長倉城は那珂川中流域の山間部、常陸と下野の国境附近にあります。ここから西へ3kmほど行くともう栃木県茂木町です。ここに佐竹行義の子、義綱が配され長倉氏の祖となります。佐竹氏にとってこの地は国境警備の要として、重要な地であったことでしょう。ところがその期待に反して、長倉城は繰り返し佐竹氏に対する叛旗を掲げ、遂には関東公方の大軍に包囲されるというお騒がせな場所になってしまいます。
発端は佐竹義盛の養子縁組をめぐり、関東管領山内上杉氏からの養子を迎えようとする一派と、それを阻止しようとする一派が対立したことに始まります。この阻止派の急先鋒のひとりが長倉義景であり、また山入与義ら「山入一揆」勢でした。何ゆえに長倉義景が山入の一党に与したのかはわかりませんが、純粋に源氏の名門たる佐竹氏に他姓(上杉氏は藤原氏出身)の者が跡を嗣ぐということが許せなかったのかもしれません。この一党は長倉城に立て籠もり、龍保丸の入国を実力で阻止しようと気勢を揚げますが、関東公方軍に包囲され半年ほどの籠城で降伏開城します。この騒動により龍保丸も一時太田城への入城を見合わせるのですが、結局は関東公方・足利持氏らの後押しもあってぶじ養子入りし、佐竹義憲(義人)となります。
しかし長倉氏の、そして山入一揆の叛乱はこれで治まったわけではありません。「上杉禅秀の乱」で禅秀に与した彼らは禅秀の敗北によって降伏しますが、ふたたび長倉城で挙兵し、関東公方足利持氏は上野の有力武将、岩松持国に6000の兵をつけ、長倉城を包囲します。その模様は「長倉追罰記」として記録に残ります。それによれば長倉城は 「四方切て 東西南北に対すべき山もなし。前は深谷、後ろは山岳峨々と聳えたり。東に山河漲流、西は渓水をたたへたり。是を用水に用いる。日本無雙の城と見へたり」と記されています。実際には堅固な城には違いないのでしょうが、少々オーバーに誉めすぎているきらいもあります。この合戦については6000もの大軍がこの山間の地に布陣したのかどうか、攻める方も守る方も兵糧が続いたのか、さらにこの永享七(1435)年の戦いはもしかしたら応永十四(1407)年の戦いと話が混同しているような気もします。「長倉追罰記」自体も合戦の模様は前半の少しだけで、あとは参陣した諸侯の旗の紋が延々と書かれているだけで「なんだかなあ」という感じです。
その後も山入氏に与した長倉氏は何度か佐竹氏に背いて討伐されることがあったようですが、名跡はしっかり続いていました。しかし慶長四(1599)年、柿岡城に移されていた長倉義興は佐竹義宣の不興を買って切腹、という事件が起きています。一説にはこれは水戸城の改修をめぐっての諫言が原因だったとか。義興は「この時期に居城を堅固に改修するのは徳川方に対して刺激的過ぎる」として諫言したのですが、これによって義宣の不興を買ってしまい蟄居、のちに切腹を命じられた、とか。関ヶ原の合戦における佐竹氏は石田三成と親しかったこともあって去就をはっきりさせず、これがもとで徳川家康に秋田移封を命じられてしまうのですが、長倉義興は徳川の実力を見抜いていたのでしょうか。結果的には義興の方により先見の明があったように思えますが・・・。