この紋所が眼に入らぬか

水戸城

みとじょう Mito-Jo

別名:馬場城、水府城

茨城県水戸市三ノ丸

城の種別

平山城(丘城)

築城時期

建久年間  

築城者

馬場資幹

主要城主

馬場大掾氏、江戸氏、佐竹氏、水戸徳川氏

遺構

曲輪、土塁、空堀、藩校、薬医門

三ノ丸空堀<<2002年04月14日>>

歴史

常陸大掾氏の一族、馬場資幹が築城し、常陸大掾氏の総領家の本拠となった。

河和田城主の江戸通房は主家の佐竹氏、鎌倉公方の承認のもと、水戸城の奪取を企てた。馬場大掾満幹は応永二十三(1416)年の上杉禅秀の乱で鎌倉公方の足利持氏に敵対したため所領を没収され力を弱めていたが、江戸通房はこれを利用、妹を嫁がせて安心させ、応永三十三(1426)年、城主の満幹が不在の隙を狙って急襲、占拠した。以降、大掾氏は何度も水戸城奪回を企てたが実らず、大掾氏は常陸府中城周辺の一勢力へと没落した。

江戸但馬入道通雅・彦五郎通泰は永正七(1510)年、佐竹義舜により佐竹一門との同格という地位を起請文で与えられ、佐竹氏と同盟関係(実質的には臣下)となった。

天正十八(1590)年の小田原の役後、常陸一国を所領安堵された佐竹義重・義宣父子は江戸重通に対して水戸城明け渡しを要求するが拒否されたため、その年十二月十九日に急襲、二十日に水戸城はじめ21支城が落城、江戸重通は結城晴朝を頼って結城城に落ち延びた。これにより江戸氏の水戸城在城は七代百六十五年で終わった。佐竹氏はこの後、二十一日に府中城の大掾氏を滅ぼし、翌天正十九(1591)年二月九日、常陸南部の大掾氏系中小豪族「常陸南方三十三館」城主らを太田城に招いて謀殺し、常陸一国を完全掌握し、居城を太田城から水戸城に移した。

文禄元(1592)年から慶長七(1602)年にかけて、佐竹氏により水戸城は修築・拡張されたが、慶長五(1600)年の関ヶ原の役での帰趨を徳川氏に咎められ、秋田へ転封となった。この時、佐竹氏の臣、車城主の車丹波が大窪城主の大窪兵蔵、馬場城主の馬場和泉守らと語らって徳川氏から水戸城奪回を企てるが失敗、処刑される事件があったと伝えられる。同年十月に下総佐倉城(本佐倉城)から家康五男の武田信吉が入封するが、翌慶長八(1603)年九月に病死したため、家康十子の頼宣が入封、さらに慶長十四(1609)年に第十一子の頼房が下妻城から移封となり、水戸徳川家の基礎となった。

寛永二(1625)年には旧二ノ丸を本丸とするなどの大規模な修復を行った。天保十二(1841)年には、徳川斉昭によって藩校・弘道館が建築され、当時としては先進的な医学や天文学などが講じられた。その間、水戸徳川家二代の光圀により、「大日本史」が編纂された。

明治元(1868)年には大手橋周辺で倒幕派と佐幕派による激しい戦闘が行われた。その後の廃藩置県で廃城となった。昭和二十年の空襲で御三階櫓などの遺構が焼失した。

♪じぃ〜んせい 楽ありゃ 苦〜もあるさぁ〜 ♪

ご存知、水戸黄門。この「毒にも薬にもならない」番組を観たことがない日本人、知らない日本人がいったい存在するのだろうか?かつてこれほど名が知られた番組があったのだろうか?水戸近郊に住む方には失礼ながら、「水戸黄門」という番組がなかったら、これほど多くの人が水戸を訪れるだろうか?そう考えると、「水戸」=「水戸黄門」というイメージをあまねく日本人に植え付けたこの番組のもたらした経済効果ってものは、いったいどれくらいあるのだろう?しかも、「黄門様」こと徳川光圀が諸国を漫遊して、行く先々で悪を懲らしめ善を勧む、という、まったくもって史実とかけ離れたストーリーを、あたかも「常識」であるが如く日本人の根底に植え付けたのだから、この脚本を書いた人物、プロデューサーは天才だ。

などと、城郭ファンの自分が城もそっちのけで、ついくだらないことを考えてしまうほど、「水戸黄門」というのは偉大な(?)番組です。水戸黄門ネタはこの辺にしまして、城の話。水戸城は現在の水戸駅前、県庁関係の施設が建ち並ぶ付近から、学校が林立する地帯までの実に広大な範囲に渡っています。もっともこの広大な水戸城がはじめから築かれていたわけではなく、江戸氏が大橡氏から奪った当時の水戸城は、後世の本丸に当たる、台地の先端部、現在の水戸第一高校のグラウンド付近だけの城でした。それが江戸氏を追い出した佐竹氏によって大拡張され、さらに家康五男の武田信吉、そして「御三家」(この当時は御三家+αの位置付けだったが)の水戸中納言、徳川頼房によって現在の水戸城の広大な城地が完成しました。で、徳川とくれば「天下普請」「総石垣」「でかい天守」と来そうなモノですが、意外や、この水戸城は土塁と空堀を主体とした城で、でかい天守もなく、「御三階櫓」という天守代用の櫓が建つのみの、ごくつつましやかな(徳川の中では、だが)城でした。やはり、本家や尾張・紀伊の徳川家に比べて一段家格が低かったことで幕府に遠慮したのでしょうか。一応家康も家光も「石垣を作れ」と命じたらしいのですが、結局石垣が積み上げられることはありませんでした(カネがなかっただけかも)。そのせいか、徳川の城らしくない、女性的で優美な味わいがあるように感じます。でも空堀の深さなんかは「さすが!」という感じですけどね。

