常陸統一の最終章を飾った

額田城

ぬかだじょう Nukada-Jo

別名:

茨城県那珂市(旧那珂郡那珂町)額田南郷

城の種別

平山城

築城時期

建長年間(1249-56)頃

築城者

額田義直

主要城主

佐竹系額田氏、小野崎系額田氏、江戸系額田氏

遺構

曲輪、泥田堀、空堀、土塁、櫓台ほか

主郭周囲の泥田堀<<2004年02月07日>>

歴史

鎌倉時代の建長年間(1249-56)頃、佐竹氏五代義重の次男、義直が分家して築城し額田氏を称したという。文和四(1355)年、六代額田義廉は足利尊氏に従い転戦し、東寺の合戦で討ち死にした。義廉の跡は一族の昌直が嗣いだ。

佐竹氏十二代・義盛には男児が無く、関東管領山内上杉憲定の次男・竜保丸を養子に迎え入れようとしたところ、山入城の山入与義、額田城の額田義亮、長倉城の長倉義景らがこれに反発、応永十四(1407)年十月、長倉城に立て籠もり抗戦した(山入一揆・山入の乱)。関東公方・足利満兼は岩松持国(または満範)に命じて長倉城を包囲、翌応永十五(1408)年四月十七日に開城降伏し、山入与義は本拠の山入城に蟄居した。竜保丸は応永十五(1408)年六月に太田城に入城、応永十七(1410)年には元服して義憲と名乗った。応永二十三(1416)年、上杉禅秀の乱が勃発すると、佐竹義憲は関東公方・足利持氏を援けたが、山入与義、長倉義景、額田義亮らが上杉禅秀を支持、義憲も一時は越後に逃れたが、碓氷峠や武蔵国瀬谷原での合戦で禅秀軍を破り南下、応永二十四(1417)年一月、上杉禅秀は自刃し、乱は収束した。しかしその後、山入与義、額田義亮らは室町幕府と結びついて持氏、佐竹宗家に反発、応永二十八(1421)年には額田城に立て籠もり、佐竹義憲はこれを攻撃、応永二十九(1422)年十一月、持氏は二階堂信濃守、宍戸備前守らを援軍として送り、佐竹義憲も鳥名木国義、烟田軒幹動員して総攻撃をかけたため、翌応永三十(1423)年三月三十一日に額田城は落城して額田義亮も討たれ、佐竹氏系額田氏は滅亡した。

その後義憲は佐竹家の宿老である山直城主・小野崎通胤の第三子通業の孫、通重を額田城主に任じたが、通重には子が無く、江戸通房の子・通栄を養子として跡を嗣がせた。

天文四(1535)年九月に石神城主・石神通長が佐竹義篤に叛乱を起こし、義篤は額田城主・額田(小野崎)盛通(篤通)にこれを鎮圧させた(石神兵乱)。また石神通長は天文十五(1546)年に額田氏との境界争いから再び挙兵、水戸城主の江戸忠通が調停に入ったが不調に終わり、このことが原因で佐竹氏と江戸氏が不和になったという。

天正十六年(1588)十二月、水戸城中で江戸氏の重臣による内紛「神生の乱」が勃発、神生右衛門大夫は額田城の額田照通を頼って落ち延びると、江戸重通は額田氏に神生氏の引渡しを要求、額田氏はこれを拒否、天正十七(1589)年、江戸氏は額田城に軍を派遣した。佐竹義重・義宣は江戸氏を支援し額田城を攻撃したが、額田氏は伊達政宗と誼を通じていて容易に落とせなかった。このときは伊達氏の援軍が無く、額田照通は江戸氏・佐竹氏と和睦、神生右衛門大夫は結城城へ逃れた。天正十八(1590)年の小田原の役には、額田照通も佐竹義宣の配下で参陣している。しかし天正十九(1591)年二月二十三日、佐竹義宣は額田氏に謀反の疑いがあるとして額田城を攻撃、義宣は石田三成を通じて豊臣秀吉に訴え額田城の明け渡しを要求したが照通がこれを拒否したため再び攻撃、額田氏は野上河原でこれを迎え撃ったが敗れ、額田城も落城し廃城となった。額田照通は伊達政宗を頼って逃れ、のちに水戸徳川家に仕えた。

額田城は個人的にはこれまで自分が訪れた茨城県内の城館としては、最高ランクのひとつに位置するお城で、その素晴らしさは例えば有名な小幡城や隣接する石神城などに決して引けをとっていない、と考えています。

