国宝・松本城から1.5km、松本城の天守を南東から撮影すると左下あたりにチョコンと写る丘陵の端が「城山公園」となっている犬甘城です。ある意味では松本城見学のついでに最も訪れやすい城址かもしれません。
城主の犬甘氏は室町期には守護・小笠原氏の配下となっていましたが、もともとこの地に古代から根を張った豪族であり、国衙に仕えた官人であったということで、この地の名族であったといってもいいでしょう。松本城の前身となる深志城にしても、あるいは埴原城、平瀬城などの城主もみな犬甘氏の分流のお城だったということですから、現在の松本市中心部をほぼ抑えていたのでしょう。
天文十九(1550)年、小笠原長時は武田信玄の攻撃により、林城ほか周辺の支城を棄てて、村上義清のもとに身を寄せます。小笠原の旧臣は、長時に従ったもの、あるいは武田軍に寝返ったり降伏したりしたものなど様々でしたが、犬甘氏は平瀬城の平瀬氏とともに、自らの居城に残って武田軍に抵抗したようです。深志城からはまさに目と鼻の先にあるので、この場所で持ちこたえることができたものかどうか、多少疑問ではあります。
しかしこの犬甘城、とんだ珍事件で武田軍に乗っ取られてしまいます。天文十九(1550)年の秋、深志城代の馬場信房が家臣二十騎ばかりを引き連れて夜道を苅谷原あたりまで偵察にでかけた帰り道、行く手から騎馬の武士十騎ほどと行き会いました。このなかの一人が近づいてきて「お手前方は村上殿の援軍とお見受けいたす。ソレガシ犬甘大炊助、お出迎えに参った」などと声をかけてきます。ははん、これは敵味方を間違えおったな、と見抜いた馬場信房、「いかにも村上の援軍でござる」とかなんとか言いながら相手を安心させ、その隙に配下の者にこのちょっと間抜けな敵をさっと包囲させます。犬甘大炊助、これはオカシイと気づいたときには後の祭り、馬場勢に取り囲まれて居城にも帰れず、追撃する馬場勢をなんとか振り切って夜の闇に消えていったという。城主を失った犬甘城はあっけなく落城してしまった・・・。
などという話が、小笠原旧臣の二木重高の思い出をまとめた『二木家記(二木寿斎記)』に綴られているということですが、眉唾モノというか、「そんなわけないよなあ」という話ではあります。
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犬甘城平面図
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その後の犬甘城は多分すぐ廃城となってしまったんでしょう。面白いのは江戸末期にここが市民公園として開放されたということで、ここから松本城はすぐ眼前、一応軍事機密とされるお城の縄張も丸見えのこの場所を開放してしまうなんて、いかにこの時代、実戦というものが遠いコトになっていたかを物語るようなエピソードではあります。
この犬甘城、城山公園の西端の尾根にあるのですが、西側は奈良井川に向かって断崖に近い地形なのでまずまず堅固といえますが、芝生公園になっている城山公園側は延々と緩斜面が続き、防御面ではなんとも心もとない地形ではあります。もともと単独での防御力云々よりも、平時は深志城北方の物見、戦闘時は深志城や周辺の城砦群と一体となって運用されることを念頭に置いたものでしょうが、どうにも地形的な弱点が目立ちます。遺構はまずまず残ってはいますが、一部は改変されているために旧状がどうであったかわからない部分もあります。とくにこの緩斜面の東側をどう処理していたのかは興味のあるところです。いずれにせよ遺構の規模は小さく、少なくとも武田氏の占領以後は全く用いられずに廃城となったものでしょう。
遺構面ではあまり特筆するほどのものはありませんが、ここからは松本城を眼下に見下ろすことができます。国法天守を上から眺めることができるなんて、なかなかゼイタクな立地ではないですか。犬甘城を見に来るというよりも、ぜひ松本城を見に来てください。
[2005.10.23]