古河城の歴史

その起源は鎌倉期にこの地を支配した下河辺氏の城館といわれる。南北朝期や小山義政の乱に当たっては、「古河御陣」として史料に現れる。永徳二(1382)年、下河辺朝行は小山小四郎に追われ、古河城には野田右馬助が入った。永享十二(1440)年に結城合戦が勃発すると、野田右馬助は大挙して押し寄せる上杉勢を恐れて逃亡、嘉吉元(1441)年には矢部大炊助が城主となった。しかし結城城の落城の報により、城兵は闇夜に紛れて退去したという。

享禄三(1454)年十二月、鎌倉公方・足利成氏は上杉憲忠を殺害、「享徳の大乱」が勃発した。成氏勢は武蔵府中の高安寺を本陣に上杉勢と対峙、武蔵分倍河原合戦で勝利し上杉勢を常陸小栗城に追い落としたが、幕府の命を受けた駿河守護の今川範忠が鎌倉を制圧したため、成氏は古河に本拠を移し、これ以降「古河公方」と呼ばれた。成氏が最初に移り住んだのは鴻巣の御所で、のちに古河城を改修して移った(古河公方館の項参照)。

成氏は結城・小山・千葉などの諸将に支持されて上杉勢および幕府が派遣した堀越公方・足利政知と対抗、文明三(1471)年三月には伊豆堀越へ討ち入るが大敗、成氏は古河城に籠城したが、長尾景信に攻め陥とされて千葉氏を頼り下総本佐倉城に避難、翌文明四(1472)年二月に結城城主の結城氏広、烏山城主の那須資持らによって古河城を奪還した。

文明八(1476)年に長尾景春の乱が勃発すると、山内・扇谷両上杉氏は古河公方と和睦を計ったが、文明十二(1480)年に足利成氏は和議を破棄し長尾景春に味方についた。並行して幕府管領の細川政元には幕府との和議斡旋を依頼している。この年に長尾景春の乱は鎮圧され、文明十四(1482)年十一月に「都鄙合体」が成立、古河公方と堀越公方・上杉氏の対立は終焉した。

成氏の死後は政氏が古河公方を嗣いだが、この頃には山内・扇谷両上杉氏は抗争を続け、その間隙を縫って小田原城を奪取した伊勢新九郎(北条早雲)が勢力を伸ばした。政氏の子、高基は北条と組んだために政氏と対立、永正三(1506)年、高基は古河城を追われ、簗田高助を頼って関宿城に籠城した。一旦は和睦するものの、永正七(1510)年に山内上杉顕定が越後守護代の長尾為景と争い敗死すると山内上杉氏の跡目を巡り内紛が勃発、政氏は実弟の顕実を擁立するが高基は憲房を擁立し対立、永正九(1512)年に高基は政氏を下野小山城に追い、実力で古河公方を嗣いだ。政氏は扇谷上杉朝良、高基の弟・義明と組んで対抗するが、永正十六(1519)年に朝良の死によって政治力を失い武蔵久喜甘棠院(足利政氏館)に隠居した。政氏を失った義明は房総の諸将を後見に下総小弓城を拠点に「小弓公方」として高基と争った。高基は北条氏に接近、嫡子晴氏に、北条氏綱の娘を嫁がせる婚約を交わした。

しかし天文四(1535)年の高基の死後、晴氏は北条氏の公方権力への介入を不快とし、関宿城主の簗田高助の娘を正室として娶り、子の藤氏を嫡子とした。また晴氏は小弓公方の足利義明と争い、天文七(1538)年に晴氏方の北条氏綱・氏康父子と小弓公方・足利義明が下総国府台で合戦、義明は討ち死にし、公方としての地位を確立した(第一次国府台合戦)。これによって北条の圧力に屈して翌天文八(1539)年、晴氏は氏綱の娘(芳春院殿)を娶らざるを得なくなった。天文十五(1546)年の河越夜戦では晴氏は反北条の山内・扇谷両上杉氏の勢力に合流するが大敗、北条氏は晴氏を難詰し、古河公方家および関宿城の簗田氏に圧力を高めた。天文二十一(1551)年、晴氏は北条氏の圧力に屈し、藤氏を廃嫡し、北条氏綱の娘との間に生まれた義氏に家督を相続するが、これを不快とした晴氏は天文二十三(1554)年に古河城で挙兵した。しかし古河城は北条の派遣した松田尾張守政秀により鎮圧され、晴氏は相模波多野に幽閉、公方となった義氏は小田原に移された。北条氏康は関宿城の簗田氏の勢力を弱め、古河公方家への介入を強めるため、永禄元(1558)年、足利義氏を関宿城に移座し、かわりに簗田晴助には古河城が与えられた。

永禄三(1560)年、長尾景虎(上杉謙信)が関東に出陣すると、簗田晴助は謙信に接近し、永禄四(1561)年、古河城に足利藤氏、上杉憲政、近衛前久らを迎え入れた。関宿城にいた義氏は危険を避けるため下総小金城上総佐貫城に避難した。しかし謙信が越後に帰陣すると永禄五(1562)年に再び北条氏が攻め、藤氏は伊豆に幽閉され後に殺害された。義氏は永禄十二(1569)年に古河城に帰座した。天正二(1574)年の第三次関宿合戦で簗田氏は関宿城を北条氏に明け渡し、古河城-栗橋城-関宿城は北条氏照の管轄下に入った。天正十(1582)年に足利義氏は死去し古河公方は断絶、古河城には北条氏照配下の大石直久、間宮綱信ら城番が置かれた。

天正十八(1590)年の小田原の役では芳賀正綱が在番していたが、五月に浅野長政、酒井家次らに攻められ開城した。八月には豊臣秀吉は増田長盛に古河城の破却を命じている。徳川家康が関東に入部してからは小笠原秀政の居城となった。慶長六(1601)年に秀政が信州飯田に転封、上州白井城より松平康長が古河城に入り、近世城郭として改修された。慶長十七(1612)年に康長は常陸笠間城に移り、小笠原信之が武蔵本庄から二万石で入城、三代続いた後に関宿城へ転封となり、奥平氏、永井氏を経て寛永十(1633)年、幕府大老の土井利勝が佐倉城から入城した。利勝は佐倉城の三階櫓を模した櫓を造営、また日光社参の街道・宿場・水運拠点として古河城と城下町を整備した。

その後も水運の要衝として幕府の重臣が城主に任ぜられ、宝暦十二(1762)年に再び土井氏が任ぜられ、廃藩置県を迎えて廃城となった。大正年間の渡良瀬川の大改修で本丸以下、主要部は渡良瀬川河川敷の下に消えた。

 

参考文献 「日本の城ポケット図鑑」(西ヶ谷恭弘/主婦の友社)、「古河市史研究 第十一号」(古河市史編さん委員会)、「古河公方展 古河足利氏五代の興亡」(古河歴史博物館)、「関宿城と戦国簗田氏」(千葉県立関宿城博物館)、「日本城郭大系」(新人物往来社)、「房総の古城址めぐり(下)」(府馬清/有峰書店新社)、古河歴史博物館配布資料、現地解説板

参考サイト

常陸国の城と歴史房総の城郭

 

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