対小笠原の最前線基地

村井城

むらいじょう Murai-Jo

別名:小屋城、小屋館

長野県松本市芳川小屋

城の種別

平城(館)

築城時期

不明

築城者

村井氏

主要城主

村井氏、武田氏

遺構

なし

城址の標柱と解説板<<2005年06月25日>>

歴史

築城時期は定かでなく、木曽義仲の家臣、手塚太郎光盛が居住したとの伝承があるが信憑性は疑問である。一般的には、この地の豪族であった埴原氏の一族である村井氏の居館であったという。村井氏は埴原牧の牧人から興った武士であり、建武二(1335)年の足利尊氏宛行状で、村井郷内の小次郎知貞一跡を三浦介高継に知行するよう命じている。

天文十七(1548)年、武田晴信(信玄)が上田原の合戦で敗北すると信濃の国人衆の間で動揺が広がり、七月十日には諏訪西方衆らが反乱、これに呼応して小笠原長時は塩尻峠に布陣した。晴信は七月十一日に甲府躑躅ヶ崎館を出陣したが、遅速行軍で相手を油断させ、十八日に上原城に入った。晴信はその夜のうちに密かに軍勢を塩尻峠に展開させ、翌早朝に一斉攻撃をかけ、小笠原軍は一千名が戦死して敗退した(塩尻峠の合戦、勝弦峠の合戦)。塩尻の合戦に勝った晴信は村井城を築城して前進拠点とし、二十五日に上原城へ帰陣した。天文十九(1550)年七月十日、晴信は村井城に入り、十五日には「イヌイの城(埴原城か)」を陥落させて勝ち鬨を挙げると、小笠原氏の属城は大城(林城)深志城、岡田城、桐原城、山家城の五ヶ城が相次いで自落、長時は一時平瀬城に入ったが、のちに村上義清を頼って塩田城に逃れた。十九日には武田軍は深志城に入り、晴信臨席のもとで駒井高白斎らによって鍬立ての式が行われ、二十三日には惣普請を実施、深志城を武田氏の拠点とし、馬場民部少輔信房、日向大和守是吉を城将に任じた。村井城がいつ頃廃城となったかは不明だが、深志城が中信における武田軍の拠点として整備されるに及んで、役割を終えたものであろう。

天文十七(1548)年、小笠原長時は当時信濃を着々と侵略しつつあった武田晴信を迎え撃つため、塩尻峠に布陣しますが、武田軍の電撃作戦で小笠原連合軍はボロ負け、ほうほうの体で本拠の林城に逃げ帰ります。信玄は、ここで一気に小笠原氏を討滅することも不可能ではなかったのでしょうが、敵地のまん前に前進拠点を構え、じっくり時間をかけて攻める作戦を取ります。この時期、まだまだ武田軍は佐久や小県も完全制圧には至らず、諏訪もまだ不穏な空気が漂っており、無理を避けたのかもしれません。このとき対小笠原の抑えの前進拠点となったのが村井城です。ここは松本の中心部から10kmほど、間に山のひとつもあるわけではない平地の真っ只中、しかも小笠原氏の大要塞である埴原城からは目と鼻の先という大胆な場所。小笠原長時はこんな近場に敵拠点を作られて、手出しできなかったのかなあ。いや、仮に村井城に手出しをすれば、あっという間に後詰の反撃がある、そう考えたのかもしれません。信玄だってそれくらいの手は打ってるでしょうしね。それに信玄はこの頃、小笠原氏配下の国人領主たちの切り崩しに余念がなく、安曇の大豪族で小笠原長時にとっては舅にあたる仁科道外なども密かに武田に誼を通じていました。そんな状況下では、長時も迂闊に手出しが出来なかった、というのが実情でしょう。

天文十九(1550)年、いよいよ武田軍の小笠原掃討作戦が始動します。武田軍はまず「イヌイの城(埴原城か)」を屠り、大げさな勝ち鬨をあげると、これにビビってしまった小笠原長時は本拠の林城をはじめ主要支城を棄てて逃れ、信玄は戦いらしい戦いもほとんどないまま松本周辺を征圧します。村井城はその後、安曇・筑摩への軍事作戦における中継拠点となったともされますが、この松本侵攻戦以後まったく名前を聞かないし、その役割は深志城が負ったはずなので、自然と村井城の地位も低下して、自然と廃城に近い状態になったのではないかと想像します。

村井城はもともと小笠原氏配下の村井氏の居城、というか居館であったようですが、周辺はほとんどが宅地や畑になってしまい、アパートや民家が建て込んでいて、遺構さがしが出来るような感じではありませんでした。そのため、もともとどういうお城だったのか、信玄がどの程度拡張したのか等、今となってはよく分かりません。おそらくは単郭の居館であったものを、ある程度平城として拡張したものでしょうが、その痕跡もほとんどありません。わずかに集落全体がやや微高地になっていることや、立て込んだ町割に中世的な名残を感じますが、それも新しい道路の建設などで分かりづらくなっています。

そういうわけで見所はほとんどありませんが、武田信玄の真綿で首を絞めるような小笠原攻めの現場として、記憶の片隅に留めておきたい場所ではあります。

[2005.10.22]

住宅地の中に佇む「小屋城跡」の標柱と解説板。遺構らしき物はざっと見る限り判別不能でした。 近くにあった「水神井戸」。村井城と関係があるかどうかはわかりません。

 

 

交通アクセス

長野自動車道「塩尻北」IC車5分。

JR篠ノ井線「村井」駅から徒歩5分。  

周辺地情報

目と鼻の先に小笠原氏の大城郭、埴原城があります。その他、松本城林城は先に訪れて位置関係を掴んでおきたいところです。

関連サイト

 

 

参考文献

「戦史ドキュメント 川中島の戦い」(平山優/学研M文庫)

「日本城郭大系」(新人物往来社)、現地解説板

参考サイト

信玄を捜す旅 武田家の史跡探訪

 

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