孫根城は、「山入一揆」によって太田城を追われた佐竹義舜が十数年に渡って雌伏のときを過ごした、佐竹氏の苦難の歴史を物語る場所です。
佐竹十五代の義治が死去し、義舜がその跡を嗣ぐのですが、このとき山入義知・氏義父子は太田城に兵を入れて威嚇、家臣団の動揺などもあり、支えきれないと悟った義舜は太田城から決死の脱出を決行、自らも鑓を揮い奮戦します。このとき義舜が幼少だった云々という話もありますが、太田城脱出の延徳二(1490)年当時は没年と享年から逆算すると二十歳前後だったと思われ、「幼少」というのは当たっていないと思われます。
対する山入氏の方は、応永年間に佐竹義盛に子がなく、山内上杉氏から義憲を養子に迎え入れるにあたり、当時久慈東・西郡や依上保などに勢力を持っていた山入城主の山入与義らの一党が佐竹源氏の血統の正当性を名目に、事あるごとに反佐竹宗家的な行動を取っていました。山入氏の存在は室町幕府と関東公方・足利持氏との対立にも影響を与え、結局山入与義は持氏によって滅ぼされてしまうのですが、山入氏とそれに一味する派閥の力は大きく、佐竹宗家とは時に戦い、時に一時的に和睦したりを繰り返しながら、何十年にも渡ってその反目が続きます。
この「山入一揆」の反宗家的行動の後半のピークがこの義舜の太田城追放事件あたりで、山入義藤・氏義父子は武力をもって太田城に入城、岩城氏ら近隣勢力との外交なども軌道に乗り、まさに絶頂期を迎えています。対する義舜はほうほうの体で太田城を逃れ、家臣の天神林右京亮を頼るも、ここでも裏切りにあってさらに敗走、結局、外祖父である大山因幡入道常金の居城、大山城に入ります。大山常金は義舜の外祖父ではなく、叔父であるという説もあります。とにもかくにも何とか追っ手を逃れた義舜ですが、大山氏は大山城に義舜を置くのは危険と考え、大山氏の隠居城であるこの孫根城に義舜を匿うことになります。
絶頂期の山入氏でしたが、山入義藤が太田城入城後わずか二年で病没したことで和議の機運が高まり、一時は義知の子、氏義と義舜の間で、南奥州の岩城氏らの仲介もあって和議が成立します。ところが氏義側が和議の条件である太田城の退去を守らず、一揆側の勢力にも分裂のきざしが見え始めると、氏義は状況の悪化を食い止めるため、和議を破棄して孫根城を攻撃します。山入勢800、孫根城の城兵は200、義舜はここも支えきれぬと悟りまたしても脱出、孫根城では寡兵でこれを支えるもやがて力尽き、城兵は全滅、援軍の小場義積・義澄兄弟らも討ち死にを遂げたとのことです。この後、義舜は東金砂山から西金砂山城に移るも大苦戦、何度も自刃を覚悟するも家臣たちに説得され思いとどまり、最後の興亡の一戦を迎えます。このとき、天候が急変、強風が吹きつけ砂埃が舞い上がり、西金砂山城に攻めかかる山入勢は劣勢に陥り、これを好機とみた義舜の反撃によって形勢逆転、義舜は九死に一生を得ます。この後、永正元(1504)年に太田城復帰を果たしますので、義舜はおよそ十五年弱も流浪の生活を送り、そのうち十三年のこの孫根城で過ごしたことになります。
もっともこの話にも疑問はあって、前述のとおり「義舜が幼少で云々」というのはちょっと違うはずですし、大山因幡入道常金は義舜の二代前の義俊の外祖父として、家督争いで窮地に陥った義俊を孫根城に匿ったなどという話もあります。この義俊は佐竹義憲の嫡子でありながら父が弟の実定を擁立しようとしたことから対立、義俊は太田城を逃れて孫根城に匿われ、十四年後に太田城を回復するという話なのですが、ストーリーが義舜のものとほぼ同一であるところが不自然です。大山因幡入道の名は義俊と実定との争いの際に古河公方・足利成氏の書状の中に見られることから、むしろ義舜の話が間違っており、義俊の時代の話としたほうが正しいのかもしれません。偶然同じような経過をたどった可能性もゼロとは言い切れないものの、普通に考えればこれほど状況が一致することはあり得ず、大山常金と佐竹氏当主との関係を含めてどこかで話がこんがらがって基本的なところに間違いが潜んでいそうな、そんな気もします。
このように基本的な史実にはやや曖昧な点が残るものの、義俊の代か、義舜の代かのどちらかに孫根城に佐竹氏の当主がかくまわれていたらしいことは認めてもよいと思われます。孫根城はその立地が奥まった谷津の中の一画にあり、いかにも隠れ家的な雰囲気を持っています。現在は民家の敷地となっており、遺構も完全ではありませんが、敷地の周りの重厚な土塁や佐竹氏系城郭で多用される横堀などの遺構は健在です。見学当日、この家の方とお話する機会があり周囲を案内していただいたのですが、やはり「佐竹の当主をここで匿った」という言い伝えがあると仰っていました。見学の際はこのお宅に一言許可を求めてからにしましょう。
[2006.10.17]