山入城は国安城とも呼ばれ、佐竹氏家中を二つに割って100年も続いた「山入一揆」の乱の中心となった山入氏の本拠です。
山入氏の初代は佐竹氏九代の貞義の第七子、師義でした。この人物は南北朝の騒乱や観応の擾乱に際しても一貫して足利尊氏に与して各地を転戦、九州多々良浜合戦などでも活躍し信任を得るのですが、摂津における合戦で討ち死にしてしまいます。しかしこの戦功により子の与義は久慈東・西郡一帯や「依上保」と呼ばれた現在の大子町周辺に広大な所領を与えられ、依上・高久・小田野・松平などの二次庶子をも分派させて「その勢威宗家を凌ぐ」といわれたほどの勢力を持ちます。このことが後に佐竹氏にとって大きな問題となります。
佐竹氏十二代・義盛には男児が無く、跡継ぎをめぐって、関東管領山内上杉憲定の次男、龍保丸を養子を迎え入れようとする一派と、他姓の者(上杉氏は本姓藤原氏)に源氏の名門たる佐竹氏の名跡を嗣がせることに反対する一派が対立します。この反対派の頭目が山入与義でした。結局このときは関東公方・足利持氏の後押しなどもあって、龍保丸(のちの義憲・義人)を跡継ぎに迎え入れるのですが、山入与義や長倉義景、額田義亮らはこれに反発し、長倉城や額田城などで挙兵に及びます。これにより「山入一揆」と呼ばれる山入氏を中心とした同族集団と佐竹宗家との対立が始まります。この裏側には関東公方・足利持氏と管領・犬懸上杉氏憲(禅秀)の対立といった関東をめぐる政治的対立が絡んでおり、この後もこの同族争いは関東の政治向きの話と密接に絡み合いながら進展します。与義の妹は水戸城主であった大掾満幹に嫁ぎ、さらに満幹は犬懸上杉氏から養子の教朝を迎えていたという血縁関係もあり、「上杉禅秀の乱」に際しても与義は禅秀与党となって持氏や佐竹義憲らと対立します。この乱は禅秀の滅亡により大局的には沈静化しますが、山入氏と佐竹氏・持氏の暗闘は続き、応永二十九(1422)年十月、鎌倉の佐竹屋敷にいた与義を持氏の命を受けた上杉憲直らが攻め、与義は比企谷において自害します。
さらに足利持氏と幕府将軍・義持との関係が悪化すると山入氏ら反持氏派は「京都御扶持衆」と呼ばれる幕府の半直属の目付役となり、持氏・義憲らとの冷たい戦争が勃発します。この過程で常陸の守護職任免を巡り、幕府と鎌倉府の意見が割れ、結果として佐竹義憲と与義の子・祐義による「半国守護」などという変則的な事態を引き起こしたりしています。永享年間末期頃には関東公方・足利持氏と幕府将軍・足利義教、関東管領・山内上杉憲実が激しく対立するようになり、その図式を受けて佐竹義憲は持氏に、山入氏らは幕府・関東管領側に味方するようになります。この対立は「永享の乱」や「結城合戦」を招き、その結果関東公方が滅亡、佐竹義憲は太田城を幕府軍に攻撃される寸前まで追い込まれましたが、これは将軍・義教の暗殺事件「嘉吉の変」により中止されて命拾いします。山入氏らは一貫して反持氏・反佐竹宗家の立場でこれらの対立に参加しています。
関東公方の滅亡後、今度は佐竹宗家内部で義憲の跡継ぎをめぐって対立が発生、嫡男の義俊と次男の実定が争い、義憲が実定に肩入れしたこともあって、義俊は太田城を追放され、流浪の日々を送ります。このとき山入一族は実定を支援し、義俊追放に一役買っています。「佐竹源氏の復興」が名目だった山入一揆は、このころにはもう単なる「反宗家ゲリラ戦線」に変貌していたのかもしれません。
文明十(1478)年頃には山入義知による久米城攻撃があり、激戦の末に佐竹宗家側の守将・北義武は討ち死に、一方で久米城奪還を計った佐竹義治の攻撃により山入義知も戦死するなど再び対立が激化します。そして延徳二(1490)年には山入義藤・氏義父子が佐竹義舜を太田城から追放、山入一揆の勢力は頂点を極めることになります。しかし明応元(1492)年義藤の死去により山入氏義は孤立化し和睦の機運が高まり、一時は太田城の明渡しが実現するかに見えました。結局これもこじれた末に和議は破られ、氏義による孫根城・金砂山城攻撃が勃発、一時は佐竹義舜は追い詰められて自刃を考えるほどでした。