上総奪い合いの緊迫地帯

佐貫城

さぬきじょう Sanuki-Jo

別名:亀ヶ城

千葉県富津市佐貫

城の種別

中世〜近世平山城

築城時期

応永年間?

築城者

真里谷武田氏(長尾氏説あり)

主要城主

真里谷武田氏、古河公方足利義氏、里見氏、加藤氏(里見城代)、内藤氏、阿部氏ほか

遺構

曲輪、土塁、堀切、切り通し、石積み、虎口、削崖

主郭直下の横堀<<2003年11月24日>>

歴史

築城は真里谷城を本拠とする真里谷武田氏の一族である武田義広ともいわれるが、それより以前の文安・宝徳年間ごろには関東管領上杉氏の家宰・長尾氏によって築かれていたとの見方もある。

天文六(1537)年、真里谷武田信隆は北条氏に応じて佐貫峰上から挙兵したが、これに反撃した小弓御所・足利義明、里見義堯による反撃で落城。しかし翌七(1538)年の第一次国府台合戦によって北条氏綱・氏康軍が勝利し、里見方は敗走、足利義明は討ち死にした。しかし天文十(1541)年ころまでには里見義堯が久留里城主となり、佐貫城も里見氏の配下となっていた。天文十三(1544)年、北条綱成が妙本寺付近に上陸し、佐貫城も攻撃を受け、里見義堯は久留里城に退いている。義堯の子・義弘は弘治(1556)ニ年には佐貫城を本拠としたが、永禄二(1559)年ごろには北条氏に奪われ、布施弾正が在城した。永禄四(1561)年、上杉謙信が古河公方に足利藤氏を擁立し古河城に入ると、北条氏が擁立する足利義氏は関宿城に立て籠もったが、七月に小金城に移座し、その後佐貫城に移座した。

永禄七(1564)年の第二次国府台合戦で勝った北条氏康が永禄十(1567)年、里見氏を滅ぼすべく佐貫城の北方4kmの三船台に布陣した。里見義弘は奇襲攻撃によりこれを撃退した(三船台合戦)。

義弘の没後は実子・梅王丸が継いだが、義頼との家督争いの内訌に際し、梅王丸後見役の加藤伊賀守信景が義頼に同心したため敗れ、佐貫城は開城し、天正八(1580)年、梅王丸は出家させられ、岡本城近くに幽閉された。以後、北条氏の配下から里見氏の家臣となった加藤氏が城代として天正十八(1590)年まで在城。北条氏滅亡後は里見氏は遅参を理由に秀吉により上総の領有権を奪われ安房に閉塞、佐貫城は関東に入封した家康譜代の内藤氏、松平氏などが在城し、大多喜久留里などのラインとともに里見氏を封じ込める役目を果たした。内藤家長は慶長五(1600)年の関ヶ原合戦の前哨戦である伏見城の合戦で鳥居元忠らとともに伏見城に籠城ののち、落城して戦死している。

その後一時廃城となるが、宝永7(1710)年、阿部正鎮が三河刈谷から入封して佐貫城を再興、以後は阿部氏歴代の居城となった。明治四(1871)年に廃藩置県によって廃城。

西上総の要衝として、古くから城が築かれていたようです。真里谷武田氏などの在地土豪と新興勢力の小田原北条氏、安房里見氏に小弓公方・足利義明の政治的思惑などが絡んで、非常に複雑な関東の動向の縮図のような場所だったようです。

特徴的なのは切り通しと削崖の多用。里見氏、正木氏などの影響下にある城郭(久留里城万木城など)でよく見られる防御施設で、粘土質の斜面をほぼ垂直に切り落とした削崖はいかにも古臭い印象はありますが、防御としては以外に堅固。最高部からは約20mもの落差があり、落ちれば立派に大怪我をする高さです。切り通しは削崖とワンセットで、城道として利用されるとともに支峰の尾根を断ち切る堀切の役目も負っているようです。

城の正面の冠木門跡には近世の立派な石組みが残りますが、実は搦手側にも古風な石組みがあります。一説によれば真里谷武田氏築城当時のものだとか。

事前の下調べでは、どこもかしこも草ボウボウと思っていたら、意外と見学路は整備されていました。整備されている冠木門から本丸までの範囲は決して広くはなく、小ぶりな城かと思いきや、山麓や周囲の峰には外郭線とも言うべき堀、砦が取り巻いていて、千葉県下最大級といわれるのもうなづける規模です。ただ、付近の標柱を見ると、どうも搦手と東側の外郭砦の中間地点が建設中の館山道用地になっているらしく、遺構の破壊が心配されます。どうりで東砦付近だけ発掘作業をしているわけです。なんとかルート変更か、トンネル化などで遺構が守られないでしょうか?(以前の記述・もう手遅れでした。。。)

