守護の牙城も草木に覆われ

林城

(林大城・林小城)

はやしじょう Hayashi-jo

別名:

長野県松本市里山辺〜入山辺

城の種別

山城

築城時期

不明(天文年間頃)

築城者

小笠原氏

主要城主

小笠原氏

遺構

曲輪、石積み、堀切、竪堀、土塁

雨上がりの林大城主郭<<2005年05月02日>>

歴史

南北朝期の功績により信濃守護に任ぜられた小笠原氏のうち、深志小笠原氏がはじめ井川館を築いて居城とし、小笠原長棟が対立していた松尾小笠原氏を屈服させて小笠原家惣領となり、林城を築いて移った。

長棟の子、長時は甲斐の武田氏と対立、天文十四(1545)年、武田晴信(信玄)が福与城の藤沢頼親を攻めた際には福与城の後詰として竜ヶ崎城に陣取ったが、武田氏の家臣、今井信甫、板垣信方らにより陥落、林城に撤退した。

天文十七(1548)年、武田軍が上田原の合戦で敗北すると信濃の国人衆の間で動揺が広がり、七月十日には諏訪西方衆らが反乱、これに呼応して小笠原長時は塩尻峠に布陣した。晴信は七月十一日に甲府躑躅ヶ崎館を出陣したが、遅速行軍で相手を油断させ、十八日に上原城に入った。晴信はその夜のうちに密かに軍勢を塩尻峠に展開させ、翌早朝に一斉攻撃をかけ、小笠原軍は一千名が戦死して敗退した(塩尻峠の合戦、勝弦峠の合戦)。

塩尻の合戦に勝った晴信は村井城を築城して前進拠点とし、二十五日に上原城へ帰陣した。天文十九(1550)年七月十日、晴信は村井城に入り、十五日には「イヌイの城(埴原城か)」を陥落させて勝ち鬨を挙げると、小笠原氏の属城は大城(林城)深志城、岡田城、桐原城、山家城の五ヶ城が相次いで自落、長時は一時平瀬城に入ったが、のちに村上義清を頼って塩田城に逃れた。十九日には武田軍は深志城に入り、晴信臨席のもとで駒井高白斎らによって鍬立ての式が行われ、二十三日には惣普請を実施、深志城を武田氏の拠点とし、馬場民部少輔信房、日向大和守是吉を城将に任じた。林城は武田氏により破却され、そのまま廃城となった。

林城は信濃守護・小笠原氏の本城という、とっても格式の高い山城ですが、信玄は小笠原長時をここから追い出した後も林城のことなど見向きもせず、平城である深志城の方をベースキャンプ地として大々的に取り立てています。一般にお城の変遷は山城から平山城、そして近世に入ってより政治・経済・交通の便が良い平城へ、という流れがあるといわれますが、武田信玄という男はこれを天文年間から実践していたという、恐るべき慧眼ぶりを知る話でもあります。

この小笠原長時ですが、なかなか気難しいというか我侭放題な人間だったようで、重臣が林城に出仕しても虫の居所が悪いと会おうともせず追い返したり、安曇の大豪族・仁科道外と喧嘩して見限られたり、挙句に塩尻峠の合戦では、長時を快く思わぬ三村氏や西牧氏らが離反、兵卒の油断もあってボロ負けを喫したりしています。塩尻峠の合戦で武田軍に敗れてからは運も急降下、目と鼻の先に武田の攻撃拠点である村井城を築かれても手も足も出ず、遂に天文十九(1550)年の武田軍の侵攻では結局、一戦も交えずに逃亡して、本城の林城だけでなく周囲の支城網も自落してしまいます。あるとき林城に出仕した、強弓で知られる家臣の神田将監が、真夏の暑い日に着物の裾をからげ上げて歩くのを見た人が不審に思って問うたところ「ワシは裾が露に濡れるのがイヤなのだ。この城が草木に覆われ、鹿の寝床になる日も遠くあるまい」と嘆いたとか。ちょっと出来すぎた話ではありますが、その神田将監の不吉な予言どおり、林城は鬱蒼とした山林が茂る山に戻って今に至り、逆に信玄によって拡張された深志城はのちに近世城郭・松本城となり、ご存知のとおり現在も連立式の国宝現存天守が多くの観光客を集めています。