城主の額田氏は大きく三つの系統に分かれます。まず最初にこの地を支配したのは佐竹系の額田氏で、これは応永三十(1423)年、山入一揆に加担した額田義亮が額田城で佐竹宗家と関東公方・足利持氏の軍勢に攻め滅ぼされて断絶します。次に現れるのがこの佐竹系額田氏の名跡を嗣ぐことになった小野崎氏系の額田氏、これは額田(小野崎)通重に子が無く、一代で終わっています。小野崎氏はもともとは常陸太田周辺に勢力を持った秀郷流藤原氏の有力豪族で、佐竹氏の家臣となってからは代々宿老を勤めてきた家柄。このころは常陸北部の山直城主でしたが、その一族が額田城に入ることになります。最後に現れるのがその小野崎系額田氏の養子となった江戸氏系の額田氏で、近接する石神城の石神小野崎氏とともに戦国末期まで存続します。

この最後の額田城主系統については、後世に地元の医師によって書かれた『石神後鑑記』という軍記物というか軍談物の本があり、これによれば石神小野崎氏と不和になって合戦に及び、石神小野崎氏を滅ぼしたことになっていますが、このような事実はなかったとする見方が定説です(石神城の頁参照)。ただ、天文年間には実際に石神氏との合戦(「石神兵乱」)もあったようなので、あながち全部を否定することもできないんじゃないか、とも思いますが。

額田城をめぐる最後の攻防は、佐竹氏にとっても常陸一国を平定するための最後の戦いでもありました。ことの発端は江戸氏家中でおきた家中分裂騒動「神生の乱」で、江戸重通に追われた神生右衛門大夫がこの額田城を頼って落ち延びてきたことから、額田城がこの渦中に巻き込まれていきます。佐竹義重はこのころ、江戸氏を支援しており、額田照通に対して神生氏の引渡しを要求するも、額田氏はこれを拒否しました。「窮鳥懐に入らば・・・・」という話のようですが、実はこれはそうでもなくて、額田氏自身が佐竹宗家や江戸氏本家からの独立を画策していたような形跡があります。なんてったって独自に佐竹氏の宿敵である伊達政宗と連絡を取り合っていたのですから。これらの行為が佐竹氏の逆鱗に触れてしまったのでしょう。

佐竹氏はその後、天正十八(1590)年小田原の役に参陣、宿敵の北条を滅ぼし、豊臣政権から常陸・下野など二十一万貫を安堵されています。このときは額田義亮も佐竹氏に従って参陣しています。そして十二月、佐竹氏は突如江戸氏の本拠、水戸城を電撃攻撃して奪取、返す刀で府中城に大掾氏を攻め滅ぼし、さらに翌年二月、大掾氏系の鹿島・行方地方の領主たちを惨殺、いよいよ常陸国内で目障りなのは額田城の額田照通だけになりました。

額田照通もよく奮戦したようですが、所詮は多勢に無勢、さしもの額田城も落城を憂き目に遭い、額田氏は辛くも脱出、かつて連絡を取り合っていた伊達政宗のもとに落ち延びていったといいます。その後暫くはどこで何をしていたのか不明なのですが、一説には佐竹氏の国替えの後、またある一説には家康五男の松平忠輝(伊達政宗の娘婿)のもとに仕えていたものの、忠輝改易がきっかけで松平家を退転し、旧領に戻ったようです。が、時代はすでに徳川の泰平の世の中、額田氏ももはや戦国の風雲の夢をかなぐり捨てて、水戸徳川家に仕えて水戸藩士となり、500石を与えられて額田久兵衛と名乗った、といいます。佐竹に対抗して独立まで志した男が500石の藩士か・・・。夢は小さく萎んでしまったでしょうが、500石というのはかなりの高禄だし、その後暫く子孫も繁栄していたらしいので、浪人になったり行方知れずになってしまった多くの小土豪と比べれば、良い再就職先を見つけて真っ当な余生を送った、と言えなくもありません。

その額田氏の夢の足跡、額田城はなんと東西1200m、南北800mにもおよぶ巨大城郭でした。現在明瞭な遺構を残しているのは主郭からV、W曲輪くらいまでで、その外側は断片的に遺構が残る程度ですが、その主要部だけでもかなり巨大です。図を見ていただくと、なんとなく主郭が小ぢんまりしているように見えるかもしれませんが、この主郭だけでも長軸は100mを超える大きさ、U曲輪に至っては東西200mもある、といえば、このお城のでかさがわかって頂けるでしょうか。

額田城平面図(左)。鳥瞰図(右) 

※クリックすると拡大します。

もともとこのお城の南側の谷津は有ヶ池という低湿地があり、この湿地帯に面する台地の端に築かれています。台地そのものはさほど高くもなく、台地端もやや傾斜が緩かったりするのですが、有ヶ池の湿地と大規模な工事で補っている、という感じです。曲輪間の比高差はほとんど感じられず、地形から言えば湿地に最も突出したW曲輪の方が主郭に相応しそうなものですが、あえて少し引っ込んだT曲輪を主郭としているのは、西側に大きな天然の谷戸、東にも天然の沢が切れ込んでいて、独立性が高いと判断したのでしょう。主郭は山林となっていますが、近年地元のボランティアなどの活動で下草も綺麗に刈られ、小奇麗な山林の中に驚くほどの遺構を見ることができます。遺構の見所はなんといっても主郭周囲の堀でしょう。これは深さは8m、幅は15mほどもある巨大なもので、その迫力に圧倒されます。特筆されるのはこの主郭の堀をはじめとして、城内いたるところに湧水があり、堀底が泥田堀化しているところです。一見水のなさそうな場所でも足を踏み入れるとズブリと底なし地獄が待ち受けています。まさに現役の泥田堀!この水源があることも選地に関わっているでしょう。湧水はこのほかにもあちこちにあり、至るところで堀や谷戸の中が泥湿地になっています。

