遺構はわずか、でも貴重

小金城

こがねじょう Kogane-Jo

別名:大谷口城

千葉県松戸市大谷口

(大谷口歴史公園、大勝院周辺)

城の種別 平山城(丘城)

築城時期

享禄三(1530)年〜天文六(1537)年

築城者

高城胤吉

主要城主

高城氏、武田信吉

遺構

曲輪、土塁、障子堀、畝堀

大谷口歴史公園に残る畝堀<<2001年4月7日>>

歴史

小弓城の原氏の家老職であった高城胤吉が家臣の安蒜(阿彦)丹後入道浄意に縄張りを命じて享禄三(1530)年から工事に着手し、七年後の天文六(1537)年九月に根木内城から居を移して本拠とした。高城胤吉の妻は本佐倉城の千葉昌胤の妹で、小金城落成に当たっては昌胤も祝賀に来城している。高城氏はもともと千葉氏の重臣、小弓城原氏の重臣であったが、原氏とともに他国衆として北条氏直属の傘下に入り、小金城は北条氏の西下総の拠点となった。永禄三(1560)年に長尾景虎(上杉謙信)が関東に出陣し、足利藤氏を奉じて古河城に置いた際には、関宿城に在城していた古河公方・足利義氏はこの小金城に逃れ、後に佐貫城に移座した。この謙信の関東出陣の際には高城胤吉は謙信に服属したが、謙信が越後に帰陣すると再び北条氏についた。永禄七(1564)年の第二次国府台合戦では、高城氏は市河津付近で兵糧調達を行うため国府台城に在城していた里見義弘、太田三楽斎資正に対し、兵糧の市場価格を引き上げることで調達を妨害し、また高城治部少輔胤辰はじめ一族は北条氏康軍に加勢し軍功を挙げた。天正十二(1584)年から十三(1585)年にかけては、高城胤則は佐竹義重の南下から牛久城の岡見氏を援けるため、坂田城の井田胤徳らとともに牛久城在番を命じられている。

天正十八(1590)年の秀吉による小田原の役での北条討伐では、当主の胤則とその子源次郎は小田原城の湯本口を守備したが、叔父の胤政と胤知は戦死、小田原勢の劣勢が濃厚になると胤則は小金城在番の安蒜備前守や吉野縫殿助、平川若狭守らに密使を派遣して、豊臣方の浅野長政、木村常陸介らに対し開城させ、高城氏の身柄は蒲生氏郷預かりとなり、東葛地方の高城氏の支配は終わった。以降、一時期徳川家康の五男・信吉の居城となったが、信吉が本佐倉城を経て水戸城に移ると廃城となった。

その後の高城氏は江戸幕府旗本として存続し、天保十(1839)年四月、高城胤親は遠祖である源次郎胤則の供養のため大谷口に参詣、旧家臣の末裔・安蒜五右衛門らの案内で小金城跡を見学し、多くの旧臣の末裔の来訪を受けたという。

戦国期に下総西部を支配した高城氏の本拠で、起伏のある丘陵地に築いた南北600m、東西800mの大城郭だったそうですが、現在残るのは外曲輪の虎口であった金杉口、達磨口付近だけとなっています。この金杉口が現在、所有者の好意で市の歴史公園として公開されています。この歴史公園には、障子堀、畝堀など、非常に貴重な遺構が残ります。わずかな遺構ではありますが、北条系城郭の特徴を感じることが出来るでしょう。土地を寄贈してくれた所有者に拍手、です。

周囲は宅地開発によって殆どが団地、住宅地になっており、この歴史公園とその東側の達磨口以外は城址を感じさせるものはありません。しかし、周囲の起伏にとんだ地形は、難攻不落の攻めにくい城であったであろうことが想像できます。

しかし、千葉県−埼玉県の県境付近の渋滞はホントにひどいですね。松戸市なんて僕の住む市川市の隣なのに、二時間半以上かかってしまって、その殆どが三郷駅前付近の渋滞。その原因は右折信号の無い交差点と橋。橋は仕方ないとしても、右折信号はなんとかなりませんかね。千葉県は右折信号が少なすぎます。。。。

