佐竹を三度救った開運の山

金砂山城

かなさざん(かなさやま)じょう Kanasazan-Jo

別名:西金砂山城

茨城県常陸太田市上宮河内町

(西金砂神社)

城の種別

平山城

築城時期

平安時代末期頃

築城者

佐竹秀義(?)

主要城主

佐竹氏

遺構

不明

天険の山、西金砂山遠景<<2005年02月13日>>

歴史

 

築城時期は定かではないが、大同元(806)年創建と伝えられる西金砂神社があり、佐竹氏が尊信すると同時に有事の際の要害として取り立てた。

治承四(1180)年八月、伊豆蛭ヶ小島に配流の身であった源頼朝が挙兵し、石橋山の合戦で敗れた後安房に渡り、下総国府において千葉常胤、上総広常らが麾下に参陣したが、佐竹氏は当主の隆義が平家の家人として上洛していたこともあり太田城の留守を預かる佐竹秀義、義政(忠義とも)兄弟は参陣しなかった。頼朝は富士川の合戦で平家軍を破った後に追撃をしようとしたが、上総広常らの言に従い一旦撤退し、同年十月、改めて佐竹氏討伐のために常陸国府に布陣した。十一月四日、頼朝は軍議を行い、上総広常が太田城に使者を遣わせて佐竹義政を常陸国府に誘引し、その途上で大矢橋においてこれを暗殺した。佐竹秀義は太田城は防戦に不適として金砂山城に立て籠った。頼朝軍は数千の兵で金砂山城を攻めたが、要害堅固でなかなか陥落しなかった。翌十一月五日、頼朝は上総広常の策により秀義の叔父・佐竹蔵人義季を内応させ、諸沢口の間道から攻城軍を案内させた。不意を突かれた金砂山城は陥落、秀義は城を脱出し後に奥州花園山に隠れ住んだという。頼朝軍は十一月七日に金砂山城の城壁を焼き払い、八日には佐竹氏の領土を没収して部下の論功行賞に充てた。佐竹秀義は文治五(1198)年に頼朝に降伏して御家人として認められ、常陸北部の旧領の領有を認められた。

元弘四(1334)年、鎌倉幕府が滅亡し後醍醐天皇らによる公武一統の政権が樹立されたが、建武二(1335)年七月の中先代の乱をきっかけに後醍醐天皇(南朝方))と足利尊氏(北朝方)が対立、佐竹貞義は一貫して足利尊氏を支え、十一月には常陸守護職に任じられた。建武二(1335)年十一月下旬、後醍醐天皇方の北畠顕家は陸奥多賀城を出陣し上洛の途についた。佐竹貞義はこれを甕(みか)の原で迎撃、緒戦は優勢であったが、那賀城主の那珂通辰に背後を襲われて敗走し、金砂山城に立て籠もった。建武三(1336)年一月ごろには南朝方の楠木正家が瓜連城に入城、二月六日には佐竹貞義が瓜連城を攻めたが攻略できず、子の義冬が戦死し貞義は金砂山城に撤退、楠木正家や那珂通辰らは逆に金砂山城を攻撃した。四月には北畠顕家が再び東国に下向し、下野宇都宮城に入城して佐竹氏討伐を呼びかけ、小田城主・小田治久や水戸城主・大掾高幹らの他、佐竹氏一族の佐竹幸乙丸らが瓜連城に入城した。五月二十五日、足利尊氏が摂津湊川で楠木正成を破り、後醍醐天皇が京都から比叡山に動座するなど北朝が優勢に立つと、尊氏に従っていた貞義の子、義篤(敦)、義春らが帰国し、義篤は武生城に立て籠もった。武生城には陸奥好嶋荘の伊賀盛光らが来援、八月二十二日は瓜連城を再度攻撃するなど、一進一退の攻防が続いた。十二月二日、那珂通辰が浅川沿いに北上して金砂山城を攻撃するという情報を得た佐竹義篤は武生城を出て那珂勢を避けて山田川沿いに南下し瓜連城を背後から攻撃、十二月十一日に瓜連城は陥落した。退路を断たれた那珂通辰は太田の増井勝楽寺で一族とともに自刃した(斬られたともいう)。

