太田城の歴史

平安時代、藤原秀郷の流れを汲む藤原通延が太田郷の地頭に任ぜられ、天仁二(1109)年太田城を築いて太田大夫と称したのが始まりという。その後、馬坂城の佐竹氏三代・隆義が太田城を接収し居城とした。太田氏は小野崎城を築いて小野崎を名乗り、代々佐竹氏の宿老を務めた。

佐竹隆義の時、治承三(1180)年、伊豆蛭ヶ小島に配流となっていた源頼朝が平氏の支配に叛乱を起こした(治承の乱)。このとき隆義は大番役として京都に出仕しており、太田城には隆義の子、秀義・政義兄弟がいたが、頼朝に従うかどうかで意見が分かれ、参陣しなかった。このことから治承三(1180)年、頼朝の討伐を受けた。政義は頼朝に降伏することを決め、常陸府中の陣所に赴く途上、上総広常により殺された。秀義は太田城を捨て、西金砂山城に立て籠もり抗戦したが、十一月五日西金砂山城は落城、秀義は奥州花園山に逃れた。その後、頼朝が奥州藤原氏討伐のため宇都宮に在陣した際に降伏し、御家人となった。

建武二(延元五:1335)年、建武政権が崩壊し、南北朝時代に入ると、佐竹氏七代貞義は足利尊氏に従い、瓜連城の楠木正家らと戦った。貞義は甕の原の合戦で北畠顕家と戦った際に、那珂通辰に後方から攻撃され、太田城を捨てて金砂山城武生城に立て籠もり、瓜連城の南朝軍と対峙した。瓜連城は建武三(延元六:1336) 年に陥落、また常陸守護の小田城主・小田治久が北朝軍に降伏し守護職を罷免されたことから、佐竹氏が常陸守護職に任免された。

佐竹氏十二代・義盛には男児が無く、関東管領山内上杉憲定の次男・竜保丸を養子に迎え入れようとしたところ、山入城の山入与義、長倉城の長倉義景らがこれに反発、応永十四(1407)年十月、長倉城に立て籠もり抗戦した(山入一揆・山入の乱)。関東公方・足利満兼は岩松持国(または満範)に命じて長倉城を包囲、長倉城は 翌応永十五(1408)年四月十七日に開城降伏し、山入与義は本拠の山入城に蟄居した。竜保丸は応永十五(1408)年六月に太田城に入城、応永十七(1410)年には元服して義憲と名乗った。

応永二十三(1416)年、上杉禅秀の乱が勃発すると、佐竹義憲は足利持氏を援けたが、山入与義、長倉義景、額田義亮らが上杉禅秀を支持、義憲も一時は越後に逃れたが、碓氷峠や武蔵国瀬谷原での合戦で禅秀軍を破り南下、応永二十四(1417)年一月、上杉禅秀は自刃し、乱は収束した。

この後、関東公方・足利持氏と幕府・関東管領山内上杉氏の関係が悪化すると、佐竹義憲は一貫して持氏を支持したが、室町幕府は足利持氏に対する抑えとして「京都御扶持衆」を支援、山入祐義が常陸守護に任じられたが、これには持氏が反発し、結局佐竹義憲と山入祐義が「半国守護」となっている。永享十(1438)年に勃発した永享の乱で持氏が自刃し、関東公方家は滅びたが、永享十二(1440)年にその遺児を奉じて結城氏朝が挙兵、結城城で幕府軍十万の包囲を受けた(結城合戦)。このときも義憲は関東公方家の遺児を支持して結城城へ入城を試みたが、小栗助重らの妨害を受けた。結城城は嘉吉元(1441)年に陥落、敗残兵が太田城に入城した。将軍義教は太田城討伐を命じたが、義教の暗殺事件(嘉吉の変)により攻撃は中止となった。

佐竹氏十四代・義俊は弟の実定と家督を争い、義憲が実定を支持したことから太田城を追われ、大山氏の属城である孫根城に匿われた。その後、実定の子、義定の代まで太田城を占拠されたが、義憲の死によって義定は政治力を失い、太田城を追われ江戸通長を頼って水戸城に逃れた。後に義俊の刺客により毒殺されたという。義俊・義治父子は十三年ぶりに太田城に帰った。文明三(1471)年ごろには山入義知は佐竹義俊・義治父子と各地で戦闘を繰り返し、義治は三男の北義武を久米城に配置していた。文明十(1478)年一月二十八日、山入義知は久米城を攻撃し、北義武、山入義知ともに戦死した。

