宗家の危機に手を差し伸べた

大山城

おおやまじょう Ooyama-Jo

別名:

茨城県東茨城郡城里町阿波山

城の種別

平山城

築城時期

永仁年間(1293-98)

築城者

鈴木高郷

主要城主

鈴木氏、大山氏

遺構

曲輪、土塁、横堀

城郭風建造物が並ぶ大山城<<2005年12月10日>>

歴史

古くは長承元(1132)年に大掾氏の家臣・鈴木五郎高郷が築いたというが。永仁年間(1293-98)に鈴木高範の代に高久に移り一時廃城となったという。

佐竹氏十代・義篤が康安二(1362)年正月七日の譲状で五男・福王丸に大山の地を分知し、福王丸は元服後大山義孝と名乗り大山城を築城、以後代々大山氏の居城となった。

正長元(1428)年、上杉禅秀の乱で所領を没収された依上宗義が依上城で挙兵すると、大山城主・大山義道は足利持氏、佐竹義憲の命を受けてその鎮圧にあたった。佐竹氏十四代・義俊は弟の実定と家督を争い、義憲が実定を支持したことから享徳元(1452)年に太田城を追われ、大山義長(常金)を頼って属城である孫根城に匿われた。また 佐竹氏十六代・義舜は延徳二(1490)年、山入義藤・氏義によって太田城を追われ、外叔父の大山義成(因幡入道常金)を頼って大山城に逃れ、のちに孫根城に隠れ住んだ。山入義藤は太田城を占拠したが二年後に病没、山入氏義が引き続き太田城に在城した。このころ陸奥岩城氏の仲介で義舜と氏義の間で和議が成立したが、山入氏義は和議の条件である太田城の明け渡しを拒否、明応九(1500)年、大山城孫根城を攻撃、義舜は孫根城を脱出してはじめ東金砂山東清寺に逃れ、その後さらに金砂山城に立て籠もった。

天正四(1576)年ごろには佐竹義重の実弟である小場城主・小場義宗が大山城主・大山義則氏との領地紛争から頓化原で戦い、佐竹義重の仲介で和睦したという(頓化原合戦)が、年月や事実関係は不明な点が多い。文禄四(1595)年、佐竹義宣により大山義則は行方城に移され、大山城は廃城となった。

大山城の成立は小場城石塚城などとほぼ同じ時期で、南北朝の騒乱が一段落した後に佐竹義篤がその子たちを集中的に那珂川流域に配置した、その一つでした。この大山氏、佐竹氏当主の危難を二度も救った、といいます。

最初は享徳元(1452)年のこと、佐竹氏では山内上杉氏から佐竹氏を嗣いだ義憲の子、義俊と弟の実定が家督を争う事態となります。この実定という人物は一時期山内上杉憲実の養子に入っていた人物ですが、義憲はこの実定を支持し、これに山入一揆衆が介入したことで義俊は形勢が不利となり、大山氏を頼って大山城に逃れ、その後孫根城に匿われたというもの。この義俊は十四年の年月を経て、太田城に復帰したといいます。

ところがこれと同じような話がもう一回起こります。これは延徳二(1490)年のことで、山入義藤・氏義に太田城を追われた佐竹義舜がやはり大山氏を頼って大山城孫根城に匿われ、やがて足掛け十五年の月日を経て太田城に復帰した、というもの。大山氏は佐竹氏の当主の危難を二度、救ったことになります。しかし冷静に考えると、この二つの話はあまりにも状況がよく似ており、不自然に思わないでもありません。それにどちらの話にも大山因幡入道常金という人物が出てきます。この人物と佐竹氏当主の関係も「叔父」「外祖父」など諸説あり、多少話が混線している節があります。この頃の佐竹氏当主である義俊、その子義治の事蹟についても少々不明な点が多く、このあたりの話は今後検討の余地があるように思います。

戦国も末期近くの天正年間にも不可解な事件が起こっています。時は天正四(1576)年ごろと伝えられますが諸説ありはっきりわかりません。事件の当事者は大山城主・大山義則と小場城主・小場義宗、そして石塚城主・石塚義国の三名とされますが、これも資料によって異同がありはっきりしません。この頃大山氏と小場氏の間に何らかのモメ事があり、これがもとで両者は頓化原というところで合戦に及び、最終的には佐竹義重の斡旋で和睦した、というのが事件のあらまし。事の発端は那珂川の用水争いとも、粟野という土地が双方の領地が入り組んでいざこざが絶えなかったこととも、はたまた石塚義国の息女、瑠璃姫をめぐる争いであったともいわれます。これらは後世の書「頓化原合戦記」などに記されているものといい、ソレガシなどは全くのつくり話と思っていましたが、天正四(1576)年三月二十五日付けの小場義宗から「大山殿御宿所」宛ての起請文などもあり、何らかの異常な事態があったことはあながち否定もできないようです。小場城主の小場義宗は実は佐竹義重の実弟であり、下手をすると大山氏の行為は宗家に対する叛乱とも受け取られかねない行為だったと思うのですが、その後はなんのお咎めもなかったようです。そもそもこの時代の佐竹氏は関東有数の戦国大名に成長しており、当然の如く家臣団に対しても厳しい統制が布かれていた筈なのですが、一族家臣間でこうした気ままにも見える合戦が行われるなど、戦国末期の佐竹氏の家臣団統制はどうなっていたんだろう?と疑問を抱かずにはおれません。

その大山城は旧桂村の役場に近い独立丘陵にありましたが、規模的にはごく小さなものであったようです。現在は近世城郭風の建物が建つ、その名もズバリ「ホテル大山城」の敷地となっており、丘の上の遺構はほとんど見られません。しかし山腹には佐竹氏系城館の特徴でもある横堀がしっかり見られます。国道123号からもよく見えるので場所はすぐわかるでしょう。ご興味のある方は是非、宿泊もどうぞ(笑)。

[2006.10.28]

那珂川の低地に突き出た独立丘が大山城。この附近で独立丘のお城というのはちょっと珍しいです。 東から見る大山城。丘の上はズバリ、「ホテル大山城」になっており、模擬天守風の建物などが並んでいて、佐竹氏系の城郭にしては珍しく賑やかな風景です。
「ホテル大山城」のあやしい(失礼!)天守風建物。結構本格的です。いつか泊まってみたいです。 ホテルの脇には愛宕社があり、土塁の一部などが残っています。なおホテルへの登り坂手前に解説板があり、少々ヤブにはなっていますが遊歩道もあります。
遺構は無いと思いきや、斜面にはしっかりと横堀があるではないか。これはちょっとうれしい誤算でした。 大山城より小場城方面を見る。ホントに戦ったんでしょうか。

 

 

交通アクセス

常磐自動車道「那珂」IC車20分。

JR水郡線「常陸大宮」駅よりバスまたはタクシー。

周辺地情報

関連性の深い小場城石塚城孫根城などをセットで。

関連サイト

 

 
参考文献

「大宮町史」

「桂村史」

「常北町史」

「源姓小場氏の系譜」(小場源一郎)

「茨城の古城」(関谷亀寿/筑波書林)

「日本城郭大系」(新人物往来社)

「図説 茨城の城郭」(茨城城郭研究会/国書刊行会)

参考サイト

余湖くんのホームページ

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