里見氏VS北条氏、因縁の対決の舞台

国府台城

こうのだいじょう Kounodai-Jo

別名:市河城、鴻台城

千葉県市川市国府台

(里見公園)

城の種別

崖城 

築城時期

文明十(1478)年

築城者

太田道灌

主要城主

太田氏、里見氏

遺構

土塁、物見台

江戸川対岸から見る国府台城<<2002年09月08日>

歴史

文明十(1478)年、扇谷上杉家の家執・太田道灌が武蔵石浜城の千葉自胤を助け、境根原臼井城で長尾景春に呼応した千葉孝胤を攻めた際に着陣したのが始まりとされる。康正元(1455)年の千葉氏の内訌で、亥鼻城を追われ志摩城で自刃した千葉胤直の弟、胤賢の子、実胤・自胤兄弟が立て籠もり、康正二(1456)年に東常縁の援軍を得て戦った「市河合戦」での「市河城」をここに比定する考え方もある。

天文七(1538)年10月小弓城の小弓公方・足利義明は久留里城の里見義堯ら房総勢一万余騎を従え関宿城攻撃のために北上、国府台城に着陣したが、江戸城を進発した北条氏綱・氏康勢ら二万騎とこの地で対陣した。松渡の渡しで太日川(江戸川)を渡って進攻した北条軍に対し足利義明は突撃の末に戦死、里見軍をはじめとした房総勢は退却した(第一次国府台合戦)。

永禄六(1563)年閏十二月、上杉謙信は武田信玄の攻める上州倉賀野城救援のため越山し、厩橋城に着陣したが、冬季の越山のため兵糧調達に難渋し、岩槻城の太田資正、佐貫城の里見義弘らに兵糧調達を命じた。これに応じた里見・太田軍は市河津付近で調達活動を行ったが、その情報を入手した北条氏康・氏政は二万の軍勢で進撃、永禄七(1564)年正月、国府台城周辺で里見・太田軍八千と戦闘となった。北条軍は先鋒の遠山丹波守綱景、富永三郎左衛門尉康景らが渡河作戦で討ち死にしたが、里見・太田軍が序盤戦の勝ちに油断していたところ、東方の真間森付近に迂回した北条綱成らが急襲、里見・太田軍は壊滅的な損害を受けて退却した(第二次国府台合戦)。

天正十八(1590)年の北条討伐後、家康の江戸入封に従い、江戸俯瞰の地にあたる国府台城は廃城となった。

国府台城は江戸川東岸の段丘、崖の上に築かれています。ここから見下ろす江戸川は、なかなかの眺めでした。二回にわたる北条VS里見の因縁の対決、有名な「国府台合戦」の舞台でもありますが、この二回の国府台合戦はそれぞれかなり意味合いが異なります。

天文七(1538)年の「第一次国府台合戦」は、小弓公方・足利義明と古河公方・足利晴氏の権力争い、北条氏綱・氏康父子はいわば古河公方の「代理」であり、また小弓公方軍に従軍した里見義堯も小弓公方の陣触れに呼応はしたものの単に従軍しただけ、戦意は乏しかったようです。結局、この「第一次」では、北条軍の渡河を見逃してしまった小弓公方軍の策戦ミスにより、小弓公方・足利義明は単騎突入し討ち死にという、まるで葉武者のような最期を迎えます。御曹司義純、基頼も討ち死に、馬廻衆も多数失い、南関東に君臨した小弓公方勢力はあっけなく滅亡します。里見義堯は戦闘らしい戦闘を行うこともなく兵を引き上げ、小弓公方を「見殺し」にします。この合戦の結果、北条氏は下総西部を一気に傘下に収めることに成功、対する里見氏も小弓公方の旧臣を取り込んで一気に上総を手中に収めます。勝った北条氏はともかく、負けたはずの里見氏にとっても飛躍のキッカケになったんですね。

対して永禄七(1564)年の「第二次」は北条氏と、それに対する「房越同盟」が直接ぶつかり合う戦闘でした。里見義弘・太田資正らは、厩橋城に在陣する謙信のために兵糧調達を行っていたところを、北条氏に急襲される形となりました。北条氏康はあくまで上杉軍との直接対決を避け、同盟軍を叩くことで優位を保とうという策戦でしょう。里見・太田軍も主力とはいえない手薄な軍勢で北条氏の総攻撃をまともに受け止めねばならず、序盤こそ優位に立っていたものの、一瞬のスキを衝く北条の戦術で大敗北を喫します。この闘いにより、一時的ではあるものの里見氏は下総・上総の支配権をほとんど失い、佐貫城池和田城、本拠の久留里城まで北条に占拠されます。里見氏にとっては未曾有の危機に陥ることになりました。また、同盟軍の太田資正も、息子の氏資によって居城の岩槻城を追われる、物哀しい結末となりました。肝心の越後軍はなにをしていたかというと、倉賀野城の後詰やら、小田城の小田氏治の離反やらで撹乱されて、同盟軍の里見・太田軍の壊滅を救うことはできませんでした。やはり、ちょっと悔しいけれど、北条氏康の情報力と機動力、戦略眼と比べると、房越軍の腰の重さや戦略眼の欠如が悔やまれます。

