桐原城にむかえた後、村上義清を頼ったという。十九日には武田軍は深志城に入り、晴信臨席のもとで駒井高白斎らによって鍬立ての式が行われ、二十三日には惣普請を実施、深志城を武田氏の拠点とし、馬場民部少輔信房、日向大和守是吉を城将に任じた。桐原城はその後、遠山長左衛門に与えられたという伝承があるが確証はなく、そのまま廃城となったものと思われる。

いや、ビックリしました。すごい山城です。次から次へ繰り出してくる大技小技に幻惑されてしまいます。数年前訪れたときは夕方近くだったこともあり、ざっと回った印象では「石積みが見事」程度の印象くらいしか残らなかったのですが、今回時間をかけて歩いてみて、いかに自分の目がフシアナであったかを思い知ることとなりました。

小笠原氏はそのあまりにもあっけない没落とは対照的に、残された城郭遺構には見ごたえのあるものが多くあります。小笠原氏というと、伊勢氏と並んで室町式の武家の礼法「小笠原流」を完成させた一族として有名ですが、築城術もなかなか洗練されているではありませんか!そんな中でも桐原城は「小笠原流」築城における最高峰のひとつに位置づけられるでしょう。

桐原城を訪れると、まず至る所に築かれた石積み遺構の多さに圧倒されるでしょう。埴原城、山家城や林小城の石積みも見事ですが、桐原城のものは一段とその範囲が広く、主郭を中心とした主要部の至るところにあります。石積みは土塁や切岸の上端附近に築かれた「鉢巻」状のものと、切岸の下端に築かれた「腰巻」状のものがあり、西側の段郭あたりにはそこかしこに石積みがあります。さらに、V曲輪虎口(E)には枡形のような四角い空間があり、同行のオカ殿は「馬の水飲み場」と命名していました。ちょっと変わった場所では、竪堀の上端を閉塞するように築かれたものが少なくとも二箇所、さらに主郭背後から南側斜面に降りていく連続竪堀の間に挟まれた竪土塁、あるいは連続堀切の真ん中の土塁の背面などにも石積みが設けられています。このあたりの主要な部分の縄張は、林小城とどことなく共通するものがあります。とにかく主要部はまさに石の要塞、これだけでも見ごたえ十分。

さらに追い討ちをかけてスゴイのが数々の竪堀群。主郭の背後の堀切(堀7)などは、そこだけ見れば何の変哲もない堀切に見えますが、北側から西側に向かって主郭を巻くように横堀に変化し、さらに山腹を斜めに降りる長大な竪堀に変化します。この横堀から別の竪堀(堀8、9)も枝分れしています。そして圧巻なのはこの長大斜め堀のある北側斜面一帯で、「これでもか」というくらいの連続竪堀に目を疑います。連続竪堀もあちこちで目にしてきましたが、これほど規模が大きく複雑なものはお目にかかったことがありません。長大な竪堀は西側の主尾根筋にもあり(堀1、2、3等)、いずれも山麓近くまで伸びていて、登山道の入り口から少し入ったあたりでお目にかかることができます。主郭部が「石の芸術」とすれば、こちらは「土の芸術」とでも言いましょうか。

虎口が比較的はっきりしているのも魅力です。主郭周囲の石積みを伴う虎口(G)もいいのですが、大手と見られる西側主尾根筋の二箇所の虎口(A、B)の貫禄は抜群です。この虎口は、長大な竪堀に繋がる堀切に面して設けられていて、土塁(本来は石積みを伴うものか)の開口部が櫓台状に盛り上がっています。ここから狙われたら一歩も先には行けないな、という説得力があります。この虎口附近には多くの削平地が連なっており、縄張としては林大城にも通じるものがあります。各曲輪の虎口は前述のように石積みを伴うものが多く、かなり技巧的で立派ですが、大手道からの経路が今ひとつ不明、このあたりは崩落もあり、本来の道が分かりにくくなっているように思えます。

主郭裏手の尾根続きには埴原城でも見られる、塹壕状の堀底状の通路のようなものが複雑に分岐しながら伸びており、所々で竪堀が派生しています。これは尾根続きの方が高いという地形上の制約からの苦肉の策のようにも思えます。あるいは古図では主郭の奥に三条の水路が描かれていますので、もしかしたら導水施設の一部でしょうか。どういう風に使われていたのか、今ひとつ理解に苦しむところです。

桐原平面図(左)、鳥瞰図(中)、主要部鳥瞰図(右)

※クリックすると拡大します。


全体的に見ると長大な竪堀や尾根筋の小曲輪群、主要部の石積みなど、小笠原氏系の城郭の特徴をよく備えつつも、林城などと比べてもより先鋭的で複雑な技巧が見られるお城であり、圧倒的な石積み遺構と大胆な竪堀のコラボレーションはまさに「石と土の芸術品」とでも呼びたくなります。

この桐原城、これほどの技巧的なお城でありながら、武田氏の松本侵攻に際しては「イヌイの城」陥落ののち、林城などとともに戦わずして自落してしまいます。これほど手を入れておきながら、勿体無いような・・・・武田氏による改修も可能性がゼロではないですが、基本的に武田氏は深志城をこの地方の拠点城郭として整備し、支城網を整理統合していますので、桐原城もこのまま廃城となった公算が高いでしょう。城を獲ることは「手段」でしかなく「目的」は別のところにある、そのためにはいかなる立派な城であろうと不要なものは棄てる、おそらく信玄はそんな人物だったのでしょう。ある意味でこの桐原城埴原城は小笠原氏の城郭の最終形態の完成形を留めているともいえ、貴重なものです。林城を南北から守るこの2城を見るにつけ、最終段階における小笠原氏の強い危機感が伝わってくるようでもあります。

