大山城の成立は小場城、石塚城などとほぼ同じ時期で、南北朝の騒乱が一段落した後に佐竹義篤がその子たちを集中的に那珂川流域に配置した、その一つでした。この大山氏、佐竹氏当主の危難を二度も救った、といいます。
最初は享徳元(1452)年のこと、佐竹氏では山内上杉氏から佐竹氏を嗣いだ義憲の子、義俊と弟の実定が家督を争う事態となります。この実定という人物は一時期山内上杉憲実の養子に入っていた人物ですが、義憲はこの実定を支持し、これに山入一揆衆が介入したことで義俊は形勢が不利となり、大山氏を頼って大山城に逃れ、その後孫根城に匿われたというもの。この義俊は十四年の年月を経て、太田城に復帰したといいます。
ところがこれと同じような話がもう一回起こります。これは延徳二(1490)年のことで、山入義藤・氏義に太田城を追われた佐竹義舜がやはり大山氏を頼って大山城、孫根城に匿われ、やがて足掛け十五年の月日を経て太田城に復帰した、というもの。大山氏は佐竹氏の当主の危難を二度、救ったことになります。しかし冷静に考えると、この二つの話はあまりにも状況がよく似ており、不自然に思わないでもありません。それにどちらの話にも大山因幡入道常金という人物が出てきます。この人物と佐竹氏当主の関係も「叔父」「外祖父」など諸説あり、多少話が混線している節があります。この頃の佐竹氏当主である義俊、その子義治の事蹟についても少々不明な点が多く、このあたりの話は今後検討の余地があるように思います。
戦国も末期近くの天正年間にも不可解な事件が起こっています。時は天正四(1576)年ごろと伝えられますが諸説ありはっきりわかりません。事件の当事者は大山城主・大山義則と小場城主・小場義宗、そして石塚城主・石塚義国の三名とされますが、これも資料によって異同がありはっきりしません。この頃大山氏と小場氏の間に何らかのモメ事があり、これがもとで両者は頓化原というところで合戦に及び、最終的には佐竹義重の斡旋で和睦した、というのが事件のあらまし。事の発端は那珂川の用水争いとも、粟野という土地が双方の領地が入り組んでいざこざが絶えなかったこととも、はたまた石塚義国の息女、瑠璃姫をめぐる争いであったともいわれます。これらは後世の書「頓化原合戦記」などに記されているものといい、ソレガシなどは全くのつくり話と思っていましたが、天正四(1576)年三月二十五日付けの小場義宗から「大山殿御宿所」宛ての起請文などもあり、何らかの異常な事態があったことはあながち否定もできないようです。小場城主の小場義宗は実は佐竹義重の実弟であり、下手をすると大山氏の行為は宗家に対する叛乱とも受け取られかねない行為だったと思うのですが、その後はなんのお咎めもなかったようです。そもそもこの時代の佐竹氏は関東有数の戦国大名に成長しており、当然の如く家臣団に対しても厳しい統制が布かれていた筈なのですが、一族家臣間でこうした気ままにも見える合戦が行われるなど、戦国末期の佐竹氏の家臣団統制はどうなっていたんだろう?と疑問を抱かずにはおれません。
その大山城は旧桂村の役場に近い独立丘陵にありましたが、規模的にはごく小さなものであったようです。現在は近世城郭風の建物が建つ、その名もズバリ「ホテル大山城」の敷地となっており、丘の上の遺構はほとんど見られません。しかし山腹には佐竹氏系城館の特徴でもある横堀がしっかり見られます。国道123号からもよく見えるので場所はすぐわかるでしょう。ご興味のある方は是非、宿泊もどうぞ(笑)。
[2006.10.28]