西上総の要衝として、古くから城が築かれていたようです。真里谷武田氏などの在地土豪と新興勢力の小田原北条氏、安房里見氏に小弓公方・足利義明の政治的思惑などが絡んで、非常に複雑な関東の動向の縮図のような場所だったようです。
特徴的なのは切り通しと削崖の多用。里見氏、正木氏などの影響下にある城郭(久留里城、万木城など)でよく見られる防御施設で、粘土質の斜面をほぼ垂直に切り落とした削崖はいかにも古臭い印象はありますが、防御としては以外に堅固。最高部からは約20mもの落差があり、落ちれば立派に大怪我をする高さです。切り通しは削崖とワンセットで、城道として利用されるとともに支峰の尾根を断ち切る堀切の役目も負っているようです。
城の正面の冠木門跡には近世の立派な石組みが残りますが、実は搦手側にも古風な石組みがあります。一説によれば真里谷武田氏築城当時のものだとか。
事前の下調べでは、どこもかしこも草ボウボウと思っていたら、意外と見学路は整備されていました。整備されている冠木門から本丸までの範囲は決して広くはなく、小ぶりな城かと思いきや、山麓や周囲の峰には外郭線とも言うべき堀、砦が取り巻いていて、千葉県下最大級といわれるのもうなづける規模です。ただ、付近の標柱を見ると、どうも搦手と東側の外郭砦の中間地点が建設中の館山道用地になっているらしく、遺構の破壊が心配されます。どうりで東砦付近だけ発掘作業をしているわけです。なんとかルート変更か、トンネル化などで遺構が守られないでしょうか?(以前の記述・もう手遅れでした。。。)
さて、佐貫城もいつかはもう一度行かないとな、なんて思いつつも、R127の佐貫交差点附近の渋滞がイヤで及び腰でしたが、「青岳尼物語」を執筆された御台殿のリクエストもあって、秋深まりし2003年11月24日、ミニオフを開催しました。正直なところ、「佐貫城ってオフ会やるようなお城じゃないよな〜」などと思っていましたが、以前より下草がきれいに刈られ、見ごたえのある遺構も次々に現れて、意外なほど満足できました。やっぱり里見氏の代表的な城郭ですからね。それなりに見ごたえはあるわけです。そんなわけで鳥瞰図と考察を付けてみました。
[2004.04.03]
【佐貫城の考察】
佐貫城の立地する丘陵はとくに眺望が優れているわけでも、要害性が高いというわけではないように見える。海岸線にも丘陵が連なっていながら、海に面して築かれた海城というわけでもなく、水運の要となりうるような河川にも面していない。一見、非常に不思議な立地である。佐貫郷そのものは江戸湾に面した湊として中世も重要視されただろうし、現にこの地方は里見・北条が激しく取りあいを演じた場所でもある。だからこそ城地選定の際には、もっと天嶮の要害や海・河川に面した戦略的要地を選びそうなものであるが、佐貫城は決してそういう地形の場所ではない。
この場所に築城した意図を探れば、佐貫浦から鹿野山方面への街道に面している、ということであろうか。また地形的にも南側には河川の蛇行痕が残っていることから湿地帯であったことが伺われ、北側もおそらく深田に守られていただろう点である。佐貫城は長尾氏の築城とも、上総武田氏によるものとも言われるが、こうした立地上の特徴を見る限り、武田氏によるものに見える。
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佐貫城鳥瞰図
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中世観測衛星「えちご」による佐貫城周辺の衛星写真(注1)。
※クリックすると拡大します。 |
佐貫城は近世中盤に一時廃城になったのちに再興されたため、現在残る遺構が必ずしも武田氏や里見氏の活躍した時代のものであるとは限らない。また、佐貫城には新旧交代説があり、もともとの佐貫城は岩富寺の境内附近(岩富城)だったという説もある。この場合、現在佐貫城として認識されている城は近世の内藤氏以降の所産であることになる。『富津市史』ではこの説を採っている。現に、千葉県で唯一の石垣門遺構とされる大手口の櫓台などは当然近世の所産である。しかし、近世中盤に阿部氏が佐貫城再興に際して幕府に提出した絵図(『天羽郡佐貫城古図』船橋市西図書館蔵)には、主郭周囲の空堀や切通しなどが歴然と描かれている。これは阿部氏の計画図ではなく、現状図なのである。したがって、阿部氏再興前の佐貫城はすでに現在残る遺構に近い状態だったと考える方が自然である。実際、丘陵の周囲の垂直切岸や岩盤を叩き割ったような堀切などを見る限り、里見氏や武田氏の城郭の特徴をよく表していると言える。基本的にはT、U曲輪を中心とした主要部は中世の産物で、近世に佐貫城を再興した阿部氏はV曲輪を中心に陣屋程度の規模の政庁を営んだだけではないかと思う。このV曲輪の南側は緩やかな段差があるだけで、全く要害性に乏しい。このV曲輪は中世には本城の一部ではなく、近世になって新たに取り立てられたもの、あるいはあくまで外曲輪の一角に過ぎない程度の位置づけではなかったかと思う。
