山入一揆の乱中盤の激戦地

久米城

くめじょう Kume-Jo

別名:

茨城県常陸太田市久米町

城の種別

山城

築城時期

不明(鎌倉時代?)

築城者

大掾仲幹(?)、小野崎通種

主要城主

小野崎氏、北(佐竹)氏、山入氏ほか

遺構

曲輪、堀切、横堀、土塁

久米城遠景<<2005年04月23日>>

歴史

築城時期は明らかでなく、鎌倉時代に大掾仲幹が築城したという説があるがはっきりしない。室町期には山入与義の属城になっていたらしいが、その後小野崎筑前守通種が移り住んだという。その子の通安、通室とも子がなかったため、同族の小貫因幡守頼重の子・定春が嗣いだという。

応永十四(1407)年に佐竹氏の後嗣を巡って山入一揆の乱が勃発、佐竹氏十五代の義治は三男の義武を久米城に、四男の義信を利員城に、五男の雅義を山方城に置いて太田城の防備を固めた。。文明十(1478)年十一月二十八日、山入義知は下野の那須資持の援軍を得て久米城を攻撃し、佐竹(北)義武、客将の小田野義安らは討ち死にして落城した。久米城太田城攻撃の拠点となったが、十二月に佐竹義治が南奥州の岩城氏の支援を得て久米城を攻撃、山入義知は討ち死にしてこれを奪還した。その後、義武の弟の義信を久米城に配置し久米氏を称したという。なお合戦の日時や経過は諸説ある。廃城時期は不明。

佐竹氏家中で勃発した百年戦争、山入一揆の乱については、実際にはのべつ幕なしに戦闘が続いていたわけではなく、戦乱と沈静の期間が交互に現れます。そんな中で中盤のハイライトともいえる戦乱がこの久米城における合戦でした。山入祐義の死後、一時期山入氏と佐竹義治の間で和議が成立していたようですが、義治側は山入氏の動向に警戒しており、三男の義武をこの久米城に、四男の義信を利員城に、五男の雅義を山方城に配置していました。とくに久米城は山田川沿いの隘路が平地へ繋がるまさにその場所にあり、山入城を本拠とする山入勢の進出を拒む上では最大の防衛拠点であったことでしょう。このとき久米城を守っていた義武は太田城の北に屋敷を構えていたことから「北殿」と呼ばれ、のちの佐竹北家の礎となったとされます。

合戦の詳しい経緯はわかりませんが時期は文明十(1478)年十一月とされ、山入義知は下野烏山城主、那須資持の援軍を得てこれを襲撃、佐竹義武は討ち死にして久米城は山入勢に奪われます。久米城太田城攻撃の拠点となってしまいますが、それに対して佐竹義治はその年の十二月に岩城氏の支援を得て反撃、自ら太刀を振って奮戦の末、久米城は佐竹宗家に奪回され山入義知も討ち死にした、ということです。宗家側の守将、山入側の大将の双方が討ち死にしているということですから、かなりの激戦であっただろうと想像されるところです。

しかしこの話は基本的な部分で少し変な部分があります。なぜなら義舜は没年と年齢から逆算すると1470年頃の生まれとなり、久米城合戦のときにはわずか八歳、その弟は当然幼少であるはずで、その人物が守将となることなどありえません。その幼少の人物が佐竹北家の創始者というのも不自然でしょうし、仮に幼少の城主を誰かがサポートするにしても、あるいは義武が義舜より年長の庶子だっとしても不自然な感じが残ります。義舜の没年と享年が正しいとすれば、義武はおそらく義舜の弟ではなく義治の弟、義舜の叔父といったあたり、もしくはそれに近い一族の者というのが妥当な線でしょう。久米城合戦の日時にも諸説あり、実は時期が大幅に食い違っている可能性も無くは無いところです。どうもこのあたりの佐竹氏周辺の動向は、孫根城の頁にも描いたとおり、基本的なところで時代背景や系譜、事実関係に混乱が見られるようにも思います。