さて、佐貫城もいつかはもう一度行かないとな、なんて思いつつも、R127の佐貫交差点附近の渋滞がイヤで及び腰でしたが、「青岳尼物語」を執筆された御台殿のリクエストもあって、秋深まりし2003年11月24日、ミニオフを開催しました。正直なところ、「佐貫城ってオフ会やるようなお城じゃないよな〜」などと思っていましたが、以前より下草がきれいに刈られ、見ごたえのある遺構も次々に現れて、意外なほど満足できました。やっぱり里見氏の代表的な城郭ですからね。それなりに見ごたえはあるわけです。そんなわけで鳥瞰図と考察を付けてみました。

[2004.04.03]

【佐貫城の考察】

佐貫城の立地する丘陵はとくに眺望が優れているわけでも、要害性が高いというわけではないように見える。海岸線にも丘陵が連なっていながら、海に面して築かれた海城というわけでもなく、水運の要となりうるような河川にも面していない。一見、非常に不思議な立地である。佐貫郷そのものは江戸湾に面した湊として中世も重要視されただろうし、現にこの地方は里見・北条が激しく取りあいを演じた場所でもある。だからこそ城地選定の際には、もっと天嶮の要害や海・河川に面した戦略的要地を選びそうなものであるが、佐貫城は決してそういう地形の場所ではない。
この場所に築城した意図を探れば、佐貫浦から鹿野山方面への街道に面している、ということであろうか。また地形的にも南側には河川の蛇行痕が残っていることから湿地帯であったことが伺われ、北側もおそらく深田に守られていただろう点である。佐貫城は長尾氏の築城とも、上総武田氏によるものとも言われるが、こうした立地上の特徴を見る限り、武田氏によるものに見える。

佐貫城鳥瞰図

※クリックすると拡大します。

中世観測衛星「えちご」による佐貫城周辺の衛星写真(注1)。

※クリックすると拡大します。

佐貫城は近世中盤に一時廃城になったのちに再興されたため、現在残る遺構が必ずしも武田氏や里見氏の活躍した時代のものであるとは限らない。また、佐貫城には新旧交代説があり、もともとの佐貫城は岩富寺の境内附近(岩富城)だったという説もある。この場合、現在佐貫城として認識されている城は近世の内藤氏以降の所産であることになる。『富津市史』ではこの説を採っている。現に、千葉県で唯一の石垣門遺構とされる大手口の櫓台などは当然近世の所産である。しかし、近世中盤に阿部氏が佐貫城再興に際して幕府に提出した絵図(『天羽郡佐貫城古図』船橋市西図書館蔵)には、主郭周囲の空堀や切通しなどが歴然と描かれている。これは阿部氏の計画図ではなく、現状図なのである。したがって、阿部氏再興前の佐貫城はすでに現在残る遺構に近い状態だったと考える方が自然である。実際、丘陵の周囲の垂直切岸や岩盤を叩き割ったような堀切などを見る限り、里見氏や武田氏の城郭の特徴をよく表していると言える。基本的にはT、U曲輪を中心とした主要部は中世の産物で、近世に佐貫城を再興した阿部氏はV曲輪を中心に陣屋程度の規模の政庁を営んだだけではないかと思う。このV曲輪の南側は緩やかな段差があるだけで、全く要害性に乏しい。このV曲輪は中世には本城の一部ではなく、近世になって新たに取り立てられたもの、あるいはあくまで外曲輪の一角に過ぎない程度の位置づけではなかったかと思う。

中世における佐貫城は前述のT、U曲輪などのほかに広大な外郭・出城を備えた大城郭であった。外郭は必ずしも遺構が明瞭ではなく、また宅地化していたり、道路予定地として工事が進んでいたりでかなり変貌している。今回の鳥瞰図では、あくまでもT〜V曲輪を主体とした、主要部のみを採り上げた。

技法面の特徴としては、徹底的な垂直切岸の多用が挙げられる。とくにT曲輪(主郭)周囲(特に北側)は高さ10m以上にも及ぶ垂直切岸が取り巻いており、圧巻である。この垂直切岸は里見氏や正木氏、武田氏など、安房・上総の諸勢力が多用したものである。地質的な特徴(意外に加工しやすい)なども関係しているのだろうが、これほどの規模と完成度に昇華させた岩盤掘削技術力には感服するしかない。それに、原始的で地味な防御様式でありながら、正面からの取り付きを許さないという点では、なまじの土塁や石垣よりもはるかに堅固なのである。垂直切岸遺構を見たいのであれば、この佐貫城と、峰上城久留里城などをぜひ見てほしい。