広大な外郭については宅地・市街地・農地などよって遺構はかなり断片的になっていますが、西側の引接寺墓地脇の空堀や額田小学校北側の宅地に沿った空堀などは明瞭です。このほかにも民家の庭先のボサ藪や帯状に延びる畑などが各所に点在しており、巨大な外郭線の存在に驚かされます。

宅地が立て込んでいる部分も多いので完全踏破は難しいお城ではありますが、主要部だけでも度肝を抜いてくれることは間違いないでしょう。オススメです。

[2005.06.04]

額田城の考察

 

旧有ヶ池の低湿地から見る額田城。左手のこんもり突き出た部分がW曲輪で、右手のちょっと高い部分が主郭になります。 まずはなんといっても主郭の周りの堀1に圧倒されます。堀底は湧水で泥田堀と化しており、とても歩けません。
見晴らせないほど広い主郭。北側には低い土塁が連なっています。 主郭の西側は堀に向かって櫓台のように突き出しており、大きな横矢が見られます。
主郭から見下ろす南側の堀。向こう側の捨曲輪では、額田照通が伊達政宗に援軍を求める烽火が・・・。 南側の堀底。よほど足許に気をつけていないと、底なしの堀(ちょっと大げさ)に引き込まれます。
南側、有ヶ池に面した捨曲輪。台地先端が緩やかに下がっているので、堀で切り離してしまったものでしょう。削平はされていません。 捨曲輪の土塁。主郭から見ると、堀の外側に土塁が築かれていることになります。これも地形的制約に対処したものでしょう。
堀1の南西端には谷津に向かって水の捌け口がありますが、小さな田んぼのような区画があります。ここに水門を設けて堀の水位を調整したものではないかと想像。 主郭の西の天然の谷津。湧水が音を立てて流れています。乾いているように見える場所も地獄の泥沼、ソレガシは痛い目に遭いました。。。
主郭南の捨曲輪から見る有ヶ池。池は田んぼに変わりましたが、今でもお城の直下には帯状の湿地が名残を残しています。 尋常ではなく広いU曲輪。ほとんどが畑になっています。所々に凹凸があるのは土塁を崩した土を畑に使った名残でしょう。
U曲輪の土塁。曲輪の内側は農地のために削られている場所が多く、痛々しい断面を覗かせています。 U曲輪とV曲輪を繋ぐ土橋。土橋の南東には高い櫓台があり、土橋の通行を監視しています。
U曲輪から東の「柄目」(搦手)へ向かう土橋。このあたりも天然の谷津になっていて、そのままU、V曲輪を囲む堀3に繋がります。 堀2、堀3もところどころ泥田堀化しています。しかしこのあたりは不法投棄のゴミが多いのが惜しまれるところです。
U曲輪に輪をかけて広大なV曲輪。改変されていますが、土塁や堀の痕跡は十分辿れます。 V曲輪西端の民家敷地内の土塁。こうした土塁があちこちに残存します。このあたりに小さな城址の標柱もあります。
V曲輪から外郭へと繋がる土橋の跡。現在は道路になっています。 V曲輪とW曲輪を隔てる堀4。堀底に建物が建っていることからも、その幅の広さがわかるでしょう。W曲輪は谷津を隔てて主郭と対峙する、防衛の要ともなる場所です。
点在する外郭遺構の一つ、阿弥陀寺墓地の土塁。ここはちょうど堀のコーナーにあたり、櫓台があったように見えます。 阿弥陀寺山門附近の土塁。ここの土塁と堀は断続的に台地の端まで続いています。
さらに外側、引接寺墓地脇の土塁と堀。ここも堀のコーナー部にあたります。 額田小学校東北側の道路沿いに残る堀と土塁。まったく、なんという広大なお城なんだろう・・・。

 

 

交通アクセス

常磐自動車道「那珂」IC車15分。

JR水郡線「那珂」駅徒歩20分、常磐線「東海」駅徒歩60分。

周辺地情報

近隣では石神城が抜群。南酒出城や瓜連城などもなかなかです。

関連サイト

 

 
参考文献

「常陸国石神城とその時代」(東海村歴史資料館検討委員会)

「茨城の古城」(関谷亀寿/筑波書林)

「日本城郭大系」(新人物往来社)

参考サイト

余湖くんのホームページ

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