[2005.07.10]

小笠原氏の本城である林城から遠望する桐原城。林城とは薄川を挟んで2kmほど、まさに林城防衛の切り札ともいえる位置関係。 近くで見ると同じような山の端ばかりでどれが桐原城かわかりづらい。「山辺ワイナリー」前から北東の集落に入り、「追倉沢」沿いに舗装道路を登ると登山口に看板が立っています。
登り始めて10分ほど、尾根の上から睨みつける虎口A。二重の堀切と高い土の壁で攻撃者を圧倒します。 ここから暫く、夥しい数の段郭群が続きます。このあたりは林城を筆頭に、モロ小笠原氏関連城郭のニオイがするところです。
虎口Aに輪をかけて厳重な虎口B。もともと石積みだったようです。虎口は向かって右手に、枡形状に折れ曲がっています。 虎口Bの上から登城者を監視!ここを突破するのは至難の業でしょう。この虎口から上は不思議なことに、暫く自然地形の斜面が続きます。
虎口Bの前を遮る堀2。このあたりの堀は埋まっていて分かりづらいですが実は二重堀、しかも西側は長大な竪堀が続いていてなかなか見事です。 目立たないですが石積みを伴う虎口C。九十九折の道が海岸寺沢方面から続いています。
主要部に突入するにつれ、夥しい石積みが目の前に現れます。ただし道に沿って登っていると主郭下を通過して搦手に至ってしまうので、適当な場所から主郭方面へよじ登ると良いでしょう。本来の道は今ひとつ不明瞭でよくわかりません。 竪堀の最上端を塞ぐ石塁の壁。竪堀を攀じ登って来た敵を寄せ付けぬための仕掛けか?同様のものは埴原城にも見られます。
主郭は周囲に石積みを伴い、尾根続きの東側にはお約束の大土塁があります。この土塁もところどころ石積みが残っています。 主郭周囲の石積み遺構。いわゆる「高石垣」ではなく、最高でも2mに満たない低いもの。しかしその威容は今でも迫力十分です。
主郭の北西、直線的な折れを持つ石積みの列。 主郭背後の大土塁の裏側(搦手側)にも石積みが。ちなみにこの土塁の背後は堀切ですが、途中に小さな平場があるのが特徴です。
主郭虎口は本来は石積みで固められていたようですが、かなり崩落しています。それでも内枡形の原型はよく留めています。 主郭背後の堀切7。尾根続きは複雑な堀の連続技が見られます。
堀7は主郭の北端下段をグルリと取り巻くように横堀に変化します。 堀7はそのまますさまじく長大な竪堀に変化し、途中堀8を分岐させ、二つの堀が並んで山麓まで達します。とにかくスゴイ竪堀だ・・・。
堀7から派生する堀9、急斜面を竪堀となってこちらも山麓近くまで続きます。 そして堀8と堀9に挟まれた北側斜面一帯に広がる連続竪堀!写真でもウネウネがわかるでしょう。
連続竪堀を別角度から。まるで洗濯板のようにウネウネと続く。追倉沢沿いの交通路を意識した遺構ではないかと想像します。 搦手の尾根続き方面にも複雑な遺構が。堀と堀に挟まれた土塁にまで石積みが見られます。
主郭より高所になる尾根続き方面に複雑に張り巡らされた堀底状通路。同様なものは山麓近くにもありますが意図は今ひとつ不明。 主郭の一段下のU曲輪。この曲輪と、袋小路状のY曲輪などは主郭防衛のための要ともいえる位置にあります。
U曲輪の塁壁下の腰巻状石積みのライン。このお城では塁壁上端の「鉢巻」石積みと下端の「腰巻」石積みを使い分けているようです。 W曲輪からV曲輪側の石積みラインを見上げる。このあたりの光景はまさに「石の砦」という表現がピッタリ。
オカ殿が「馬の水呑み場」と名づけた、V曲輪虎口脇の方形の石積みライン。枡形にしては位置がおかしいし、順当に考えれば虎口脇の番所跡、というところでしょうか。 V曲輪虎口の石積みとその奥の枡形空間。各虎口はほとんどが石積みを伴うもの。ただ、大手道からの接続がイマイチ不明瞭ではあります。
山麓の墓地背後は古図によれば「蓮法寺屋敷」、一時期は寺があったようですが、本来的には城主居館でしょう。 遠くからでも見える、蓮法寺屋敷の立派な石積み。これを見るにつけ、城主の屋敷がここにあったことを確信させてくれます。

 

 

交通アクセス

長野自動車道「松本」ICより車20分。

JR篠ノ井線・大糸線、松本電鉄「松本」駅から徒歩60分で登り口。バス等は不明。  

周辺地情報

松本城は別格扱いで必見、林城もまず先に押さえておくべきでしょう。周囲のお城では山家城、埴原城などが見ごたえあり。

関連サイト

攻城日記の頁、「信濃城攻め紀行」もぜひご覧下さい。

 

参考文献

「戦史ドキュメント 川中島の戦い」(平山優/学研M文庫)

「日本城郭大系」(新人物往来社)

「信濃の山城」(小穴芳実 編/郷土出版社)、現地解説板

参考サイト

ゆうさんの独善的松本案内

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