美しき白鷺の姿、姫路城。正直なところ、実際に現地に行ってみるまでは「天守はホンモノでも所詮は近世城郭」みたいな偏見があったのですが、車のフロントウィンドウ越しに、丘の上に聳える白亜の城郭を目にしたときは、その迫力、美しさ、気品の高さに言葉も無いくらいの驚きでした。姫路城の連立天守群は、まるで丘の上から覆いかぶさってくるような迫力があり、それでいてけっして武骨ではなく、別名に謳われるように白鷺のように薫り高き気品にあふれていて、とにかく褒める言葉も見当たらないほど。。。
姫路城の素晴らしさを今更くどくどと書くつもりはありませんが、実際に現地を歩いてみて、その縄張りの巧妙さには舌を巻く思いです。複雑な天守への経路は、パンフレットも案内板も、なんの予備知識もなければたどり着くことすら困難なほど。いくつもくぐり抜ける城門も、埋門あり、穴門あり、櫓門ありとバリエーションに富んでいて、全く飽きません。その上、どこからでも天守がニラミを利かせていて、どこを写真に撮っても絵になってしまう。僕が歩いたのはいわゆる「内郭」部分だけですが、「中濠」や外郭を含めれば、さらに巨大かつ巧妙なお城だったんですよね。この現在の姫路城を築いたのは池田輝政。家康の娘婿であり、その篤実な性格から家康の信任も厚く、「西国将軍」「西国探題」としてこの姫路城を任されます。姫路城の造営に当たっては、のちにシステムが確立する「天下普請」のモデルケースとしての役割もあったようです。なにより、西国に閉じ込めた外様大名、当時まだ大坂城で健在であった豊臣氏への牽制として、この地は重要視されたのでしょう。
そんな姫路城にも危機は何度も訪れました。明治維新によって廃城となった後、天守は傾きお城は荒れるがままに任せられました。そんな中、破却を免れ、国費による修築が決定されたのはまず第一の幸運でありました。このとき、陸軍省の中村大佐は各方面に呼びかけて姫路城の保存を訴え、国費による改修への道を開きました。「菱の門」には、この中村大佐を称える顕彰碑が建っています。そして第二次世界大戦、姫路の街も空襲に晒されましたが、姫路城は奇跡的とでもいうか、とにかく無事に残りました。やがて天守は痛みが激しくなり、あしかけ三十年がかりで昭和の大改修が施されます。この改修で最も苦労した、「第二次改修」での心柱の檜の木材にまつわるお話はNHK「プロジェクトX」でもやってましたね。心柱が市街地を曳かれて姫路城に向う列を歓迎する市民たちの姿は感動的であったと同時に、「信長や秀吉の石曳きなんかもこんな感じだったんだろうなあ」などと思いました。
姫路城はよく知られるように、現存十二天守のお城の一つですが、同時に天守以外の建物も最もよく残っているお城の一つです。前述の多くの城門や、櫓なども見どころ満点です。自分は時間の関係で半日程度、内郭部分だけしか歩いていないですが、外郭の遺構や城下町の名残なども、いつかもう一度訪れて、この目で見てみたいと願っています。現在では「国宝」「重要文化財」かつ、「世界遺産」に指定されています。人類共有の宝として、いつまでも輝きを失わぬ姿でいてほしいものです。