常陸大掾氏の一族、馬場資幹が築城し、常陸大掾氏の総領家の本拠となった。
河和田城主の江戸通房は主家の佐竹氏、鎌倉公方の承認のもと、水戸城の奪取を企てた。馬場大掾満幹は応永二十三(1416)年の上杉禅秀の乱で鎌倉公方の足利持氏に敵対したため所領を没収され力を弱めていたが、江戸通房はこれを利用、妹を嫁がせて安心させ、応永三十三(1426)年、城主の満幹が不在の隙を狙って急襲、占拠した。以降、大掾氏は何度も水戸城奪回を企てたが実らず、大掾氏は常陸府中城周辺の一勢力へと没落した。
江戸但馬入道通雅・彦五郎通泰は永正七(1510)年、佐竹義舜により佐竹一門との同格という地位を起請文で与えられ、佐竹氏と同盟関係(実質的には臣下)となった。
天正十八(1590)年の小田原の役後、常陸一国を所領安堵された佐竹義重・義宣父子は江戸重通に対して水戸城明け渡しを要求するが拒否されたため、その年十二月十九日に急襲、二十日に水戸城はじめ21支城が落城、江戸重通は結城晴朝を頼って結城城に落ち延びた。これにより江戸氏の水戸城在城は七代百六十五年で終わった。佐竹氏はこの後、二十一日に府中城の大掾氏を滅ぼし、翌天正十九(1591)年二月九日、常陸南部の大掾氏系中小豪族「常陸南方三十三館」城主らを太田城に招いて謀殺し、常陸一国を完全掌握し、居城を太田城から水戸城に移した。
文禄元(1592)年から慶長七(1602)年にかけて、佐竹氏により水戸城は修築・拡張されたが、慶長五(1600)年の関ヶ原の役での帰趨を徳川氏に咎められ、秋田へ転封となった。この時、佐竹氏の臣、車城主の車丹波が大窪城主の大窪兵蔵、馬場城主の馬場和泉守らと語らって徳川氏から水戸城奪回を企てるが失敗、処刑される事件があったと伝えられる。同年十月に下総佐倉城(本佐倉城)から家康五男の武田信吉が入封するが、翌慶長八(1603)年九月に病死したため、家康十子の頼宣が入封、さらに慶長十四(1609)年に第十一子の頼房が下妻城から移封となり、水戸徳川家の基礎となった。
寛永二(1625)年には旧二ノ丸を本丸とするなどの大規模な修復を行った。天保十二(1841)年には、徳川斉昭によって藩校・弘道館が建築され、当時としては先進的な医学や天文学などが講じられた。その間、水戸徳川家二代の光圀により、「大日本史」が編纂された。
明治元(1868)年には大手橋周辺で倒幕派と佐幕派による激しい戦闘が行われた。その後の廃藩置県で廃城となった。昭和二十年の空襲で御三階櫓などの遺構が焼失した。