中世における佐貫城は前述のT、U曲輪などのほかに広大な外郭・出城を備えた大城郭であった。外郭は必ずしも遺構が明瞭ではなく、また宅地化していたり、道路予定地として工事が進んでいたりでかなり変貌している。今回の鳥瞰図では、あくまでもT〜V曲輪を主体とした、主要部のみを採り上げた。
技法面の特徴としては、徹底的な垂直切岸の多用が挙げられる。とくにT曲輪(主郭)周囲(特に北側)は高さ10m以上にも及ぶ垂直切岸が取り巻いており、圧巻である。この垂直切岸は里見氏や正木氏、武田氏など、安房・上総の諸勢力が多用したものである。地質的な特徴(意外に加工しやすい)なども関係しているのだろうが、これほどの規模と完成度に昇華させた岩盤掘削技術力には感服するしかない。それに、原始的で地味な防御様式でありながら、正面からの取り付きを許さないという点では、なまじの土塁や石垣よりもはるかに堅固なのである。垂直切岸遺構を見たいのであれば、この佐貫城と、峰上城、久留里城などをぜひ見てほしい。
主郭であるT曲輪とU曲輪の間には延々と横堀3が横たわる。里見氏系の城郭ではあまり見られない構造である。削崖直下の横堀といえば武田氏に類例があるので、武田氏によるものかもしれない。あるいは、永禄初期から三船台合戦の前後までは北条氏の支配下に入っていた(一時古河公方・足利義氏の御座所にもなっている)ため、そのときのものかもしれない。季節にもよるのだろうが、土橋附近には水が溜まっており、畝堀のようにも見える。
今回の調査で見つけた遺構で興味深かったのは横堀2と水堀7である。横堀2は横堀3の西端が垂直削崖に落ち込むその直下にあり、V曲輪から直接T曲輪、U曲輪へ接続する部分を分断する。この横堀は岩盤をプール状に掘り込んだもので、あるいは水堀であったかもしれない。一部に岩盤を掘り残した畝のような構造も認められる(ただしこれは、V曲輪が農地転用された際に導水管を通したことによる改変であるかもしれない)。水堀7は外郭の一角にあり、山腹を大きく掘り込むように穿たれている。これも農業用池の可能性も無いではないが、岡本城、造海城などの類例もあることから、貯水施設を兼ねた水堀であると解釈したい。
外郭は延々と続く尾根を用いたものである。とてもすべて踏破はできそうもないが、ざっと見る限り要所要所を垂直に削崖している程度で、個々の尾根で籠城しようとする意図は認められない。尾根上の削平地や堀切などもほとんどなさそうである。むしろ、痩せ尾根を土塁に見立てて本城南側の谷戸状低地全体を守ろうとする意図があったと考えられる。尾根の先端などには小規模な砦が附属している場所も数箇所あるようだ。しかし、東側の砦や、南新宿の砦などは館山道の予定地となっており、すでに一部工事によって破壊されつつある。
なお、中世初期の佐貫城は前述のように、現在岩富寺がある山である、とも云われる。たしかに岩富寺にも切岸や堀切など、濃密な城郭遺構が点在している。しかし、それがイコール初期の佐貫城と言えるのかどうかは判断できない。「富津市史」では、中世段階における佐貫城は現在の岩富寺の地にあったといい、現在佐貫城と認識されている牛蒡ヶ谷の城郭は近世の所産であるという「佐貫城新旧交代説」を取っている。たしかに岩富寺には明瞭な城郭遺構があり、また峠道を押さえる城郭としてはいい立地にあることも事実ではある。しかし、この「岩富城」は立地から見ても規模から見ても、拠点的城郭になり得るものとは思われない。岩富寺附近が中世に「佐貫」と呼ばれていたかどうか、多少疑問に思わないでもない。まして、北条・里見で幾度となく争奪が繰り広げられたという、極度の緊張状態にあった城郭とは思えないのである。やはり、岩富城は城砦化した山岳寺院、あるいは佐貫城の外郭の砦の一部、と捉える方が自然である。
里見氏や北条氏が激しく争奪を繰り返したのは、この牛蒡谷の佐貫城の方であろう。遺構面でも、現在佐貫城と呼ばれている城郭には里見・武田氏系の特徴がよく顕れており、近世の所産ではないことは前述の通りである。
[2004.04.03]
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