この国府台城は明治以降、陸軍駐屯基地として使用され、また大戦中は高射砲陣地になったり、土塁に防空壕が掘られたりしたため、地形はかなり改変されています。今はすっかり市民公園(里見公園)になっていて、周辺も宅地や学校関係の施設が多く建設されたため城址としての遺構はごくわずかです。しかし注意してみれば、断片的な遺構や周囲の地形などから、おぼろげながら全体像が見えてきます。ぜひ里見公園の中だけでなく、周辺の散策をしてみることをお勧めしておきます。

なお、国府台城および国府台合戦については、「国府台合戦を点検する」(崙書房・千野原靖方著)に詳しく記述されています。いずれ、現地レポートをまとめてみようと考えています。

江戸川対岸より望む国府台城。直下を江戸川(当時の太日川、利根川)が洗う急崖の台地で、要害性のみならず、市河津周辺の水運を押さえる要所でもありました。 国府台城の直下の河畔。川面からの比高差は約20-25mです。ここは釣り客やボートで遊ぶ人々で賑わっています。

江戸期の名水にも選ばれたと言う羅漢の井。当然、籠城の際には水の手のひとつとなったでしょうが、目の前の川から汲み上げれば水はいくらでも確保できそうな気もします。 城址から江戸川、東京方面を望む。この先3kmには、北条氏綱・氏康が攻略した葛西城があり、北条氏と反北条勢力が対峙しました。「第二次」の直接のきっかけは北条氏の葛西城代、太田康資の離反だと言われます。

里見広次公廟(右)、里見諸将霊墓(中)、里見諸士群亡塚(左)。「第二次」では里見氏一門、正木氏ら重臣一族にも多くの討ち死にがありました。 「夜泣き石」。第二次国府台合戦で敗死した里見広次の娘がこの石に持たれて泣き続け、終に息絶えてから、夜な夜な泣き声が聞こえる、という落城秘話。むろん伝承であります。

公園内には二重土塁が残ります。いずれも後世の改変を受け、また公園化による整備で、逆に全体像はイマイチ掴みづらいです。 「物見の松」の土塁。木々に遮られ見晴らしはゼロです。このような土塁端の物見跡があちこちに見られます。

城内にある明戸古墳石棺。文明十一(1479)年、太田道灌がこの地に築城の際露出したと言われる。道灌はこれを何だと思ったでしょうね?この古墳も物見の櫓台の一つだったでしょう。 明戸古墳付近の土塁と堀。二重土塁によって形成された堀は若干の屈曲を伴っています。堀底は庭園の造成により改変されています。
公園から北に出て、栗山方面に向かう。この畑地あたりが最高点で、ここが主郭だったと比定する向きもあります。 里見公園の北東にある天満宮。文明十一(1479)年の太田道灌による勧進であるそうです。思わぬところで道灌の足跡に触れることができました。
安国山総寧寺。天正三(1575)年に北条氏政が関宿城下に勧進したものを、江戸期にこの国府台の地に移したもの。 栗山方面に向かう坂の脇、民家の敷地となっている場所が櫓台であったといいますが。。。。
国府台城の北東に深く入りこむ谷津。かつて家臣団の住居があったといわれていますが、いわゆる城下町のようなものがあったかどうかについては僕は疑問を持っています。 左の谷津から台上に上がる道。この写真から奥が虎口であったらしいです。
虎口付近の土塁の残欠。この坂の上は民家の敷地なので入りませんでしたが、屈曲のあるいかにも虎口らしい道でした。この付近は藪の中に谷津と低湿地が入り組んで、おぼろげながら当時の地勢を感じさせます。 谷津から南の総寧寺方面へ向かう。ここにも土塁の残欠が見られます。この道も堀の一部かもしれません。やはり入り組んだ地形の中に当時の面影を残す一角です。
里見公園南端、河畔に降りるこの道が堀切かどうかは断定できませんが、城域はおそらく現在の里見公園南側の複数の学校敷地方面まで続いていたと考えられます。 「第二次」で北条軍の先鋒が渡河した「からめきの瀬」(のちの「矢切の渡し」付近)からの遠景。里見勢が見下ろす中、敵前渡河を行った緊張の地。
なお、国府台合戦についてはよく知られる天文七(1538)年の「第一次国府台合戦」、永禄七(1564)年の「第二次国府台合戦」のほかに、永禄六(1563)年正月に武蔵松山城をめぐる攻防の一環として、戦闘があったらしいことが当時の感状などからわかっているそうです。遠山丹波守綱景、富永三郎左衛門尉康景が討ち死にした戦闘は、この永禄六年の合戦である可能性があります。いずれ、国府台合戦についてはまとめてみたいと思います。

 

 

交通アクセス

京葉道路「市川」IC車20分

京成線「国府台」駅、北総・公団線「矢切」駅徒歩10分

周辺地情報

国府台合戦で大きな役割を果たした高城氏の小金城、「第一次」の渡河ポイントを見下ろす松戸城、小弓公方軍の先鋒隊がいた相模台城など。

関連サイト

 

 

参考文献 「房総の古城址めぐり(下)」( 府馬清/有峰書店新社)、「新編房総戦国史」(千野原靖方/崙書房)、「国府台合戦を点検する」(千野原靖方/崙書房)、「日本城郭大系」(新人物往来社)、「関東三国志」(学研「戦国群像シリーズ」)、「真説戦国北条五代」(学研「戦国群像シリーズ」)、「戦国関東名将列伝」(島遼伍/随想舎)ほか

参考サイト

余湖くんのホームページ房総の城郭

埋もれた古城 表紙 上へ