常陸の覇者・佐竹氏発祥の地

馬坂城

まざかじょう Mazaka-Jo

別名:間坂城、天神林城、稲木城

茨城県常陸太田市天神林町

城の種別

平山城

築城時期

不明(平安末期)

築城者

天神林氏

主要城主

藤姓天神林氏、佐竹氏、稲木氏、源姓天神林氏

遺構

曲輪、堀切、横堀、土塁、櫓台

馬坂城の主郭<<2005年02月13日>>

歴史

平安時代、藤原秀郷の流れを汲む藤原通延が太田郷の地頭に任ぜられ、天仁二(1109)年太田城を築いて太田大夫と称した。馬坂城は太田一族の天神林氏が築いたという。

その後、前九年の役で戦功があった源頼義の三男、新羅三郎義光が佐竹郷を領有し、その長子・義業が相続し、その子昌義が佐竹郷に永住するようになり、佐竹氏を称したという。佐竹氏は当初、佐竹郷の観音寺(のちの佐竹寺)に居住したが、天承元(1131)年、天神林氏の馬坂城を攻め取って、二代忠義まで居住した。その後、佐竹氏三代・隆義が太田城を接収し居城としたため、馬坂城は一時廃城となった。

応永二十三(1416)年に勃発した「上杉禅秀の乱」では、佐竹惣領家の義憲は足利持氏に荷担したが、分家の山入氏を中心とした「山入一揆」が禅秀に荷担、この際に稲木義信が立てこもった「稲木城」が馬坂城であるという。稲木城は禅秀の乱の終結後も抵抗を続け、佐竹義憲は応永二十四(1417)年二月からこれを攻め、四月に攻め落として稲木義信らを滅亡させ、馬坂城は再び廃城となったという。

その後、佐竹氏十四代義俊の子、義成が永享年間(1429-41)にこの地に居住し、天神林氏を名乗った。しかし、義成とその子義益は「山入一揆」に与して佐竹宗家に反抗、佐竹氏十六代・義舜が延徳二(1490)年、山入義藤・氏義によって太田城を追われると山入城代として山入城を守備した。佐竹義舜は永正元(1504)年に太田城を奪回、山入氏義は本拠の山入城に逃れたがこれも落城し、天神林氏も没落し馬坂城は廃城になったとされる。ただし、天文十一(1542)年の伊達氏の内紛に佐竹義篤が介入した際、奥州関山の合戦で「天神林義兼」が討ち死にしており、天神林氏の居城として存続していた可能性もある。

数々の戦乱を乗り越えて常陸の覇者となった名門・佐竹氏。その佐竹氏にとって「発祥の地」ともいえるのがこの馬坂城です。発祥、といっても実際にはこの地方には平安末期すでに秀郷流藤原氏の太田氏が勢力基盤を持っており、佐竹氏は源氏という名門ではあるものの、所詮は新参者、よそ者であったと思われます。そのころの太田城にはのちに小野崎氏と名乗る太田大夫がおり、馬坂城にはその一族の天神林氏がいたということです。で、新羅三郎義光の孫にあたる昌義は観音寺(のちの佐竹寺)に居住し、天神林氏を追い出して馬坂城を本拠とします。寺に居候している流れ者がどうやってその力を蓄えたのか、ちょっと不思議な話です。昌義の母は、当時常陸で大きな勢力を持っていた大掾氏一族の吉田清幹の息女だとううことですから、大掾一族の支援もあったかもしれません。それに佐竹氏は次のターゲットとして太田城も自分のものにしてしまいますので、やはり当初からある程度の力は持っていたんでしょう。しかし、まるでヤドカリのような・・・。

その後の馬坂城については断片的なことしか分かりません。「山入一揆」に際して、山入氏に呼応して挙兵したひとりに稲木義信という人物がいて、稲木城が攻め落とされていますが、この稲木城=馬坂城である、ともいいます。稲木はたしかに天神林集落の台地続きではありますが、やや距離が離れているのでこのお城を稲木城といったかどうかは多少疑問ではあります。山入一揆の乱の終盤には、佐竹氏系の天神林氏が登場するのですが、その地名からして、馬坂城に居住していたのでしょう。天神林義成は、佐竹義治の葬儀にあたり、北義信と江戸通俊が席次を争った際に「まあまあ」ということで調停に入ったということですが、このことで佐竹義舜から疎まれ、遂に山入氏に通じてしまい、山入氏の太田城襲撃の際には城代として山入城を預かったりしています。結局天神林氏は山入城で滅ぼされてしまうのですが、その後の馬坂城がどうなったのか、これまた不明です。

