旧金砂郷町の深い山の中に聳える金砂山、ここに建つ西金砂神社は佐竹氏が三度に渡って立て籠もった、天険の山城・金砂山城(西金砂城)の跡でもあります。
ここで繰り広げられた最初の激戦は治承三(1180)年、源頼朝による佐竹征伐のときでした。このとき当主の佐竹隆義は平家の家人として京都に出仕しており、太田城には子の秀義、義政兄弟が留守を預かっていました。源氏の挙兵に対し、同じ源氏でありながら佐竹氏は当主が不在であったことや平家の家人であったこともあり、軍勢の召集に応じませんでした。かの「富士川の合戦」で戦わずして平家を敗走させた頼朝が一気に京都まで攻め上ろうとしたところ、上総広常や千葉常胤らが「まず東国を固めるべし、そのためにはまず佐竹を討つべし」と進言したのは有名です。留守を預かる秀義はこれに抗戦することを主張、一方兄弟の義政は源氏に和を請うこととして府中の頼朝の陣に参陣する途上、上総広常により大矢橋で斬殺されてしまいます。覚悟を決めた秀義は太田城では迎撃できないと考え、この金砂山城に立て籠もります。当初優勢と見られた頼朝軍ですが、この天険の山の前に攻めあぐねます。ここでまたまた上総広常、佐竹一族で秀義の叔父にあたる義季を利で釣って内応させ、搦手から攻め寄せます。この身内の裏切りにより金砂山城は落城、辛くも脱出した秀義は以後暫く奥州花園山で岩穴の中で猿に餌を分けて貰いながら過ごした、などと伝えられています。その後、頼朝の奥州征伐に際して名簿を差し出して御家人の地位を取り戻します。このときの金砂山合戦は「負け」には違いないでしょうが、鎌倉のオールスター大軍勢を迎え撃って佐竹氏の命脈を保ったという意味においては、やはり神の救いがあったと言えるでしょう。
この合戦では上総広常が陰に陽に活躍するのですが、これには裏があり、2006年8月19日の茨城県立歴史館での「歴史館シンポジウム 中世東国に置ける内海世界」という催しの中で、高橋修氏(茨城大学人文学部教授)の講演「常陸・下総の武士勢力と交流 -金砂合戦の評価をめぐって」のなかで、相馬御厨をめぐる上総・千葉らの桓武平氏一族と佐竹氏の間に競合関係があり、上総広常が佐竹討伐を進言したのもこれが遠因ではないか、とも考えられているということ。なるほど、さすが上総広常、腹黒いなあ。歴史の新たな視点をひとつ学びました。
二度目の合戦は南北朝の時代、これは詳しくは武生城の頁をご覧くだされ。
三度目は「山入一揆」の最終盤に際して、佐竹義舜が立て籠もった合戦です。このとき義舜は山入藤義、氏義父子に太田城を奪われ、孫根城で逼塞するもここも破られ、東金砂東清寺(東金砂神社)に立て籠もるもこれも危機を迎え、義舜は最後の一戦の場をこの金砂山城に求めます。このとき義舜は死を覚悟しており、何度も自刃を試みるも、「ここまで頑張ってきた家臣をどう考えているのか」と諫言され、歯を食いしばって思いとどまります。義舜の意識の中には、過去に二度の加護を与えてくれたこの城に立て籠もれば、三たび運が開けるかもしれない、という考えもあったかもしれません。しかし押し寄せる山入軍の前に義舜は苦戦、そのときまたまた天の援けか、一天にわかに掻き曇り、あたり一帯が木々や岩をも飛ばすほどの暴風雨に巻きこまれます。これでひるんだ寄せ手を見て、義舜は乾坤一擲の勝負に出て、見事山入軍を撃退します。義舜が太田城を回復したのはこの4年後のことでした。
佐竹氏が事あるごとにこの金砂山城や武生城などに立て籠もったのは、もちろんそこが天険の山で攻めるに難く守るに易いということもあるのでしょうが、伝統的に山岳修験勢力などの援助があったのではないか、とも思えます。一回目の金砂合戦のときなども、落城に際して佐竹秀義は山伏に案内されて花園山金剛王院満願寺へ匿われた、ということなのであながち間違ってもいないでしょう。花園山で食料を分けてくれた「猿」というのもどうやらこうした修験者のことでもあるらしいです。とにかく三度までも滅亡の淵に立たされた佐竹氏をこの「神の山」が救ったことは間違いないところでしょう。
金砂山城はイコール金砂神社であり、参道もきちんと整備されているので、よほど参道を外れてヘンテコな場所に行かない限りは危険な場所はあまりありません。参道の石段は結構キツイです。上まで登るとさらにその上の山頂に本殿があり、もう一汗かくことになります。山頂から見ると足元はまさに断崖絶壁、「攻めるに難く守るに易い」とはよく言うけれど、守る方もこりゃ大変だわなあ、昔の人は何を考えてこんなところで鎧を着て戦ったのか、現代人のソレガシには理解を超えるところではあります。「城」といっても基本的には天険の山そのものであり、ざっと歩いた限りではあまり城郭遺構らしきものは見当たりませんでした。実際の生活空間としての城域は山頂付近というよりもむしろ、現在看板や社務所、休憩所などがが建っている平場附近であったのではないかとされています。
[2006.10.27]