諏訪と武田・ふたつの名族滅亡物語

上原城

うえはらじょう Uehara-Jo

別名:

長野県茅野市ちの(字上原)

城の種別

山城

築城時期

康正二(1456)年頃

築城者

諏訪安芸守信満

主要城主

諏訪氏、武田氏城代(板垣・長坂・室住氏ら)

遺構

曲輪、堀切、土塁

主郭背後の大堀切<<2002年11月11日>>

歴史

上原城の歴史

上原城は、諏訪大社大祝を代々引き継ぐ諏訪氏の本拠地であると同時に、諏訪氏が滅亡してからは信玄の信濃攻略への玄関口、軍事ターミナルに変身しました。これを書いている今年(2007年)のNHK大河ドラマは井上靖原作の『風林火山』、たぶん今後番組内にもこのお城が登場することでしょう。

もともと諏訪氏は諏訪大社上社大祝という、諏訪の宗教勢力の頂点に立つ存在であり、諏訪氏の惣領=大祝という関係が代々続いていましたが、大祝というのは「神」と一心同体のものであると考えられていたため、大祝職にある者は諏訪郡内から外へ出ることが出来ない、という決まり事が足枷となっていました。そこで幼少時に大祝を勤め、長ずると職を辞して惣領家を嗣ぐというシステムを採っていました。室町期にはそれがさらに進み、大祝家と惣領家に完全に分家します。この政教分離は一見合理的ではあるのですが、諏訪家内部の紛争という事態も引き起こしてしまいます。この分裂後に惣領家が本拠としたのが上原城です。結局長い内紛ののち、事実上大祝家が滅び、惣領家が大祝職をも兼任する、もともスタイルに戻ります。

戦国時代、諏訪碧雲斎頼満は幾度か隣国甲斐の武田信虎と激しく争った後、和睦して婚姻関係を結んで同盟を組むのですが、それが結果的には諏訪氏滅亡の悲劇、武田氏滅亡の悲劇まで繋がっていくこととなります。信虎の息女、禰々御寮人の輿入れに際しては、前途を暗示するような不気味な前触れがいくつかあったといいます。諏訪大社の社殿が三度激しく鳴動した、諏訪湖の結氷の裂け目「御渡」の形状がいつになく荒く、また方向も前例の無いものであった云々。さらに頼重と禰々御寮人の間に寅王丸が生まれた際にも上社の立石が唸る、御射山が鳴動するなどの怪奇現象が見られた云々。これらがどの程度本当かはさておき、諏訪の一族の中にも諏訪氏と武田氏の和睦、輿入れを快く思っていなかった者がいたのは確かだったようで、その点もまた諏訪氏滅亡の悲劇の伏線になっていきます。

若き武田晴信が諏訪に向けて軍を発したとき、諏訪頼重は武田軍の侵攻を注進されてもそれを信じようとせず、無為な時間を過ごしてしまいます。そうこうしているうちに一族の中で諏訪惣領家と大祝の地位を狙う高遠城主・高遠頼継が武田に呼応して杖突峠に陣取り、そのまま峠を下って安国寺周辺に放火します。こうして武田・高遠連合軍の侵攻を確信したときにはすでに手遅れ、上原城では防ぎきれないと見て桑原城に立て籠るのですが、武田の和睦勧告に従ったのち、甲府に幽閉されて結局切腹を余儀なくされます。諏訪氏滅亡の背景には諏訪大社神官どうしの対立感情や頼重と神官たちの信頼関係が揺らいでいたこと、一族の高遠頼継の野望などがあり、晴信はこうした一族間の分裂を巧みに利用した結果でもあります。晴信って若い頃からこういうのが得意だったんですな。ちなみに頼重が切腹を余儀なくされたときには弟の頼高が大祝職を務めており、当初は武田氏も大祝までを滅ぼすつもりはなかったようですが、禰宜太夫・矢嶋満清の讒言などにより結局頼高も甲府に幽閉されて兄と同じ運命を辿っています。そしてその大祝職は晴信と、滅亡させた諏訪頼重の息女である諏訪御寮人、『風林火山』でいうところの由布姫との間に生まれた子に嗣がせる道を取ります。この子が諏訪四郎勝頼、武田勝頼であるのはご存知の通りです。頼重は武田の和睦勧告を本気で受け止め、和睦の暁には反逆者の高遠頼継を一緒に討とう、などと言っていました。武田のやり方がエグい、というのも一理ありますが、やはりこの頼重、少々お上品過ぎたのか、ものごとの重大さをかぎ分ける野生のカンに欠けていたようです。あくまで結果論ですけどね。ソレガシ的には結構諏訪氏に同情的だったりします。