主郭であるT曲輪とU曲輪の間には延々と横堀3が横たわる。里見氏系の城郭ではあまり見られない構造である。削崖直下の横堀といえば武田氏に類例があるので、武田氏によるものかもしれない。あるいは、永禄初期から三船台合戦の前後までは北条氏の支配下に入っていた(一時古河公方・足利義氏の御座所にもなっている)ため、そのときのものかもしれない。季節にもよるのだろうが、土橋附近には水が溜まっており、畝堀のようにも見える。

今回の調査で見つけた遺構で興味深かったのは横堀2と水堀7である。横堀2は横堀3の西端が垂直削崖に落ち込むその直下にあり、V曲輪から直接T曲輪、U曲輪へ接続する部分を分断する。この横堀は岩盤をプール状に掘り込んだもので、あるいは水堀であったかもしれない。一部に岩盤を掘り残した畝のような構造も認められる(ただしこれは、V曲輪が農地転用された際に導水管を通したことによる改変であるかもしれない)。水堀7は外郭の一角にあり、山腹を大きく掘り込むように穿たれている。これも農業用池の可能性も無いではないが、岡本城造海城などの類例もあることから、貯水施設を兼ねた水堀であると解釈したい。

外郭は延々と続く尾根を用いたものである。とてもすべて踏破はできそうもないが、ざっと見る限り要所要所を垂直に削崖している程度で、個々の尾根で籠城しようとする意図は認められない。尾根上の削平地や堀切などもほとんどなさそうである。むしろ、痩せ尾根を土塁に見立てて本城南側の谷戸状低地全体を守ろうとする意図があったと考えられる。尾根の先端などには小規模な砦が附属している場所も数箇所あるようだ。しかし、東側の砦や、南新宿の砦などは館山道の予定地となっており、すでに一部工事によって破壊されつつある。

なお、中世初期の佐貫城は前述のように、現在岩富寺がある山である、とも云われる。たしかに岩富寺にも切岸や堀切など、濃密な城郭遺構が点在している。しかし、それがイコール初期の佐貫城と言えるのかどうかは判断できない。「富津市史」では、中世段階における佐貫城は現在の岩富寺の地にあったといい、現在佐貫城と認識されている牛蒡ヶ谷の城郭は近世の所産であるという「佐貫城新旧交代説」を取っている。たしかに岩富寺には明瞭な城郭遺構があり、また峠道を押さえる城郭としてはいい立地にあることも事実ではある。しかし、この「岩富城」は立地から見ても規模から見ても、拠点的城郭になり得るものとは思われない。岩富寺附近が中世に「佐貫」と呼ばれていたかどうか、多少疑問に思わないでもない。まして、北条・里見で幾度となく争奪が繰り広げられたという、極度の緊張状態にあった城郭とは思えないのである。やはり、岩富城は城砦化した山岳寺院、あるいは佐貫城の外郭の砦の一部、と捉える方が自然である。

里見氏や北条氏が激しく争奪を繰り返したのは、この牛蒡谷の佐貫城の方であろう。遺構面でも、現在佐貫城と呼ばれている城郭には里見・武田氏系の特徴がよく顕れており、近世の所産ではないことは前述の通りである。

[2004.04.03]

