代々佐竹に叛き続けた

長倉城

ながくらじょう Nagakura-Jo

別名:長倉陣屋

茨城県常陸大宮市長倉

城の種別

山城

築城時期

文法元(1317)年頃

築城者

長倉義綱

主要城主

長倉氏

遺構

曲輪、土塁、堀切、竪堀、横堀

長倉城近景<<2005年01月09日>>

歴史

文保元(1317)年、佐竹行義の次男・義綱がこの地を分知されて築城し、長倉氏を称したのが始まりという。

佐竹氏十二代・義盛には男児が無く、関東管領山内上杉憲定の次男・龍保丸を養子に迎え入れようとしたところ、山入城主・山入与義、長倉城主・長倉義景らがこれに反発、龍保丸の入国を阻止するため応永十四(1407)年十月、長倉城に立て籠もり抗戦した(山入一揆・山入の乱)。関東公方・足利満兼は岩松満範に命じて長倉城を包囲、翌応永十五(1408)年四月十七日に開城し長倉義景も降伏した。

応永二十四(1417)年一月、上杉禅秀の乱が収束した後、関東公方・足利持氏と幕府・関東管領山内上杉氏の関係が悪化すると、佐竹義憲は一貫して持氏を支持したのに対して室町幕府は足利持氏に対する抑えとして山入祐義や長倉義成らを「京都御扶持衆」を支援、永享七(1435)年に長倉義成は長倉城で挙兵した。足利持氏は八月、岩松持国らに命じて兵六千で長倉城を包囲、宇都宮氏・結城氏らの調略により十二月に降伏開城した。

延徳二(1492)年、太田城を山入義藤に奪われ孫根城に居住していた佐竹義舜は下野烏山城主の那須資実らの援軍を得て長倉城を攻撃し、長倉義久は降伏開城した。また天文九(1540)年、長倉義忠は野口城主の野口直之允らとともに佐竹義篤に叛き、敗れて自害した。文禄四(1495)年、長倉義興は柿岡城に移り、一時中田駿河守が居住したが佐竹氏の秋田移封に伴い廃城となった。

天保九(1838)年、水戸徳川斉昭の命により松平頼位が長倉城跡の直下に長倉陣屋を設け明治維新まで続いた。

長倉城は那珂川中流域の山間部、常陸と下野の国境附近にあります。ここから西へ3kmほど行くともう栃木県茂木町です。ここに佐竹行義の子、義綱が配され長倉氏の祖となります。佐竹氏にとってこの地は国境警備の要として、重要な地であったことでしょう。ところがその期待に反して、長倉城は繰り返し佐竹氏に対する叛旗を掲げ、遂には関東公方の大軍に包囲されるというお騒がせな場所になってしまいます。

発端は佐竹義盛の養子縁組をめぐり、関東管領山内上杉氏からの養子を迎えようとする一派と、それを阻止しようとする一派が対立したことに始まります。この阻止派の急先鋒のひとりが長倉義景であり、また山入与義ら「山入一揆」勢でした。何ゆえに長倉義景が山入の一党に与したのかはわかりませんが、純粋に源氏の名門たる佐竹氏に他姓(上杉氏は藤原氏出身)の者が跡を嗣ぐということが許せなかったのかもしれません。この一党は長倉城に立て籠もり、龍保丸の入国を実力で阻止しようと気勢を揚げますが、関東公方軍に包囲され半年ほどの籠城で降伏開城します。この騒動により龍保丸も一時太田城への入城を見合わせるのですが、結局は関東公方・足利持氏らの後押しもあってぶじ養子入りし、佐竹義憲(義人)となります。

しかし長倉氏の、そして山入一揆の叛乱はこれで治まったわけではありません。「上杉禅秀の乱」で禅秀に与した彼らは禅秀の敗北によって降伏しますが、ふたたび長倉城で挙兵し、関東公方足利持氏は上野の有力武将、岩松持国に6000の兵をつけ、長倉城を包囲します。その模様は「長倉追罰記」として記録に残ります。それによれば長倉城は 「四方切て 東西南北に対すべき山もなし。前は深谷、後ろは山岳峨々と聳えたり。東に山河漲流、西は渓水をたたへたり。是を用水に用いる。日本無雙の城と見へたり」と記されています。実際には堅固な城には違いないのでしょうが、少々オーバーに誉めすぎているきらいもあります。この合戦については6000もの大軍がこの山間の地に布陣したのかどうか、攻める方も守る方も兵糧が続いたのか、さらにこの永享七(1435)年の戦いはもしかしたら応永十四(1407)年の戦いと話が混同しているような気もします。「長倉追罰記」自体も合戦の模様は前半の少しだけで、あとは参陣した諸侯の旗の紋が延々と書かれているだけで「なんだかなあ」という感じです。

