古河公方足利氏の重臣、野田氏が配された栗橋城は、筆頭重臣である簗田氏の関宿城と並んで、古河城と古河公方を守る重要な前衛の砦でしたが、北関東進出を着々と進めつつあった北条氏に接収されたことから、北関東攻略、そしてそのための必須の要衝である関宿城攻略のための足場となってしまいました。城将に任じられたのは武蔵滝山城主の北条氏照。このひとはあちこち転戦していて「猛将」のイメージが強いのですが、優れた外交チャネルも持っていて、栗橋城においては古河公方・足利義氏(北条氏康の甥にあたる)の奏者としても活躍しています。関宿城をめぐる戦闘は天正二(1574)年の「第三次関宿合戦」で一段落し、その後は戦線は上野・下野方面に北上し、その戦略拠点も小山氏を追い出して接収した祗園城に移りますが、栗橋城も北条の支城ネットワークの中核城郭として天正十八(1590)年の「小田原の役」までその役割を果たします。のちに豊臣秀吉が古河城の破却を命じ、新しく古河城を再建した小笠原信濃守(秀政)が、竣工までの間、一時的にここに在城したこともあります。
ところで、江戸時代後期に出版された、赤松宗旦の「利根川図志」の中に「古河城舊(旧)址」という記事がありますが、これはまぎれもなく栗橋城のことを指していて、「古河城の旧址」という表現そのものは疑問ですが、なかなか興味深いことが書かれています。このお城は権現堂川の改修によって東西に分断されてしまっているのですが、そのことが「権現堂川を掘りしより城址も栗橋も二になれり」とあり、さらに「川をはさんで共に城山といふ」とあります。挿絵には「本城」(主郭)や「エノキクルワ」が権現堂川でスッパリと分断され、残った栗橋城の縄張りとともに、対岸に不毛の葦原らしきものが描かれ、「この邉すべて古城跡なり 字を大島といふ」とあり、江戸時代後期にはすでに権現堂川に分断され、その姿が失われつつあることが伺えます。その挿絵には、「七曲り」といわれる堀の様子や、城址中央付近に建つ「松本氏宅」などが描かれていて、松本勘兵衛氏の詠んだ句「わがいほはみやこの乾何もなし古城山とひとはいふなり」が紹介されています。現在でも栗橋城の中心部には松本さんのお宅があり、このお宅の数代前のご先祖だと思われます。ちなみに本来の古河城は「今の古河城」と表現されています。また余談ではありますが、足利成氏が御所を構えた鴻ノ巣の地(古河公方館)については「その名のみ傳ふ。畑にてその形も知れず」とあり、やはり古い城館が畑となったり、河川の下敷きになって消え行く姿が描かれていて、非常に興味を引きます。しかしこの赤松宗旦という人、ほんとによく調べてますよ。江戸時代の出版事情なんてたかが知れていて、資料をかき集めるのも一苦労だったろうに、どうやって膨大な資料を集めたものか、ほんとに感心させられます。
実際、現在の元栗橋の集落は江戸時代初期の「利根川東遷事業」の過程で、当初赤堀川(現在の利根川本流)開削事業に失敗してうまく通水しなかったため、利根川本流の濁流が権現堂川に押し寄せ、栗橋集落は常に大洪水に見舞われて、現在の栗橋(埼玉県)に移転せざるを得なかった、という経緯があります。ちなみに前述の「栗橋も二になれり」とはこのことを指していて、新しい栗橋集落は「今御関所ある栗橋」と表現しています。それはともかく、慌てた徳川幕府は急遽権現堂川の拡幅工事を命じていますので、このとき既に栗橋城は洪水にかなりの部分が押し流され、また権現堂川の緊急工事でかなりの部分が失われてしまったでしょう。復元縄張図などを見ると非常に複雑かつ高度なお城であり、残っていたらさぞかし見事だろうに、と思うのですが、現在は宅地の中に土塁や堀の痕跡が断片的に残る程度です。
なお見学当日は、降り出した雨のために至るところが泥田堀化してしまい、まともに歩くことが出来ずにごく一部分だけの見学となってしまいました。機会があったら出直してきます。