佐竹氏十六代・義舜は延徳二(1490)年、山入義藤・氏義によって太田城を追われ、外叔父の大山義成(因幡入道常金)を頼って大山城に逃れ、のちに孫根城に隠れ住んだ。山入義藤は太田城を占拠したが二年後に病没、山入氏義が引き続き太田城に在城した。このころ陸奥岩城氏の仲介で義舜と氏義の間で和議が成立したが、山入氏義は和議の条件である太田城の明け渡しを拒否、明応九(1500)年、孫根城の義舜を襲撃した。義舜は孫根城を脱出してはじめ東金砂山東清寺に逃れ、その後さらに西金砂山城に立て籠もった。山入氏義は西金砂山城を攻め、義舜は苦境に陥ったが、天候が急変した際に討って出て形勢は逆転、氏義は敗北し太田城に退却した。義舜はその後大門城に移り太田城回復を狙い、永正元(1504)年に太田城を奪回した。氏義は本拠の山入城に逃れたがこれも落城し、一族の小田野義正を頼って高部城に走ったところで捕らえられ、下野茂木の覚明院で斬られ、山入一揆は完全収束した。

太田城に帰還した義舜は領国の統一に務め、永正七(1510)年には水戸城主の江戸通雅・通泰父子に「一家同位」の家格を与えて同盟した。また、白川結城氏の内紛に乗じて依上保を奪還し、奥州南郷にも侵攻するなど領土拡大を続けた。義舜は「佐竹中興の祖」と呼ばれた。

享禄二(1529)年、佐竹氏十七代・義篤のとき、弟で宇留野氏を嗣いでいた義元が部垂城を襲って城主の小貫俊通を追ったことで義篤と対立した(部垂の乱)。義篤は那須氏の内紛に介入して天文八(1539)年、那須高資の烏山城を攻撃、翌年三月、その帰途に部垂城を襲い、三月十四日義元は自刃し、部垂の乱は収束した。
佐竹氏十八代・義昭は、奥州岩城氏と同盟関係にあったが、石川氏と同盟したことで岩城重隆と対立、岩城氏は永禄元(1558)年小里に侵攻、佐竹義昭は敗れ太田城に敗退した。このときは竜子山城主・大塚政成らの仲介で和睦している。

永禄五(1562)年には陸奥相馬中村城主の相馬盛胤が佐竹領に侵攻し、太田城に近い大沼に布陣した。佐竹勢はこれを孫沢原で迎え撃ち、相馬勢は30数名の死者を出して敗走した。義昭はこの後、府中城の大掾氏と同盟し、小田城の小田氏治攻略のため、府中城に移っている。

佐竹氏十九代義重は、小田原北条氏と対立し、宇都宮氏と提携して北関東各地や陸奥南郷、筑波周辺などを転戦している。

天正十八(1590)年、小田原の役に際し、佐竹義重・義宣父子は豊臣秀吉軍に味方し、北条氏滅亡の後八月一日。秀吉より常陸・下野での当知行二十一万貫余を安堵されている。この後佐竹氏は水戸城主の江戸重通に対して再三水戸城の明け渡しを要求するが聞き入れられず、十二月十九日、義重・義宣は大軍で水戸城を急襲、江戸氏は水戸城を棄てて縁戚の結城晴朝を頼って逃走した。佐竹氏は府中城の大掾清幹をも攻めて攻略、さらに翌天正十九(1591)年、行方・鹿島群の大掾氏一族(南方三十三館)の領主を太田城に召還して十五名を誅殺し、さらに額田城の額田照通を追い落として常陸一国を統一した。三月二十日、佐竹氏は太田城から水戸城に本拠を移し、太田城は隠居の義重の居城となった。

慶長五(1600)年の関ヶ原の役に際し、佐竹氏はその去就を咎められ、徳川家康の命で慶長七(1602)年、出羽秋田に減封の上移され、太田城も廃城となった。のち江戸期になって、水戸徳川家の家老の中山氏が一時居住している。

 

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