このときは金砂山城における戦闘で天候の急変に乗じて義舜が反撃を仕掛けたことにより山入勢は大損害を受け撤退、以後義舜は徐々に勢力を回復し反対に山入勢は力を失い、太田城に閉じこもるようになります。そしてとうとう永正元(1504)年、義舜は太田城を奪回、山入氏義は高部城に逃れたところを討ち取られたとも、捕えられて覚明院(栃木県茂木町)で斬られたともいいます。これによって山入一揆は勃発以来約100年ぶりに鎮定されることとなります。山入氏がこれほどしつこく抵抗を続けた背景には、単なる家中の勢力争いという面だけでなく、「関東公方VS関東管領」という、関東戦乱スキームが密接に関連しています。その上、前述の「その勢威宗家に倍す」と云われた強大な力と所領がそのエネルギーを支えていたのでしょう。室町期にはこのように宗家と庶子家のバランスが崩れ、惣領を中心とした族的制度が崩壊に向かいつつありました。元をただせば室町幕府の政策の一貫性の無さ、無頓着な知行安堵や宛行の乱発がその背景にあるのですが、こうした社会秩序の崩壊が「下克上」の戦国時代の下地となっていきます。折しも領土を接する那須氏でも似たような騒動がおよそ100年近く続いており、決して佐竹氏家中特有の現象ではなかったのです。
|
山入城縄張図(左)、想像復原図(右)
なお山入城想像復原図は「図説 茨城の城郭」(茨城城郭編集会編/国書刊行会)の表紙イラスト原画です。
テキストつき
ボツVersion
(クリックすると拡大します) |
それにしても、これだけ長く複雑な抗争、しかも太田城を中心に半径10km程度の狭い範囲での争いであったにもかかわらず、不思議と山入城は主たる戦場としては歴史の上に登場しません。山入氏が本拠としていたことは間違いないのでしょうが、直接的に戦場にならなかったということはそれだけ山入勢の本拠防衛が堅かったということかもしれません。わずかに乱の終盤に城代として置かれていた天神林義益がこの地で討ち死にしたとされています。
この後山入城は歴史に現れなくなりますが、佐竹氏の本拠・太田城を取り巻く防衛拠点のひとつとして維持されていたと思われます。特に戦国末期頃には南奥州戦線での戦闘が激化していますので、北からの侵攻を食い止めるための重要な防衛拠点のひとつだったでしょう。一方の佐竹氏は義舜によって戦国大名的な家内制度が整備され、その後戦国末期にかけて関東における反北条勢力の中核として発展、関ヶ原の後に秋田へ移封となりますが近世を通じて大名家として生き残る礎を築くこととなり、義舜は「佐竹氏中興の祖」と呼ばれるようになります。
山入城は国安集落の背後に位置する通称要害山一帯に築かれており、遺構は一部道路建設や土取りによって不明瞭になっているものの、比較的良く残されています。本格的な山城の少ない茨城県内にあって、最も山城らしい山城のひとつであると言えるでしょう。山の中腹まで道路が通じ、そこから歩きやすい道を10分ほどで主郭に達します。主郭にはまるで天守台のような土壇がありますが、さすがに天守まではなかったでしょう。背後は急峻な堀切(堀 )となっており、尾根続き方向にはこの堀を含め、大小3つの堀切があります。一方大手道とされる南側には数段の曲輪や堀切・竪堀と土橋などがあり、遺構の程度も良好です。この南側は尾根が二筋に分かれており、間に谷を挟んで西側の尾根にも曲輪や堀切・土塁などがあります。山麓に向かっても段々が数多くあるのですが、現在では土取り跡地や農地などでどこまでがこのお城の遺構と呼べるのかはっきりしません。ただし山麓の谷戸の中の高台あたりが居館であったような雰囲気は感じられます。
附近には同族でありながら山入氏に与せず滅ぼされた松平氏の居城・松平城や山入氏の隠居城とされる棚谷城、山田川に沿って下ると激戦の舞台となった久米城、利員要害城など、山入一揆に関連する城館が多数あります。まったくこんな狭い範囲でどうやって100年も戦いを続けられるのか、不思議な感じがします
[2006.10.17]