薫りたつ白鷺の舞い

姫路城

ひめじじょう Himeji-Jo

別名:白鷺城、姫山城

 

兵庫県姫路市本町

(特別史跡姫路城)

城の種別

平山城

築城時期

元弘三(1333)年

築城者

赤松則村

主要城主

赤松氏、黒田氏、羽柴氏、池田氏、本多氏ほか

遺構

現存天守群、櫓、門ほか建造物多数、石垣、水堀、塀等

姫路城連立天守群<<2001年04月23日>>

歴史

元弘三(1333)年、赤松則村が護良親王の令旨により、執権北条氏の六波羅探題攻撃をするための砦として築き、一族の小寺頼季に守らせたのがはじまりという。後に則村の次男、貞範が足利尊氏に味方し、正平元(貞和二・1346)年に本格的な城を築き姫山城と称した。

嘉吉元(1441)年六月二十四日に、赤松満祐による将軍・足利義教暗殺事件が起き(嘉吉の変)、赤松氏は没落して、山名持豊(宗全)が播磨守護に任ぜられ姫路城は山名氏のものとなった。

応仁元(1467)年に勃発した「応仁の乱」では赤松政則が姫路城を奪還し改修、赤松氏は新たに置塩城を築城して移り、姫路城城代には小寺豊職が任ぜられた。赤松氏が凋落すると天分十四(1545)年、小寺氏は姫路城を家臣の黒田氏に預けて御着城に移った。天正五(1577)年、織田信長の将・羽柴秀吉が播磨に侵攻すると、小寺則職は毛利に加担したが、姫路城を預かる黒田官兵衛孝高(如水)は秀吉に接近し、三木城攻略などの拠点となった。孝高は秀吉に姫路城の提供を申し出、秀吉はそれを受けて天正八(1580)年四月から姫路城を大改築し、三層四階の天守も造営した。秀吉は姫路城を拠点に中国方面の攻略を担当、天正十(1582)年六月には備中高松城を包囲していたが、六月二日に本能寺の変が勃発、秀吉は高松城の清水宗治の切腹を条件に和議をまとめ八日に姫路城に撤退した。このとき秀吉は姫路城内にあった金八百枚、銀七百五十貫、米八万五千俵を全軍に分配したという。山崎の合戦で秀吉が明智光秀に勝利し、大坂城を築城すると、姫路城は弟の秀長に与えられた。天正十三(1585)年、秀長が大和郡山城に移ると、秀吉の妻の兄、木下家定が入城した。

慶長五(1600)年、関ヶ原の合戦で東軍の家康方が勝利すると、家康は娘婿の池田輝政に姫路城と播磨五十二万石を与えて西国大名の押さえとした。姫路城は慶長六(1601)年から九年間に渡って大改修され、現在見る五層の大天守や三つの小天守などが築かれた。輝政は慶長十八(1613)年に病死、子の利隆が四十二万石で襲封するが利隆も元和(1616)元年六月に死去、子の光政がわずか八歳であったため因幡鳥取城に移封となり、かわって伊勢桑名城より本多忠政が姫路城主となった。忠政は大坂夏の陣で戦功を挙げ、子の忠刻は豊臣秀頼の未亡人で徳川秀忠の娘、千姫を妻に迎えた。忠政の石高は十五万石であったが、千姫の化粧料として十万石が与えられ、忠刻は千姫のために新たに西の丸を造営した。しかし忠刻は寛永三(1626)年に死去し、千姫は実家の江戸城竹橋の御殿で余生を送った。姫路城は本多氏四代の後、松平(奥平)氏、松平(結城)氏、榊原氏、松平(結城)氏、本多氏、榊原氏、松平(結城)氏とめまぐるしく代わり、寛延二(1749)年酒井忠恭が十五万石で入封してからは十代続いて廃藩置県を迎えた。