<<追補:2002年07月28日>>

高城氏全盛期の本拠、小金城をもう一度見に行きました。一回目に渋滞で痛い目にあったのは、通るルートを間違えただけみたいです。今回の目的は、全体的な地形を捉えることと、「主郭」にあたる「本城」およびそこに建つ石碑を探すことです。この主郭には現在は市営集合住宅が建ち並び、片隅に「小金大谷口城」の石碑がある、とのことで、これを探してひたすら歩きまわりました。しかし、歩けども歩けどもその場所はわからず、時間が勿体ない、と諦めて車に戻り、Uターンするために頭を突っ込んだ小路の角に石碑を発見しました。普通こういう石碑は公園の隅っことか、それとわかる場所に建てるもんだと思うのですが、この石碑はほんとに小路の隅っこ、ビルの片隅においてありまして、「これじゃわかんないワケだ」と妙に納得。で、その主郭付近は下調べどおり、市営住宅(というか公務員住宅)になっていて、「昔を偲ぶよすがも無い」とはこういうことを言うんだろうな、と思いました。一応、地図にマークしておきましたんでご参考に。位置的には新松戸駅から北側の急な坂道を登りきった交差点をちょっと西に向かったところです。付近の大勝院の敷地も当然ながら小金城の一部で、その北側が前回見学した大谷口歴史公園(金杉口)にあたります。ひとことで言ってしまうと「入り組んだ谷津と丘陵を巧みに利用した大城郭」という、何の変哲も無い言葉に集約されてしまいますが、とにかくデカイということはよくわかります。でかすぎて全体像が掴みづらいのも事実ですが。これで遺構が完全だったら言うことナシなんですが。。。
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往年の大城郭、小金城全図。でかすぎて全体像が掴みづらいかもしれません。現在残っているのは緑色で着色された達磨口、金杉口のわずかな部分のみ。あとはすべて宅地化されました。 達磨口。一回目の訪問時は中に入らなかったため気付きませんでしたが、中には写真の顕彰碑が建つ櫓台風の土塁と、左下写真の巨大土塁がありました。ここには回転式の木橋があったらしいですが、どこにどのように架かっていたのでしょうか?
達磨口の大土塁。あまりにでかすぎて土塁だとはなかなか気付きませんでした。 大谷口歴史公園入り口に当たる金杉口の枡形虎口。この上には模擬冠木門が架かっています。
金杉口の堀障子。復原されたものだそうです。 金杉口の曲輪は武者走り状の土塁(というより土居)が取り巻いています。ここは大きく見れば馬出しにあたる空間だったでしょう。

当城最大の見所、畝堀。粘土質の地質に畝堀は非常に有効らしい。北条氏の築城技術を採り入れたものでしょう。 歴史公園西の谷津にある駐車場付近(馬場付近)の空堀とおぼしき地形。とはいうものの確信は持てません。

大勝院周囲の「外馬場」付近のあやしい道。堀底道かもしれませんがこれも確信はなし。 さんざん探し回って諦めて帰ろうとした時に偶然見つけた「小金大谷口城址」の石碑。街角の小路にひっそりと。
石碑付近が本丸に当たる「本城」ですが、ご覧の通り造成されてしまいました。「昔を偲ぶよすがもない」とはこういうことを言うのでしょう。。。ちなみに場所はココです。 JR新松戸駅から北に向かう坂道がこの城の別名にもなっている「大谷口」、右手の丘が「馬場山」、左手が「外番場」「中城」「本城」にあたります。
都心に程近い西下総の城郭の例に漏れず、城址は宅地化されつくし、残る遺構も断片的で、往年の大城郭を想像するのはなかなか難しい。ただ、この台地周辺を歩いてみれば、その複雑な地形や城域の広さが実感できるでしょう。

 

交通アクセス

総武流山電鉄「小金城址」駅、JR常磐線「北小金」駅より徒歩10分。

常磐自動車道「三郷」IC車15分。

周辺地情報

高城氏のもともとの本拠、根木内城や国府台合戦の地、国府台城など。原氏、高城氏とゆかりの深い名刹「本土寺」もすぐ近く。ここは高城氏全盛期の一級史料の宝庫でもあります。

関連サイト

高城氏および千葉氏一族の動向については「千葉氏の一族」を参考にさせていただきました。

 
参考文献 「房総の古城址めぐり(下)」( 府馬清/有峰書店新社)、「新編房総戦国史」(千野原靖方/崙書房、「国府台合戦を点検する」(千野原靖方/崙書房)、「関宿城と戦国簗田氏」(千葉県立関宿城博物館)、「新編戦国房総の名族」(大衆文学研究会千葉支部/昭和図書出版 市川市図書館蔵)ほか

参考サイト

余湖くんのホームページ千葉氏の一族

 

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