遺構はこの空堀と土塁、そして幕末期の藩校である「弘道館」などが中心です。空堀・土塁は学校敷地になってしまった本丸付近よりも三ノ丸の方が保存状態がよく、見ごたえがあります。各曲輪は非常に規模の大きい堀切で分断されていて、とくにJR水郡線の走る本丸と二ノ丸の間の堀切跡は、「これ自然の地形じゃないの?」と思わせるほどの規模です(実際自然の地形だと思うけど・・・)。

もうひとつ、中世城郭としての水戸城に関するエピソードとしては、やはり佐竹氏による「急襲合併」を挙げないわけにはいきません。小田原の役で常陸五十四万石を安堵された佐竹義宣ですが、その統治権を行使して江戸氏に水戸城明け渡しを要求します。しかし江戸氏はこれに応じません。そこで佐竹が急襲、激闘の末これを陥とし、のちに常陸太田城から本拠を移しました。まあ佐竹氏のやり方を責めるつもりは毛頭ありませんが、秀吉に安堵された領国統治権を最大限に拡大解釈して、この江戸氏を追い払い、大橡氏系の「南方三十三館」と呼ばれた諸将を謀殺したやり方は、本来ならば「関東惣無事令」の精神に思いっきり抵触するものでしょう。いかに江戸氏が小田原攻めに参陣しなかったとしても、ね。裏を返せば、これを認めた秀吉の「関東惣無事令」なるものがいかに秀吉側に都合よく作られた虚構であるかを示しているようでもあります。これにやられた北条氏や、まんまと上総を召し上げられた里見氏が馬鹿を見ただけですね。佐竹サンはそういう「虚構」を見抜き、め一杯利用しただけでしょう。やはりしたたかな戦国大名というべきでしょうね。

三ノ丸、現在の県庁三ノ丸庁舎や県図書館付近の土塁は非常に高さも幅もあり重厚です。櫓門の跡なども見られます。 「三ノ丸歴史ロード」沿いの堀と土塁。三ノ丸正面の堀と違って小ぶりで、その分優美さが感じられます。

弘道館の門。「徳川慶喜向学の地」の石碑もありました。水戸藩は学問に熱心だったようです。 烈公お手植えの木と弘道館。貴重な藩校の遺構ではありますが、正直なところこういった遺構の価値がよくわかりません。

で、ろくに価値も知らないもんだからこんなものを撮って喜んでいたりする。「使用禁止」って、あたりまえですがな。。。 藩主の座所である「至善堂」。徳川慶喜が朝廷に恭順の意を表し、静かに朝廷の命を待った、という由緒あるところだとのこと。

大手橋。現在はコンクリですがかつては木橋でした。幕末にはこの橋を挟んで激戦があったんだとか。この下は堀切ですが、今では道路になっています。 二ノ丸の土塁枡形。土塁は高く重厚で、見事です。このあたりは学校が林立していて、通学路にもなっているようです。

これはいくらなんでも自然地形だろうと思われる本丸と二ノ丸の間の堀切。 本丸は水戸第一高校の敷地に。周囲には土塁が残ります。

土塁上の隅櫓台。なにやらよくわからん銅像が建っております。 本丸枡形。橋梁工事でほんとは入れないんだが日曜で工事は休みだし、ちょっと失敬して写真だけ。。。。

水戸第一高校の敷地内に移築現存する城内薬医門。本丸橋詰門であったと言われています。戦国末期のものらしいです。 そのものズバリの名前の神社。水戸駅のすぐそばにあります。「義公」とは光圀、「黄門様」のおくり名です。
三ノ丸の堀を見て「おおっ!」と思った割には、本丸に近づくほど遺構はなくなってました。。。かつては御三階櫓などもあったのですが、米軍の空襲により灰燼に帰したとのこと。。。

 

 

交通アクセス

常磐自動車道「水戸」IC車20分。

JR常磐・水戸線「水戸」駅徒歩5分。

周辺地情報

偕楽園は藩主庭園であるとともに有事の際の砦でもあったようです。何となく食い足りない方は小幡城まで脚を伸ばしてみましょう。

関連サイト

 

 
参考文献 「日本の城ポケット図鑑」(西ヶ谷恭弘/主婦の友社)、「日本城郭大系」(新人物往来社)、「佐竹氏物語」(渡部景一/無明舎)、「佐竹氏 水戸城攻略の道を行く」(古市巧/筑波書林)、「戦国関東名将列伝」(島遼伍/随想舎)、現地配布資料、現地解説板

参考サイト

常陸国の城と歴史

 

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