美しき白鷺の姿、姫路城。正直なところ、実際に現地に行ってみるまでは「天守はホンモノでも所詮は近世城郭」みたいな偏見があったのですが、車のフロントウィンドウ越しに、丘の上に聳える白亜の城郭を目にしたときは、その迫力、美しさ、気品の高さに言葉も無いくらいの驚きでした。姫路城の連立天守群は、まるで丘の上から覆いかぶさってくるような迫力があり、それでいてけっして武骨ではなく、別名に謳われるように白鷺のように薫り高き気品にあふれていて、とにかく褒める言葉も見当たらないほど。。。

姫路城の素晴らしさを今更くどくどと書くつもりはありませんが、実際に現地を歩いてみて、その縄張りの巧妙さには舌を巻く思いです。複雑な天守への経路は、パンフレットも案内板も、なんの予備知識もなければたどり着くことすら困難なほど。いくつもくぐり抜ける城門も、埋門あり、穴門あり、櫓門ありとバリエーションに富んでいて、全く飽きません。その上、どこからでも天守がニラミを利かせていて、どこを写真に撮っても絵になってしまう。僕が歩いたのはいわゆる「内郭」部分だけですが、「中濠」や外郭を含めれば、さらに巨大かつ巧妙なお城だったんですよね。この現在の姫路城を築いたのは池田輝政。家康の娘婿であり、その篤実な性格から家康の信任も厚く、「西国将軍」「西国探題」としてこの姫路城を任されます。姫路城の造営に当たっては、のちにシステムが確立する「天下普請」のモデルケースとしての役割もあったようです。なにより、西国に閉じ込めた外様大名、当時まだ大坂城で健在であった豊臣氏への牽制として、この地は重要視されたのでしょう。

そんな姫路城にも危機は何度も訪れました。明治維新によって廃城となった後、天守は傾きお城は荒れるがままに任せられました。そんな中、破却を免れ、国費による修築が決定されたのはまず第一の幸運でありました。このとき、陸軍省の中村大佐は各方面に呼びかけて姫路城の保存を訴え、国費による改修への道を開きました。「菱の門」には、この中村大佐を称える顕彰碑が建っています。そして第二次世界大戦、姫路の街も空襲に晒されましたが、姫路城は奇跡的とでもいうか、とにかく無事に残りました。やがて天守は痛みが激しくなり、あしかけ三十年がかりで昭和の大改修が施されます。この改修で最も苦労した、「第二次改修」での心柱の檜の木材にまつわるお話はNHK「プロジェクトX」でもやってましたね。心柱が市街地を曳かれて姫路城に向う列を歓迎する市民たちの姿は感動的であったと同時に、「信長や秀吉の石曳きなんかもこんな感じだったんだろうなあ」などと思いました。

姫路城はよく知られるように、現存十二天守のお城の一つですが、同時に天守以外の建物も最もよく残っているお城の一つです。前述の多くの城門や、櫓なども見どころ満点です。自分は時間の関係で半日程度、内郭部分だけしか歩いていないですが、外郭の遺構や城下町の名残なども、いつかもう一度訪れて、この目で見てみたいと願っています。現在では「国宝」「重要文化財」かつ、「世界遺産」に指定されています。人類共有の宝として、いつまでも輝きを失わぬ姿でいてほしいものです。

姫路城めぐり1 埋もれた古城 姫路城めぐり2 埋もれた古城 姫路城めぐり3 埋もれた古城 姫路城をめぐるエピソード 埋もれた古城

 

交通アクセス

JR山陽新幹線・山陽本線・播但線「姫路」駅より徒歩15分。

山陽自動車道「山陽姫路東」IC車20分。

周辺地情報

あまり詳しくありません。姫路城をじっくり見ていきましょう(^^;)

関連サイト

 

 
参考文献 「姫路城ガイド」(姫路観光協会)、「城と城下町」(石井進/山川出版社)、「城をめぐる 兵たちの夢跡を歩く」(マガジントップ/山海堂)、「日本名城の旅 西日本編」(ゼンリン)、「日本の城 戦国〜江戸編」(世界文化社)、「日本の城 ポケット図鑑」(西ヶ谷恭弘/主婦の友社)、「歴史と旅 1986.02月号」(中央公論)、「歴史読本 1983.09月号」(新人物往来社)、歴史街道スペシャル「名城を歩く1」(PHP研究所)ほか
参考サイト  

 

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