諏訪氏が滅亡してからは、諏訪郡代に任じられた重臣の板垣信方や、のちに「佞臣」として悪名を轟かせた長坂筑後守虎房(釣閑斎光堅)、「高白斎記」で知られる駒井高白斎、「第四次川中島」で討ち死にした諸角(室住)豊後守ら、そうそうたるメンバーが城将に任じられ、若神子城から棒道を通って信濃に入ってくる武田軍を収容する、重要な軍事拠点になりました。武田の滅亡にあたっても、木曽義昌の離反や鳥居峠の敗戦などの事態に武田勝頼はこの上原城まで出陣しますが、伊那の要衝であった飯田城、大島城の自落や穴山信君の離反などの事態に、やむなく兵を新府城に引き取ります。それは、武田氏にとって最後の信濃出兵でもありました。諏訪の血を引く勝頼が先祖伝来の上原城を去ったとき、武田氏と信濃の縁も終わった、ということになってしまいました。

上原城は比高差200mほどですが車で上まで登れることもあり、楽々訪れることができます。天嶮というよりもむしろ穏やかな山で、諏訪の神の血を引くという諏訪氏に相応しいお上品さが漂うお城です。一応主郭背後の大堀切など、城郭遺構もそこそこありますが、取り立てて大きなお城、技巧的なお城という印象ではありませんでした。信濃の山城の中では諏訪地方は比較的小ぶりなお城が多いのですが、この上原城もその範疇で、諏訪においてはごく平均的なお城といったところです。ただ武田氏の信濃侵攻の軍事ターミナルになってからは城下を大規模に整備し、侍屋敷や商店などが立ち並ぶ都市になっていたようです。残念ながら田んぼの中にあるという当時の町割りの遺構は場所が分かりませんでした。山路を登る途中にある「板垣平」が、その名のとおり板垣信方らが平素の居館を構えていた場所ですが、もともと諏訪氏の館もあったことでしょう。信玄や勝頼もまたこの地に何度も逗留したことでしょう。

信濃の名族・諏訪氏とそれを滅ぼした甲斐の名族・武田氏、このふたつの名家の悲劇的な最期を語る上でも、一度は訪れてみて然るべき場所かと思います。

[2007.01.20]

 

上原平面図(左)鳥瞰図(右)

※クリックすると拡大します

高遠と諏訪の間に聳える杖突峠から眺める諏訪盆地。諏訪盆地は結構標高が高く、湖面附近でも730mもある高原盆地です。諏訪大社の門前町として栄えた信仰の地でもあります。この盆地で諏訪、武田の悲劇が繰り広げられました。
比高200mあまりの上原城。永明寺山への道路があり車で楽々登れます。信濃の名族の山城としては意外なほど小さく感じます。 山麓附近から見上げる上原城。山麓の集落は武田氏が整備した城下町の名残でしょうか。
山麓附近には遊女小路なるものが。城下町には遊女街もあった・・・のかなあ? 「板垣平」と名づけられた山麓台地上の居館部。現在は概ね畑になっており土塁等は見当たりません。
板垣平の腰曲輪、通称家老屋敷とされるもの。武田氏の普請は山の上よりもむしろ山麓の郡代政庁と城下町の方が重視されていたように思えます。 家老屋敷から板垣平へと続く斜面には石積みの痕跡が。もっとも遺構かどうかがわかりませんが・・・。
車道をどんどん上がっていくと、写真のような大きな看板が目に入りますので場所はすぐ分かります。駐車場も完備。 城内に入ってすぐ目に入る竪堀3。写真は竪堀を下から眺めたもの。竪土塁を伴っており、下の方は横方向の堀に変化します。
遺構は地味ながらもこれだけは圧巻!の堀1。高さは10mを越えるでしょう。この堀切が最大の見所でしょう。 主郭背後の通称ハナレ山。ここからも竪堀が一本伸びています。削平はされておらず地山のままのようです。
金比羅神社への参道によって分かりにくくなっていますが、このお城には東斜面に連続竪堀があったようです。 連続竪堀のひとつ(堀4、5)は上端が繋がっており、U字型になっています。
V曲輪の建立された金比羅神社。多少遺構も改変されてしまっているようです。 U曲輪に鎮座する巨石、物見岩。この山は案外巨石があちこちに散らばっています。
背後のみ低い土塁を持つ主郭T。名族・諏訪氏に似つかわしくないくらい狭苦しく感じます。 「理昌院平」と呼ばれる腰曲輪。理昌院というのはお寺の名前、もしくは誰かの法名でしょうか。
理昌院平から続く帯曲輪。ここにもあちこちに巨石がゴロゴロしています。 主尾根上を板垣平方面へ向かうと、ここも岩だらけでした。狭い痩せ尾根が続いており、ところどころを竪堀で狭めてあります。

 

 

交通アクセス

中央自動車道「茅野」ICより車10分。

JR中央本線「茅野」駅から徒歩60分。バス等は不明。  

周辺地情報

桑原城と近世高島城はセットで必見。近隣では鬼場城が見ごたえあり。

関連サイト

 

 

参考文献

「日本城郭大系」(新人物往来社)

「戦史ドキュメント 川中島の戦い」(平山優/学研M文庫)

「定本武田勝頼」(上野晴朗/新人物往来社)

「戦国武田の城」(中田正光/有峰書店新社)

「中部の名族興亡史」(新人物往来社)

現地解説板

参考サイト

 

 

埋もれた古城 表紙 上へ 上原城の歴史