久米城概念図

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久米城自体は比高70mほどではありますが相当に大きいお城で、南北に広がる三つの峰にまたがっており、戦国期に太田城の北の守りとして拡大整備されていったものと思われます。鹿島神社のある峰が中心部(東城・本城)にあたり、その南の峰(南城)と、大きな谷津を挟んだ北の峰に出城(西城)を構えており、北の峰のものは「竜貝城」とも呼ばれます。本城は鹿島神社までは参道もあり楽に登れますが、主郭は猛烈なヤブで突破不可能です。参道そのものは後世の改変と思われます。南、北の出城は一応人が歩ける程度の踏み跡はありますが、大半はヤブに近い状況です。それでもまあ歩けないほどではありません。とくに南の峰は途中に何箇所も堀切を入れ、曲輪の周囲にも横堀を巡らせるなど、城郭として最も整った遺構を残しています。ただ堀や土塁の規模は概して小型で、激戦の地かつ太田城防衛の要としては少々物足りないというか、もっと鋭さがあってもいいような気がします。付け足し、付け足しで拡張を繰り返してきた結果なのでしょうが、個人的には小さな堀をいくつも作るよりも大きいやつをバサッと作ってしまったほうが少人数でも守りやすい気がしますが、そういうものでもないんでしょうかね。

[2006.10.18]

久米城遠景。標高100m、比高70m程度ではありますが、城域は3つの峰に跨っていて広大、さらに支尾根や谷が入り組んで、高さの割には要害堅固なお城です。 アプローチするには久米集落の鹿島神社参道から登るのがよいでしょう。
城下の集落も周囲の低地より2-3m高く、いかにも根古屋集落的な感じがします。 参道を登っていくと、堀状の通路を通ります。ここは本来堀切(堀1)だったと思われます。この西側にも数段の曲輪があります。
U曲輪には鹿島神社が鎮座しており、ここまでは楽々登れます。一見主郭にも見えますが、実際の主郭はこの背後の一段高い部分になります。 いかなる猛者も突破不能と思われる地球上最大級のヤブと化している主郭T.。無理に突破しようとしても身動きが取れなくなるのがオチなので、裏手に回るには北か南の帯曲輪を通りましょう。
その主郭裏手にはお決まりの堀切2があります。 さらに東に延びる尾根には堀切3が。ここは規模が大きく、本来の城域端を示す堀だったと思われます。土橋も明瞭です。
南へ向かう尾根には小規模な堀がポコポコと続きます。写真は堀4、5のあたり。もっと大きな堀でバッサリやればいいのに。 南の峰に到る途中には小規模な曲輪Wがあり、ここからも支尾根が派生しています。
曲輪Wの裏手の二重堀切6・7。しかしここも小さいなあ。役に立つんだろうか、こんなので・・・。 隊列は堀切10を越えて南城の中核部へ。ヤブでもどこでも整然とした隊列が続く。
このお城最大の見所である南城の周囲の横堀14。このお城で横堀があるのはここだけです。 横堀14の土橋。向こう側にはさらに曲輪Yがあります。
南城は堀切も比較的ピリッとしています。ここは堀12で、小規模な堀13と二重堀切になっています。 さらに南へ80mほどの尾根上にも小規模な堀切15、16が。いったい堀切はいくつあるんだろう?この先にも平場があるものの城域と看做すかどうかは微妙です。
いったんUに戻り、北側の谷津を越えて西城(竜貝城)へ。この大きな谷津が天然の堀切になっています。 左写真の谷津の西側はすさまじい急崖の谷になっており、足場も大変悪いので落ちないように気をつけましょう!
西城の主郭に当たる曲輪Zにはなにやらのアンテナが。ここはTよりも微妙に標高が高く、むしろオリジナル久米城はこちら側だったかもしれません。 さらに北にも遺構が続くのだが、あまりの倒木とヤブの酷さに堀17にて撤退開始。
西城は比較的大きな曲輪が段々になっており、それぞれが明瞭な堀切で区切られています。写真は堀18。 西城の土塁。土塁は北側にのみ存在します。山入勢の攻撃に備えたものなんでしょうか。
さらに堀19。「堀はもういい!」ってか? 西城の南側、谷に面した側には数段の腰曲輪が連続します。

 

 

交通アクセス

常磐自動車道「常陸南太田」IC車20分。

JR水郡線「常陸太田」駅よりタクシーまたはバス。

周辺地情報

山入一揆関連の城館を見るには、まず遺構の程度はさておき太田城を見て基本的な地理感覚を掴んでおく事をお勧めします。久米城近隣では利員城、松平城、山入城などがあります。

関連サイト

 

 
参考文献

「常陸太田市史」

「水府村史」

「金砂郷町史」

「山入一揆と佐竹氏」(大内政之介/筑波書林)

「常陸国石神城とその時代」(東海村歴史資料館検討委員会)

「茨城の古城」(関谷亀寿/筑波書林)

「日本城郭大系」(新人物往来社)

「図説 茨城の城郭」(茨城城郭研究会/国書刊行会)

参考サイト

余湖くんのホームページ北緯36度付近の中世城郭

埋もれた古城 表紙 上へ