林城は信濃守護・小笠原氏の本城という、とっても格式の高い山城ですが、信玄は小笠原長時をここから追い出した後も林城のことなど見向きもせず、平城である深志城の方をベースキャンプ地として大々的に取り立てています。一般にお城の変遷は山城から平山城、そして近世に入ってより政治・経済・交通の便が良い平城へ、という流れがあるといわれますが、武田信玄という男はこれを天文年間から実践していたという、恐るべき慧眼ぶりを知る話でもあります。
この小笠原長時ですが、なかなか気難しいというか我侭放題な人間だったようで、重臣が林城に出仕しても虫の居所が悪いと会おうともせず追い返したり、安曇の大豪族・仁科道外と喧嘩して見限られたり、挙句に塩尻峠の合戦では、長時を快く思わぬ三村氏や西牧氏らが離反、兵卒の油断もあってボロ負けを喫したりしています。塩尻峠の合戦で武田軍に敗れてからは運も急降下、目と鼻の先に武田の攻撃拠点である村井城を築かれても手も足も出ず、遂に天文十九(1550)年の武田軍の侵攻では結局、一戦も交えずに逃亡して、本城の林城だけでなく周囲の支城網も自落してしまいます。あるとき林城に出仕した、強弓で知られる家臣の神田将監が、真夏の暑い日に着物の裾をからげ上げて歩くのを見た人が不審に思って問うたところ「ワシは裾が露に濡れるのがイヤなのだ。この城が草木に覆われ、鹿の寝床になる日も遠くあるまい」と嘆いたとか。ちょっと出来すぎた話ではありますが、その神田将監の不吉な予言どおり、林城は鬱蒼とした山林が茂る山に戻って今に至り、逆に信玄によって拡張された深志城はのちに近世城郭・松本城となり、ご存知のとおり現在も連立式の国宝現存天守が多くの観光客を集めています。
戦国大名になり切れなかった守護大名の常として、大抵はこのあたりで落魄してしまうのですが、この人はちょっとばかり違ってまして、安曇郡・筑摩郡などを駆け回る山岳ゲリラ活動を続けて、大勢に影響が無いとはいえ、それなりに武田軍を困らせています。信玄もそのクソど根性ぶりに辟易したか、「もういいだろ、許してやるから俺の配下に入れ」と降伏勧告を送りますが、「ワシぁおんどれのような山猿野郎の前に跪くほどのアホウちゃうわ〜!」とばかり勧告を蹴り、最後は長尾景虎(上杉謙信)を頼って越後に落ちて行ったとも、同族の松尾小笠原氏を頼って下伊那の松尾城に匿われ、のちに京で三好長慶の庇護下で暮らしたともいわれますが、実際のところはよくわかりません。それにしても守護職から山岳ゲリラ・・・なかなか骨のある、とでも言うのか、はたまたしぶとい、とでも言うのか・・・人間、追い詰められると何でもやっちゃうよ!ってことなんですかね。これだけ頑張っても、どうも「龍虎決戦」や村上義清の陰に隠れてあまり語られぬところがちょっと気の毒な気はします。最後はなぜか会津若松にいたところを家臣の何某に殺されてしまったそうです。合掌。
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林大城平面図(左)、林小城平面図(中)、林城鳥瞰図(右)
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この林城ですが、基本的には「大城」「小城」のふたつの峰、その峰に挟まれた谷戸状の高台(現在の大嵩崎集落)からなる谷戸式城郭の発展形の複合城砦群で、この形式は信濃地方では比較的多いように感じます。また、周囲には桐原城、埴原城、山家城、林城と直結して水の手を守るその名もズバリ水番城、そして深志城など、非常に濃密な支城分布を持っており、これらの城郭群が一つとなって松本平を防衛していると考えていいでしょう。こうした盆地を取り囲むような濃密な支城網の形成もこの地方の特徴ではないかと思います。
前述の通り、林大城と小城のふたつの山にまたがっていますが、大城(▲846m、比高220m)の方には橋倉集落方面から車道(かなりの悪路)が伸びていて、山頂直下まで車で駆け上がることができます。まあその分、地形も遺構も改変されちゃってますけどね。小笠原系城郭の定番ともいえる、無数の腰曲輪や、主郭周りには部分的ながらも石積み遺構などが確認できます。背後の尾根続きには堀切・竪堀なども見られます。規模は壮大ですが、全体にシンプルというか、意外なほど大雑把な印象の山城です。見学路はV曲輪への車道のほか、山の先端からハイキングコースもあり、主要部は手入れも行き届いているので比較的楽に見学可能です。
小城(▲796m、比高160m)の方にはきちんとした道が無く、地元の方に沢づたいに上るコースを聞き、山林の中を直登しました。それほど藪ではなく、意外に歩きやすいです。一応、山の先端部分の小岩井家のお墓の裏から登るルートもありますが、山歩きに慣れている人はむしろ直登の方が楽でしょう。大城からの尾根続きルートは距離が長すぎて逆にキツイでしょう。小城の遺構は見所という点においては大城を凌ぐものがあり、見事な石積み遺構、虎口、くっきりと残る堀切&竪堀など、小笠原城郭の特徴が堪能できます。ビギナーにはキツイかもしれませんが、せっかくなのでぜひ小城も攻めていただきたいものです。
居館区にあたると思われる「大嵩崎」集落のある谷戸の中では、一部発掘作業なども行われていました。たまたま小城への道を教えてくれた方の敷地である、ということで、ご案内頂きました。有難うございました。ここが城主の居館だったかどうかは分かりませんが、もしかしたらここに平素の御殿があり、信玄来襲の報に慌てる小笠原長時がいたかもしれない、そんな風に空想すると楽しくなります。
[2004.06.19]