馬坂城太田城の南西に位置する丘陵の南端附近にあり、半島状台地を数条の空堀で区切った連郭式の台地城郭です。しかしこの半島台地は支尾根や谷が複雑に入り組んでおり、支尾根の付け根に堀切を入れるなど、発想としては山城的な縄張りをも併せ持っています。比高差は30mほどですが、周囲は急崖が多く、それなりの要害の地ではあります。現在の常陸太田市街地とは逆方向を向いており、結果から見れば地域支配的な城郭としては太田城の方が優れていたかもしれませんが、堅固さではこちらの方が上なのでは、とも思えます。主郭にあたる「御城」は畑となり、中央付近に石碑と解説板が立っています。北側には畑になっているものの空堀が明瞭で、台地続きの「押葉平」にも畑と化した空堀が残ります。このあたりは宅地が立て込んでいたりして、かなり改変されているようです。南側の台地先端方面にも空堀があり、途中の山林には「源氏塚」と称される、5mほどの櫓台状の構造物があります。さらに先端の方に行くと、意外なことに佐竹氏特有の横堀がしっかりあったりして、旧いタイプの城館かと思いきや、少なくとも室町中期から戦国期にかけて改修されたことは明らかです。城域も長軸で300mほどあり、決して小さなお城ではなく、また必ずしも旧いタイプの城館ではないという印象を持ちました。宅地化や農地化などで改変されていたり、歩けない部分も少なくないですが、ざっと見ただけでもそこそこ遺構も充実しており、満足度では太田城よりずっと上でしょう。

馬坂城平面図(左)、鳥瞰図(右)

※クリックすると拡大します。

なお、台地続きの北側には佐竹氏初代の昌義が居候していた佐竹寺があり、天文十五(1546)年に佐竹義昭が寄進した立派な本堂(国指定重要文化財)が現存しています。佐竹氏の文化的な足跡はあまり旧領の常陸には残っていないだけに、貴重なものであるといえます。

 

 

[2005.04.04]

 

馬坂城の遠景。常陸太田市街地の南西に位置し、久慈川氾濫原の低地に面した細長い舌状台地にあります。 旧道の面影を残す狭い坂道を登ると入口の案内板が。このあたり、道が狭いので車を停める場所に少々苦労します。
畑の中の「字・御城」に建つ石碑と解説板。寒い朝でしたが、ここが佐竹氏の発祥の地かと思うと、血が熱くなる思いが・・・。 支尾根を断ち切る堀切7。まるで山城のような処置の仕方です。
現状では最大の堀切となる堀1。 西側には浅い堀を隔てて、比較的まとまった広さを持つ曲輪があります。
支尾根の西端にある物見台風の高まり。自然地形ではありますが、物見や戦闘の指揮には適しています。このあたりの周囲は崖です。 ヤブの中にボコッと突き出た櫓台「源氏塚」。古墳の再利用であるようです。
墓地になっている腰曲輪。鬱蒼とした山林に突如現れる墓地、なかなかゾクっと来るものがあります。 墓地の入口は堀切(堀2)でしょう。
畑になっているU曲輪「字・西城」。数段の段々がありますが、どこまで遺構なのかよく分からないところです。 竹薮化しているV曲輪。ここは台地先端部にあたり、攻防においては要となりそうな曲輪です。
V曲輪の西から南にかけて、横堀(堀3)が半周しています。このあたり、小規模ながら典型的な佐竹氏系城郭を踏襲しているといえます。 横堀は台地先端で竪堀となります。このあたり、通路としても用いられていたように見えます。
主郭の北側に畑となって残る堀7。かなり埋まっていますが、天幅は10mほどあり、往時はかなりの規模であったことが想像されます。 W曲輪「押葉平」は宅地化や道路でかなり改変されており、全貌はよくわかりません。
押葉平に残る堀8。こちらも埋められて畑になっていますが、天幅は15mほどもあり、かなりの規模の空堀であっただろうと思われます。 台地続きにある佐竹寺。本堂は兵火に焼けていたものを、佐竹義昭が寄進して立て替えたもの。萱葺き屋根が荘厳です。必見。

 

 

交通アクセス

常磐自動車道「日立南太田」IC車15分。

JR水郡線「河合」駅徒歩20分、「常陸太田」駅から徒歩30分。

周辺地情報

ほとんど城址碑だけですが太田城、小野崎城などがあります。きちんとした遺構が見たい人は山入城、田渡城などが良いでしょう。南なら額田城は必見。

関連サイト

 

 
参考文献

「常陸太田市史 通史編 上巻」

「常陸国石神城とその時代」(東海村歴史資料館検討委員会)

「茨城の古城」(関谷亀寿/筑波書林)

「山入一揆と佐竹氏」(大内政之介/筑波書林)

「日本城郭大系」(新人物往来社)

参考サイト

余湖くんのホームページ

埋もれた古城 表紙 上へ