天文十七(1548)年、小笠原長時は当時信濃を着々と侵略しつつあった武田晴信を迎え撃つため、塩尻峠に布陣しますが、武田軍の電撃作戦で小笠原連合軍はボロ負け、ほうほうの体で本拠の林城に逃げ帰ります。信玄は、ここで一気に小笠原氏を討滅することも不可能ではなかったのでしょうが、敵地のまん前に前進拠点を構え、じっくり時間をかけて攻める作戦を取ります。この時期、まだまだ武田軍は佐久や小県も完全制圧には至らず、諏訪もまだ不穏な空気が漂っており、無理を避けたのかもしれません。このとき対小笠原の抑えの前進拠点となったのが村井城です。ここは松本の中心部から10kmほど、間に山のひとつもあるわけではない平地の真っ只中、しかも小笠原氏の大要塞である埴原城からは目と鼻の先という大胆な場所。小笠原長時はこんな近場に敵拠点を作られて、手出しできなかったのかなあ。いや、仮に村井城に手出しをすれば、あっという間に後詰の反撃がある、そう考えたのかもしれません。信玄だってそれくらいの手は打ってるでしょうしね。それに信玄はこの頃、小笠原氏配下の国人領主たちの切り崩しに余念がなく、安曇の大豪族で小笠原長時にとっては舅にあたる仁科道外なども密かに武田に誼を通じていました。そんな状況下では、長時も迂闊に手出しが出来なかった、というのが実情でしょう。
天文十九(1550)年、いよいよ武田軍の小笠原掃討作戦が始動します。武田軍はまず「イヌイの城(埴原城か)」を屠り、大げさな勝ち鬨をあげると、これにビビってしまった小笠原長時は本拠の林城をはじめ主要支城を棄てて逃れ、信玄は戦いらしい戦いもほとんどないまま松本周辺を征圧します。村井城はその後、安曇・筑摩への軍事作戦における中継拠点となったともされますが、この松本侵攻戦以後まったく名前を聞かないし、その役割は深志城が負ったはずなので、自然と村井城の地位も低下して、自然と廃城に近い状態になったのではないかと想像します。
村井城はもともと小笠原氏配下の村井氏の居城、というか居館であったようですが、周辺はほとんどが宅地や畑になってしまい、アパートや民家が建て込んでいて、遺構さがしが出来るような感じではありませんでした。そのため、もともとどういうお城だったのか、信玄がどの程度拡張したのか等、今となってはよく分かりません。おそらくは単郭の居館であったものを、ある程度平城として拡張したものでしょうが、その痕跡もほとんどありません。わずかに集落全体がやや微高地になっていることや、立て込んだ町割に中世的な名残を感じますが、それも新しい道路の建設などで分かりづらくなっています。
そういうわけで見所はほとんどありませんが、武田信玄の真綿で首を絞めるような小笠原攻めの現場として、記憶の片隅に留めておきたい場所ではあります。
[2005.10.22]