その後も山入氏に与した長倉氏は何度か佐竹氏に背いて討伐されることがあったようですが、名跡はしっかり続いていました。しかし慶長四(1599)年、柿岡城に移されていた長倉義興は佐竹義宣の不興を買って切腹、という事件が起きています。一説にはこれは水戸城の改修をめぐっての諫言が原因だったとか。義興は「この時期に居城を堅固に改修するのは徳川方に対して刺激的過ぎる」として諫言したのですが、これによって義宣の不興を買ってしまい蟄居、のちに切腹を命じられた、とか。関ヶ原の合戦における佐竹氏は石田三成と親しかったこともあって去就をはっきりさせず、これがもとで徳川家康に秋田移封を命じられてしまうのですが、長倉義興は徳川の実力を見抜いていたのでしょうか。結果的には義興の方により先見の明があったように思えますが・・・。

長倉城鳥瞰図

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長倉城は比高80mほどのこんもりした山に築かれています。「長倉追罰記」では「日本無双の城」なんて書かれていますが、たしかに周囲の山より頭ひとつ分くらい高いのは事実ですが、ちょっと大げさな気がします。山の上の曲輪はベロ〜ンと広い平坦地がありますが、重機が走り回った跡が痛々しく、巨大なひとつの曲輪だったのか、空堀や土塁でいくつかの曲輪に分かれていたものかはなんとも分かりません。遺構の特徴としては山の周囲に比較的短いながらも幅の広い竪堀を何本も落としていることで、あまりこの地方の城館では例の無い縄張りです。主郭の西側は深い谷によって隔てられ、湧水もあります。その南側は人工的な堀となって蒼泉寺脇まで続きます。このあたりは「追罰記」でいうところの「西は渓水をたたへたり、是を用水に用いる」という表現に近いものがあります。

なお蒼泉寺の東、長倉城の南麓の谷戸には江戸時代末期の水戸藩の支藩として設立された長倉陣屋跡があり、枡形などの遺構があるそうですが、ソレガシは残念ながら見逃してしまいました。

[2006.11.05]

夕暮れ時の寒〜い時間の長倉城遠景。小高く突き出た山ですが「日本無雙」というのはちょっと大げさですなあ。 蒼泉寺裏手から見る長倉城。ここからだと比高は30mほど。看板の裏手のヤブ・畑は近世長倉陣屋の跡です。
主郭、といっても巨大な曲輪が一つあるだけ。重機の跡が痛々しく、どこまでが旧状どおりなのか掴みづらい。 南端に残る土塁。本来は曲輪を全周していたものだろうか。
精密な測量に集中するオカレンジャー殿。その苦心の成果は「図説・茨城の城郭」をぜひ見て! 主郭東側に位置する横堀。しかしヤブが酷くて堀底に降りる気がしない。。。
こちらは長倉城最大級の竪堀である竪堀2。東・北の横堀と接続しています。しかしこちらも倒木が酷い。。。 北側の横堀は比較的ヤブも少なくその形状が掴みやすいです。
長倉城の特徴的な遺構である幅広で長さの短い竪堀。腰曲輪間の通行を分断したものでしょうか。 こちらは南側の竪堀6。しかし作業用の道路などが付いていてちょっとわかりづらい。
もう一つの特徴である多数の帯曲輪・腰曲輪。しかしこちらも重機の痕跡と区別がつきにくい。 西側に深く切れ込んだ谷が実質的に堀切となっています。
その谷底には湧水点があります。「追罰記」でいうところの「西は渓水をたたへたり。是を用水に用いる」と良く一致します。 その西側の谷は空堀となり、蒼泉寺裏手まで長く続いています。

 

 

交通アクセス

常磐自動車道「那珂」ICまたは「水戸」IC車40分。

周辺地情報

那珂川沿いに下ると御前山城野口城が、逆に上流へ向かうと県境を越えて茂木城などがあります。

関連サイト

 

 
参考文献

「御前山郷土誌」

「常陸太田市史 通史編 上巻」

「常陸国石神城とその時代」(東海村歴史資料館検討委員会)

「茨城の古城」(関谷亀寿/筑波書林)

「日本城郭大系」(新人物往来社)

「図説 茨城の城郭」(茨城城郭研究会/国書刊行会)

参考サイト

余湖くんのホームページ

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