戦国大名になり切れなかった守護大名の常として、大抵はこのあたりで落魄してしまうのですが、この人はちょっとばかり違ってまして、安曇郡・筑摩郡などを駆け回る山岳ゲリラ活動を続けて、大勢に影響が無いとはいえ、それなりに武田軍を困らせています。信玄もそのクソど根性ぶりに辟易したか、「もういいだろ、許してやるから俺の配下に入れ」と降伏勧告を送りますが、「ワシぁおんどれのような山猿野郎の前に跪くほどのアホウちゃうわ〜!」とばかり勧告を蹴り、最後は長尾景虎(上杉謙信)を頼って越後に落ちて行ったとも、同族の松尾小笠原氏を頼って下伊那の松尾城に匿われ、のちに京で三好長慶の庇護下で暮らしたともいわれますが、実際のところはよくわかりません。それにしても守護職から山岳ゲリラ・・・なかなか骨のある、とでも言うのか、はたまたしぶとい、とでも言うのか・・・人間、追い詰められると何でもやっちゃうよ!ってことなんですかね。これだけ頑張っても、どうも「龍虎決戦」や村上義清の陰に隠れてあまり語られぬところがちょっと気の毒な気はします。最後はなぜか会津若松にいたところを家臣の何某に殺されてしまったそうです。合掌。

林大城平面図(左)、林小城平面図(中)、林城鳥瞰図(右)

※クリックすると拡大します。

この林城ですが、基本的には「大城」「小城」のふたつの峰、その峰に挟まれた谷戸状の高台(現在の大嵩崎集落)からなる谷戸式城郭の発展形の複合城砦群で、この形式は信濃地方では比較的多いように感じます。また、周囲には桐原城埴原城、山家城、林城と直結して水の手を守るその名もズバリ水番城、そして深志城など、非常に濃密な支城分布を持っており、これらの城郭群が一つとなって松本平を防衛していると考えていいでしょう。こうした盆地を取り囲むような濃密な支城網の形成もこの地方の特徴ではないかと思います。

前述の通り、林大城小城のふたつの山にまたがっていますが、大城(▲846m、比高220m)の方には橋倉集落方面から車道(かなりの悪路)が伸びていて、山頂直下まで車で駆け上がることができます。まあその分、地形も遺構も改変されちゃってますけどね。小笠原系城郭の定番ともいえる、無数の腰曲輪や、主郭周りには部分的ながらも石積み遺構などが確認できます。背後の尾根続きには堀切・竪堀なども見られます。規模は壮大ですが、全体にシンプルというか、意外なほど大雑把な印象の山城です。見学路はV曲輪への車道のほか、山の先端からハイキングコースもあり、主要部は手入れも行き届いているので比較的楽に見学可能です。

小城(▲796m、比高160m)の方にはきちんとした道が無く、地元の方に沢づたいに上るコースを聞き、山林の中を直登しました。それほど藪ではなく、意外に歩きやすいです。一応、山の先端部分の小岩井家のお墓の裏から登るルートもありますが、山歩きに慣れている人はむしろ直登の方が楽でしょう。大城からの尾根続きルートは距離が長すぎて逆にキツイでしょう。小城の遺構は見所という点においては大城を凌ぐものがあり、見事な石積み遺構、虎口、くっきりと残る堀切&竪堀など、小笠原城郭の特徴が堪能できます。ビギナーにはキツイかもしれませんが、せっかくなのでぜひ小城も攻めていただきたいものです。

居館区にあたると思われる「大嵩崎」集落のある谷戸の中では、一部発掘作業なども行われていました。たまたま小城への道を教えてくれた方の敷地である、ということで、ご案内頂きました。有難うございました。ここが城主の居館だったかどうかは分かりませんが、もしかしたらここに平素の御殿があり、信玄来襲の報に慌てる小笠原長時がいたかもしれない、そんな風に空想すると楽しくなります。

[2004.06.19]

