足利政氏というひとは歴代古河公方のなかでも最も保守的な人物だったようです。祖父・足利持氏は「あわよくば将軍に」という野望を持ち、その野望が破れてからは徹底して幕府を無視し、終に「永享の乱」で自刃、その子成氏は「結城合戦」を生き残り、関東公方家を復活させながらも、管領上杉憲忠を「父のかたき」とばかり殺害、幕府軍に鎌倉を追われて古河に移座し、ここから関東を揺り動かした爆弾男でした。その子、政氏の時代になると、幕府から派遣された宿敵「堀越公方」足利政知はすでに亡く、その子茶々丸も北条早雲に討たれ、堀越公方家そのものが消滅していました。また、長禄年間から続いた「山内VS扇谷」の上杉同族対立も、永正二(1505)年の河越城包囲によって、扇谷上杉朝良は事実上、山内上杉氏に降伏していました。こうした中、政氏は山内上杉顕定の養子に実弟の顕実を送り込むことを画策するなど、上杉との融和を図ります。しかし、これがもとで実子・高基と争うハメになり、いったんは和睦するものの、とうとう古河城を追われて小山氏や岩槻太田氏を頼って流浪することになってしまいます。この高基との対立は、上杉氏の跡目相続だけでなく、「新たな脅威」となりつつあった北条氏への対応をめぐってのもので、この新興勢力を取り込んで勢力拡大を狙う高基の野心が政氏の路線とは相容れなかった、ということでしょう。古河公方家はその代替わりにあたって内紛が発生することが多く、高基もその子晴氏と争い、晴氏もまた簗田氏息女の正嫡・藤氏と北条氏の息女から生まれた義氏が、上杉、北条の力をそれぞれバックに争い・・・。
「アンタたち、一応は関東で一番エライ人たちなんだから、しっかりしてくれよ・・・。」
という気もします。この間隙を縫って勢力を伸ばしたのはおなじみ北条早雲。だらしない古河公方家、ケンカばかりの両上杉氏を尻目に、新井城に三浦道寸を滅ぼして相模一国を手中に。おっと、この状況はどこかの国の政権政党の勢力争いに似てるぞ(笑)。ただ、「早雲」に該当する人物が居ませんがね。。。
この政氏が隠居した館、見事な堀が残りますが、城館というよりも、これは最初からお寺だと思ったほうがいいでしょうね。政氏はここに隠居しに来たわけだから。一応高貴な身分だから、お寺を城館の構えにした、と思うほうがいいのでしょう。遺構は結構しっかりしていて、とくに山門脇や西側の墓地脇の堀はきれいに草刈もされていて、見事です。この堀は空堀に見えますが、実は水堀であったそうです。このあたりは利根川旧河道(古利根川)にも近いため、湧水点が高いのでしょう。北側にも堀があるのですが、こちらは深い山林になっていて、容易に入れません。というか、こちらは現在、野生の白鷺の一大営巣地になっていて、余湖さんは「不気味な鳥」と言ってましたが(笑)、綺麗な鳥なのでバードウォッチャーの方には喜ばれているみたいです。が、遺構は見えないし、フンだらけでとても入っていく気が起きませんでした。。。ウワサでは、鷺の死骸もいっぱい落ちてるそうな。。。。こっちはお城見学は遠慮しときましょう。。。
宅地や墓地になっている東側も道路などに堀の痕が明瞭で、堀は何箇所か折れを持っているようです。東南角は堀が墓地で行き止まりになりますが、ここは墓地になっている部分を迂回するように突出した堀があったらしく、櫓台があったと見ていいでしょう。
なお、甘棠院にお願いすれば、足利政氏のお墓を「拝観」できます。この「拝観」というのがポイントで、「見せてくれ」というと怒られるらしい(たかしPart3さん情報)。くれぐれも気をつけましょう。なんでも、昭和四十二(1967)年までは木造の足利政氏像もあり、境内の御霊屋に祀られていたそうなのですが、なんと不審火で焼失してしまったそうです。ゆ、許せん!そのため、お寺の側でも防犯には神経質になっているそうで、お墓も近づきすぎると防犯ベルが鳴るしかけになっているとのこと。こちらも十分気をつけましょう。なお甘棠院には、政氏着用の甲冑をはじめ、貴重な文化財が多く伝わるそうです。こちらは多分、見せてもらえないでしょう。ソレガシも「拝観させてくれ」とは言えませんでした(笑)。