佐竹氏十六代・義舜は延徳二(1490)年、山入義藤・氏義によって太田城を追われ、外叔父の大山義成(因幡入道常金)を頼って大山城に逃れ、のちに孫根城に隠れ住んだ。山入義藤は太田城を占拠したが二年後に病没、山入氏義が引き続き太田城に在城した。このころ陸奥岩城氏の仲介で義舜と氏義の間で和議が成立したが、山入氏義は和議の条件である太田城の明け渡しを拒否、明応九(1500)年、孫根城の義舜を襲撃した。義舜は孫根城を脱出してはじめ東金砂山東清寺に逃れ、その後さらに金砂山城に立て籠もった。山入氏義は金砂山城を攻め、義舜は苦境に陥ったが、天候が急変した際に討って出て形勢は逆転、氏義は敗北し太田城に退却した。義舜はその後大門城に移り太田城回復を狙い、永正元(1504)年に太田城を奪回した。

その後の廃城時期等は不明。

旧金砂郷町の深い山の中に聳える金砂山、ここに建つ西金砂神社は佐竹氏が三度に渡って立て籠もった、天険の山城・金砂山城(西金砂城)の跡でもあります。

ここで繰り広げられた最初の激戦は治承三(1180)年、源頼朝による佐竹征伐のときでした。このとき当主の佐竹隆義は平家の家人として京都に出仕しており、太田城には子の秀義、義政兄弟が留守を預かっていました。源氏の挙兵に対し、同じ源氏でありながら佐竹氏は当主が不在であったことや平家の家人であったこともあり、軍勢の召集に応じませんでした。かの「富士川の合戦」で戦わずして平家を敗走させた頼朝が一気に京都まで攻め上ろうとしたところ、上総広常や千葉常胤らが「まず東国を固めるべし、そのためにはまず佐竹を討つべし」と進言したのは有名です。留守を預かる秀義はこれに抗戦することを主張、一方兄弟の義政は源氏に和を請うこととして府中の頼朝の陣に参陣する途上、上総広常により大矢橋で斬殺されてしまいます。覚悟を決めた秀義は太田城では迎撃できないと考え、この金砂山城に立て籠もります。当初優勢と見られた頼朝軍ですが、この天険の山の前に攻めあぐねます。ここでまたまた上総広常、佐竹一族で秀義の叔父にあたる義季を利で釣って内応させ、搦手から攻め寄せます。この身内の裏切りにより金砂山城は落城、辛くも脱出した秀義は以後暫く奥州花園山で岩穴の中で猿に餌を分けて貰いながら過ごした、などと伝えられています。その後、頼朝の奥州征伐に際して名簿を差し出して御家人の地位を取り戻します。このときの金砂山合戦は「負け」には違いないでしょうが、鎌倉のオールスター大軍勢を迎え撃って佐竹氏の命脈を保ったという意味においては、やはり神の救いがあったと言えるでしょう。

この合戦では上総広常が陰に陽に活躍するのですが、これには裏があり、2006年8月19日の茨城県立歴史館での「歴史館シンポジウム 中世東国に置ける内海世界」という催しの中で、高橋修氏(茨城大学人文学部教授)の講演「常陸・下総の武士勢力と交流 -金砂合戦の評価をめぐって」のなかで、相馬御厨をめぐる上総・千葉らの桓武平氏一族と佐竹氏の間に競合関係があり、上総広常が佐竹討伐を進言したのもこれが遠因ではないか、とも考えられているということ。なるほど、さすが上総広常、腹黒いなあ。歴史の新たな視点をひとつ学びました。

二度目の合戦は南北朝の時代、これは詳しくは武生城の頁をご覧くだされ。

三度目は「山入一揆」の最終盤に際して、佐竹義舜が立て籠もった合戦です。このとき義舜は山入藤義、氏義父子に太田城を奪われ、孫根城で逼塞するもここも破られ、東金砂東清寺(東金砂神社)に立て籠もるもこれも危機を迎え、義舜は最後の一戦の場をこの金砂山城に求めます。このとき義舜は死を覚悟しており、何度も自刃を試みるも、「ここまで頑張ってきた家臣をどう考えているのか」と諫言され、歯を食いしばって思いとどまります。義舜の意識の中には、過去に二度の加護を与えてくれたこの城に立て籠もれば、三たび運が開けるかもしれない、という考えもあったかもしれません。しかし押し寄せる山入軍の前に義舜は苦戦、そのときまたまた天の援けか、一天にわかに掻き曇り、あたり一帯が木々や岩をも飛ばすほどの暴風雨に巻きこまれます。これでひるんだ寄せ手を見て、義舜は乾坤一擲の勝負に出て、見事山入軍を撃退します。義舜が太田城を回復したのはこの4年後のことでした。