「黒部谷」方面から見た佐貫城。房総山地端のうねるような丘陵上にあり、ぱっと見た目はそれほど洋画一系であるようには思えません。 佐貫城の大手口にそそり立つ大手櫓門。佐貫城の第一の見所でもあります。
無論この大手櫓門は近世の所産ですが、千葉県内では唯一の石垣による虎口遺構なのだそうです。 近世城郭らしい、切石による丹念な積み方。
櫓門やらミニオフメンバーの入城をお迎えする。御台殿鷹取ご夫妻、箱根少将殿。御台殿の青岳尼物語取材旅行のお決まりメンバーでござる。それにしてもまさか佐貫城でオフやるとは思わなかった。。。 三ノ丸(V曲輪)は七段ほどの曲輪がありますが、農地転用もあったためどこまでが城郭遺構かは断定できません。以前は最下段以外はヤブでしたが、上の段まできれいに刈られていました。
V曲輪の塁壁。一応切岸になっているのだが、高さは3mくらいしかない。ちょっと心もとない気もします。 V曲輪西南端の櫓台。これも中世のものではなさそう。近世に隅櫓でもあったのかな。
V曲輪の段々の途中にある竹梯子。伐採した竹で作ったんでしょうが、案外中世城郭の構造物なんてこの程度だったんじゃないでしょうかね。 岩盤をプール状に掘り込んである堀2。形状から見て、水堀であった可能性も大(?)。
どうも堀2には、削り残しの岩盤を用いた畝があるようにも見える。ただ、導水管が作られていて、どこまでが城郭遺構かはっきりわかりません。 堀2からU曲輪への垂直削崖。ツルツルに磨き上げられた岩盤の垂直削崖は絶対登れない。上には、堀3の端が繋がっています。
曲輪Uへと向かう大手道の最初の関門、堀切1。里見氏系の城郭では、こうして堀切を切通し通路として用いているケースも大変に多いです。 曲輪Uへと向かう大手道の途上にも、段差や切通しの虎口のようなものがいくつか連続します。
U曲輪。以前はものずごい笹薮だったのだが、下草はきれいに刈られていました。きっと地元の人がやってくれたんでしょう。ありがとうござりまする。 主郭直下の堀3。雨水が溜まって水堀のようになっていました。このあたりの造形や、緑と土の色のコントラストは本当に美しいです。
主郭であるT曲輪虎口から見る堀3の土橋。ここも造形が美しい。主郭虎口は小規模な枡形と考えてもよさそうです。 主郭(T曲輪)は雑木林ですが、やはり下草は綺麗に刈られていました。この周囲は最高10mにもおよぶ垂直削崖で囲われています。あまり無理しないように・・・。
T曲輪から堀3に向かって構築された土塁。ここは堀に向かって断崖になっているので、ここに土塁を設ける意味合いがあまり無いような気がしますが。。。 T曲輪西端の仮称西物見からの風景。絶景、とまではいきませんが、富津岬や遠く三浦半島まで見えています。
こちらは仮称東物見から、現在国道127号が走る谷戸方面を見る。この方面の比高差は30mほどです。 切通し通路を兼ねた堀5。ここも岩盤を垂直に削り残した削崖が見事です。
搦手附近から見上げる主郭東物見附近の垂直削崖。この手法は鎌倉の都市防衛などにも用いられている古い手法ですが、ここまで徹底しているとなまじの石垣や土塁も敵わないほどの防御力を発揮します。 搦手附近にわずかに残る石積み。一説に、真里谷武田氏時代の遺構であるそうです。
「島屋敷」方面から「黒部谷」に抜ける尾根にある堀切6、もはや垂直を通り越してオーバーハングしています。ここは不明瞭ながらも二重堀切であるようです。 見つけたときちょっと驚いた水堀7。城郭遺構かどうかは慎重に判断しなければなりませんが、里見氏系城郭に類例がいくつかあることから、水堀と判断しました。
W曲輪、「産所谷」。御台殿はここを「青岳尼が出産した場所」に比定されていました(笑)。ところで、生まれたのは誰でしょう。義頼? 広大な外郭を象る痩せ尾根。何箇所か登ってみた限りだと、多少の削崖がある程度で、ほとんど天然の尾根をそのまま外郭として取り込んでいるような感じでした。
「北新宿」附近の仮称東砦。なにやら発掘をやっていますが(今はもう埋め戻されました)、なぜこんなところを発掘しているのかというと・・・。 !!、館山自動車道の予定地!!館山道は必要だと思うけど、ここを通すのはちょっとなあ・・・。
と思っていたら、もう工事が始まってました(TT) ここは外郭の砦である根木田入口山脇砦、もはやこの世には存在しなくなりました。。。。 外郭の湿地帯の名残と思われる「桜ヶ池」、ほんとはもっと大きな湿地だったんでしょうが、今は一部が小さな水たまりのようになって残っています。
消えかけた看板の建つ「水門」。ここは水の手とされますが、城外に水の手を設けても意味が無い。むしろ、桜ヶ池をはじめとした外郭の湿地帯の水位調整のものでしょう。 外郭部の旧河道、まるで水堀のようです。

 

交通アクセス

館山自動車道「君津」IC車20分。

JR内房線「佐貫町」駅から徒歩30分。

周辺地情報

国道127号の小野田トンネル真上が古佐貫城ともいわれる岩富寺(岩富城)です。富津市内ではこのほか、天神山城、造海城などが見ごたえあります。

関連サイト

 

 
参考文献

「すべてわかる戦国大名里見氏の歴史」 ( 川名 登/図書刊行会)

「富津市史」

「図説房総の城郭」(千葉城郭研究会/国書刊行会)

「さとみ物語」(館山市立博物館)

「日本城郭大系」(新人物往来社)

「房総の古城址めぐり(上)」(府馬清/有峰書店新社)

「新編房総戦国史」(千野原靖方/崙書房)

「国府台合戦を点検する」(千野原靖方/崙書房)

参考サイト

余湖くんのホームページ日本の城大全

 

埋もれた古城 表紙 上へ