一足のクツをお行儀よく並べたような形の林城の遠景。ふたつの峰にまたがる大規模な山城です。周辺にも支城網が張り巡らされています。 悪路を鉄馬で駆け上がったところがV曲輪。少し改変もされていますが、山裾方向には土塁もあり、ここから上が中枢部にあたります。
小さなあづまやの建つU曲輪。雨上がりの土の色がとても綺麗です。 主郭とU曲輪を隔てる堀3と土橋。道には石段も見えますが、どうも一時期、神社か何かに転用されていた形跡もあり、そのときに参道として整備されたものかもしれません。
堀3の土橋を横から見ると、石積みで補強されているのが分かります。 こちらもあづまやの建つ主郭。山の上とは思えぬ広い曲輪は、小笠原氏の守護としての格式を顕しているようにも見えます。
主郭周囲の土塁にはところどころ崩れかけた石積みがあります。本来はもっと多くの石積みがあったでしょう。霧に霞む木立が美しいです。 主郭周囲の土塁。これももしかしたら本来は石塁で覆われていたかもしれません。
主郭周囲の土塁をよくよく見ると、松葉に覆われた中にところどころ石塁が顔を出しています。 主郭の北側の帯曲輪は一部横堀状になっており、北東に続く支尾根からの攻撃に対処できるようになっています。
帯曲輪から堀4・5・6の連続堀切を見下ろす。ここは緩やかな支尾根になっており、特に入念に防御ラインが構築されています。 その連続堀切、深さ自体は大したことが無くて、尾根上で1.5mほど。竪堀に変化しますが、北側は車道で分断されています。
こちらは搦手エリアにあたる南東部。まずは竪堀(堀8)が見えてきます。 堀9には土橋が明瞭に。ここから暫く、尾根はかなり下ります。
堀10とその先の小曲輪。この曲輪は搦手の防衛上の要であったかもしれません。 堀11はナナメに延びる竪堀。堀12の竪堀と合流します。
堀12は一応最も大きな堀切ですが、大きく下る尾根の鞍部をうまく利用したもので、掘った深さそのものはそれほどでもありません。 これが最終と思われる堀13。ただ小笠原氏のお城は城域からはるかに離れて遺構がある場合もあり、この先の尾根続きにも何かがあるかもしれません。
一旦V曲輪に戻り、ここから暫く下ります。山腹には夥しい小曲輪が連なっています。この小曲輪の連続も、このお城をはじめ小笠原氏の城館の特徴でもあります。 V曲輪直下の堀2。尾根が広いので堀切も長く繋がっています。
段々のずっと下にある堀1と土橋。ここは虎口が形成されており、桐原城などでも同様の形式の虎口をみることができます。この道、神田将監が裾をからげながら歩いていた道かも・・・。 大城と小城に挟まれた谷戸(大嵩崎集落)が平時の居館だったでしょう。直下には侍屋敷などの根古屋地区が形成されていたでしょう。ずっと先には松本市街地が見えます。

大嵩崎集落に入ると、「小笠原氏城館(林小城)の解説板があります。この土居も居館や侍屋敷にちなむものなのでしょうか??

発掘中の民家に案内していただきました。石列などがありましたが、これがどういったものなのかはわかりません。後ろの山(大城)の「三色の紅葉」も見事!

林小城へ

 

 

交通アクセス

長野自動車道「松本」ICより車20分。

JR篠ノ井線・大糸線、松本電鉄「松本」駅から徒歩60分。  

周辺地情報

松本城は別格扱いで必見。周囲のお城では桐原城、山家城、埴原城などが見ごたえあり。

関連サイト

攻城日記の頁、「信濃城攻め紀行」もぜひご覧下さい。

 

参考文献

「戦史ドキュメント 川中島の戦い」(平山優/学研M文庫)

「中部の名族興亡史」(新人物往来社)

別冊歴史読本「武田信玄の生涯」(新人物往来社)

「臨時増刊 歴史と旅 戦国大名家臣団総覧」(秋田書店)

「日本城郭大系」(新人物往来社)

「戦国武田の城」(中田正光/有峰書店新社)

「信州の城と古戦場」(南原公平/令文社)

参考サイト

ゆうさんの独善的松本案内

埋もれた古城 表紙 上へ 林小城