佐竹氏が事あるごとにこの金砂山城武生城などに立て籠もったのは、もちろんそこが天険の山で攻めるに難く守るに易いということもあるのでしょうが、伝統的に山岳修験勢力などの援助があったのではないか、とも思えます。一回目の金砂合戦のときなども、落城に際して佐竹秀義は山伏に案内されて花園山金剛王院満願寺へ匿われた、ということなのであながち間違ってもいないでしょう。花園山で食料を分けてくれた「猿」というのもどうやらこうした修験者のことでもあるらしいです。とにかく三度までも滅亡の淵に立たされた佐竹氏をこの「神の山」が救ったことは間違いないところでしょう。

金砂山城はイコール金砂神社であり、参道もきちんと整備されているので、よほど参道を外れてヘンテコな場所に行かない限りは危険な場所はあまりありません。参道の石段は結構キツイです。上まで登るとさらにその上の山頂に本殿があり、もう一汗かくことになります。山頂から見ると足元はまさに断崖絶壁、「攻めるに難く守るに易い」とはよく言うけれど、守る方もこりゃ大変だわなあ、昔の人は何を考えてこんなところで鎧を着て戦ったのか、現代人のソレガシには理解を超えるところではあります。「城」といっても基本的には天険の山そのものであり、ざっと歩いた限りではあまり城郭遺構らしきものは見当たりませんでした。実際の生活空間としての城域は山頂付近というよりもむしろ、現在看板や社務所、休憩所などがが建っている平場附近であったのではないかとされています。

[2006.10.27]

曲がりくねった道を延々走ると、目の前に「いかにも」という感じの岩山が見えてきます。写真ではわかりにくいですが、到るところで絶壁の岩盤が剥き出し、まさに天険の山です。 意外にも社務所の前あたりは比較的広い平場になっており、このあたりが実際的な城の中核部と見られています。
「金砂城址」の看板が立つ背後あたりの一段高い場所が館だったとされていますが、ソレガシはうっかり写真を撮り忘れました。ふ、不覚・・・! 拝殿までの長い石段。昔のツワモノどもはこんな石段すらない絶壁を武装したままよじ登ったんだから、この程度の石段でへこたれてちゃいけません。
・・・といいつつ拝殿のある平場まで登ってくると、それなりに疲れるなあ・・・。ここは山頂ではなく、その背後にはさらにさらに・・・。 まだ上があったか!まあもう少しなので頑張りましょう。
ゴツゴツした岩の上に建つ本殿。まあ大同年間というのはアレですが、古くから山岳信仰の山であったのでしょう。 尾根の上は狭く、特に削平もされていなくて岩肌があちこちに覗いています。城というよりも天険の山そのままだということがよくわかります。
さすがに周囲は断崖絶壁。城兵はここから大木やら岩石やらを放り投げて攻城軍を寄せ付けなかったという。しかし守る方も命がけだね・・・。 見渡す限りの山ばかり。この風景の中に頼朝や上総広常、熊谷直実、那珂通辰などという人たちが気勢を揚げている様子はどうも現実感が湧かないです。

 

 

交通アクセス

常磐自動車道「日立南太田」IC車30分。

公共交通は不詳。

周辺地情報

同じ山塊に武生城がありますが遺構の様子は似たり寄ったり、危ない場所なのであまりオススメもできません。山入城久米城、高垣城あたりが見やすいところでしょう。

関連サイト

 

 
参考文献

「常陸太田市史」

「水府村史」

「桂村史」

「金砂戦国史」(大内政之介/筑波書林)

「常陸・秋田 佐竹一族」(七宮洋三/新人物往来社)

「常陸国石神城とその時代」(東海村歴史資料館検討委員会)

「茨城の古城」(関谷亀寿/筑波書林)

「日本城郭大系」(新人物往来社)

「図説 茨城の城郭」(茨城城郭研究会/国書刊行会)

参考サイト

余湖くんのホームページ 北緯36度付近の中世城郭

埋もれた古城 表紙 上へ