ヘタレ城っていうのはなんともまたユーモラスな響きではありますが、ここで繰り広げられた兄弟の相克はそんな微笑ましいものではなかったのでした。なんといっても十二年も続いた兄弟喧嘩なんですから・・・。
永正十四(1517)「年、「佐竹氏中興の祖」と呼ばれた英傑・義舜が死去すると、まだ十一歳の少年であった義篤が佐竹宗家を嗣ぐのですが、ここに例によってお家騒動の種が潜んでいました。義篤には庶兄の永義、弟の義元、義隣の兄弟がいましたが、永義と義篤は不和、そして永義と義元は通じ合っており、義篤をないがしろにするような行動を起こします。そして享禄二(1529)年、宇留野氏(宇留野城主)を嗣いでいた義元は突如、佐竹氏宿老の小貫俊通の居城、部垂城を攻略、自ら部垂義元を名乗ります。この小貫氏への攻撃は佐竹宗家への敵対とイコールとされ、ここに兄弟戦争が勃発します。しかし義篤は当時、江戸氏と小田氏の抗争に介入したりしていて、すぐに手を打てない状況であったようです。
そして天文四(1535)年には高久城主の高久義貞が部垂義元に応じて挙兵、高久氏はすぐに降伏してしまうのですがこれを契機に部垂義元も挙兵、小瀬(緒川村・現常陸大宮市)で合戦となり、翌年には前小屋城が落城し一時和議が成立します。
しかしその後、突如事態が動きます。天文八(1539)年、義篤は下野烏山城主の那須政資・高資の争いに介入、翌年には撤退するのですが、その帰途、突如部垂城を攻撃します。この攻撃は実は部垂方の家臣の讒言によるものだとも伝えられます。曰く、義元の家臣・大賀外記は部垂城大手の橋の普請奉行に任ぜられていたが、工事の結果に不満を持つ部垂義元が衆人環視の中で大賀を罵り、大賀はこれを恨んで義篤に「部垂城の普請は佐竹氏に対する謀反の意の顕れである」と讒言したとか。義篤の部垂城攻撃は城方にとっては寝耳に水であったようで、わずか五十名の城兵では多勢に無勢、最後は黒沢大学なる者が返り忠して寄せ手を間道から導いて火を放ち、遂には三月十四日落城に至り、部垂義元は自刃、その子竹寿丸は辛くも脱出したところを黒沢大学に捕えられ、斬殺されてしまった、とのこと。ここに足掛け十二年にも渡った兄弟相克劇はここに収まります。
この争いは佐竹氏の歴史の中で何度も繰り返された宗家惣領をめぐる家督争いの最後のものでした。これを「部垂の乱」とか「部垂十二年の乱」などと呼びますが、前述のとおり、のべつ幕なしに戦争をしていたというよりも、小競り合いと和議を繰り返しながらドロドロとした対立が続いていたのが実態のようです。この乱ではたまたま部垂城にいた小場義実が戦死した、とされますが、小場氏の一族である前小屋氏は部垂勢に加担しており、また義篤庶兄の永義や高久氏、宇留野氏、野口城主の野口氏ら那珂川・久慈川中流域の佐竹一族も加担していたことから、小場氏も同調していたのかもしれません。いずれにせよ一歩間違うと「山入一揆の乱」の再現になりかねない事態であったのですが、佐竹氏はこの難局をまたまたしぶとく乗り切っています。ちなみに永義は改心して佐竹宗家に従ったようで、その後佐竹領内の修験先達職に任じられ「私ニ大納言ヲ称」して今宮大納言永義と名乗り、佐竹領内の宗教界の統制に一役買っています。さらにその子光義は、戦国末期に白川結城氏らと激しく争奪戦を繰り広げた奥州南郷の寺山城代に任じられたりもしています。
現在の部垂城周囲は小学校用地や宅地、市街地などになっており、往時の構造や規模などがわかるものはほとんどありません。ソレガシは遺構を全く発見できずにさっさと撤退してしまったのですが、「図説茨城の城郭」で部垂城の項目を担当したアオ殿(北緯36度付近の中世城郭)によれば、大宮小学校の台地斜面あたりに横堀の残欠、また西側の西方寺、東側の松吟寺あたりに土塁なども見られるようです。ソレガシは気づきませんでした。小学校のそばという場所が場所だけに見学には不審者と間違われないよう、ご注意を。
[2006.10.23]