関越国境を押さえる大要塞

坂戸城

                                                  

さかどじょう Sakado-Jo

別名:

【薬師尾根越しに見上げる坂戸城実城】

<<2001年09月23日>> 

所在地

新潟県南魚沼市坂戸

※登山口 薬師尾根入口

埋もれた古城マップ:新潟編

交通アクセス

関越自動車道「六日町」ICより車10分、JR上越線「六日町」駅より登山口まで徒歩30分で登山口。登山道入口より山頂まで約60-90分。

行き方・注意点 R291・六日町橋の東、鳥坂神社付近の薬師尾根コースが一般的。山麓および魚野川沿いにPあり。登山道は整備されハイカーが多いが登りは厳しい。木陰が無いため熱中症への万全の対策を要す。山麓には大規模な居館(御館、居間屋敷等)がある。

【基本情報】

築城年 天正六(1578)年 主要遺構 曲輪、土塁、堀切、畝状竪堀、石積み、居館遺構等
築城者 新田氏 標/比/歩 標高633m/比高460m/歩高460m
主要城主 新田氏、上田長尾氏、堀氏 現況 山林

【歴史】

築城時期には諸説あり定かではないが、南北朝期に越後を領国としていた新田氏の一族が築いたとされる。その後、上杉憲顕が越後守護となり、その家臣の長尾氏をこの坂戸城に配置し、上田庄一帯と関越国境を守らせた。戦国期には長尾房長、政景が勢威を張り、守護代長尾家、栖吉長尾家などの同族と反目した。

守護代長尾家は長尾為景の死後家督を嗣いだ晴景が病弱で、揚北衆をはじめとした国人領主は晴景に叛いた。栃尾城三条城などでこれを鎮圧、また黒田秀忠の謀叛を鎮圧した晴景の弟、景虎(のちの上杉謙信)が国人領主たちの信望を集め、守護代家は晴景派と景虎派に分かれて争った。上田長尾房長、政景は晴景に味方したが、天文十七(1548)年、守護・上杉定実の仲介で長尾景虎が兄・晴景から守護代の座を譲り受けることで混乱は収集した。しかし政景らは従わず、景虎方の諸将と小競り合いを繰り返したが、天文二十(1551)年八月、政景討伐のために景虎が出陣し坂戸城包囲を表明すると、房長・政景父子は降伏した。以後、政景は景虎の重臣として仕え、春日山城の留守を預かるなど、重要な役についたが、永禄七(1564)年、野尻池で宇佐美定満と舟遊び中に謎の死を遂げた。政景の死後は「上田衆」が持ち回りで在番した。

天正六(1578)年三月、上杉謙信(長尾景虎)の死によって「御館の乱」が勃発、長尾政景の子で謙信の養子となった景勝と、小田原城の北条氏康の子でやはり謙信の養子となった上杉三郎景虎をそれぞれ擁立する派に分かれ内乱となった。この乱では樋口与六(のちの直江兼続ら)上田衆は景勝の味方となったため、三郎景虎を支援する北条氏は滝山城の北条氏照を派遣、樺野沢城を占拠し坂戸城に来襲したが持ちこたえた。また乱を勝ち残った景勝は天正十(1582)年に越中方面で織田信長の軍勢と戦っており、その際に上州厩橋城から越後に乱入した滝川一益の軍勢とも交戦しているが陥ちなかった。慶長三(1598)年、上杉景勝は会津へ転封となり、坂戸城には堀直竒が入城した。直竒は坂戸城を山麓の居館部を中心に近世城郭へと改修したが、慶長十五(1510)年、直竒は信州飯山城へ転封となり廃城となった。

【雑感】

坂戸城の城主・上田長尾氏は上越国境である上田庄を支配し、守護代家の長尾氏、謙信の母の出身である栖吉長尾氏とは同族でありながらも常にライバル関係にありました。長尾政景は、守護代家の晴景の跡を継いだ景虎(のちの謙信)と対抗し不穏な動きを示しますが、謙信が姉、仙桃院を長尾政景に嫁がせていたこともあり、和睦します。以後は謙信股肱の臣のひとりと言われ、実際にこの国境に近い要地を任され、また謙信が川中島や関東への出陣の際には、留守番役として本城の春日山城を預かるなど、絶対的な信頼関係が伺えます。で、この政景の死に関して、「謙信謀殺説」が付きまとうわけですが、このあたりの真相ははっきり言ってわかりません。俗説では野尻池での舟遊びの最中、宇佐美駿河守定満がわが身もろとも池の底に引きずり込んだ、あるいは酔って泳いで溺死した、などと言われており、この背後には謙信が政景を警戒し、謙信の命で暗殺したのではないか、というのが多く語られている推測です。謙信は「義人」であるとは言われていますが、生き馬の目を抜く戦国期に生きた武将でもあるわけで、多少の権謀術数は使ったでしょう。しかし当時、どうしても政景を殺さなくてはいけなかった情勢ではなかったと思います。武田氏との長年にわたる対立も続いていますし、毎年のように関東や越中に出陣しているこの時期に、わざわざ家中に禍根を残すような暗殺劇が演じられたとは、少なくとも僕個人には思えません。言われるように宇佐美氏との舟遊びの最中、宇佐美氏によって「道連れ死」にされたというのは、お話としては面白いものの史実と違っているでしょう。もしある程度の真実があるとすれば、家臣間の勢力争いなどに巻き込まれ、謙信が云々とは違ったレベルで謀殺劇に巻き込まれた、ということはありえる話かな、と考えています。

ところでここは僕にとって「リベンジの城」でもあります。それは、僕が一度この城を攻めきれずにギブアップしてるからなのだ。その日、薬師尾根コースを上った僕は、前日の寝不足と30度を超える気温に、尾根筋の直射日光(日影がない!)の直撃を受け、六合目付近で脱水症状のため足元すら覚束なくなり、登る時間の倍くらい時間をかけて下山。夏の山を甘く見ていて敢え無く撃退されました。で、秋口にリベンジ。目出度く登頂成功、全山見学に成功しました。というか、普通のコンディションだったらリタイヤしませんね(←負け惜しみモード)。見学する人は「とにかく山道が険しい」ことは覚悟してください。飲み物とかは麓で買っていった方がいいです。また、トイレもありませんのでこれも麓で済ませましょう。山は険しいだけじゃなくて、非常に広大です。相当歩きますんでこれも覚悟。なお、「城坂コース(旧大手コース)」はところどころで藪化している上、狭く滑りやすい(しかも崖)なので、あんまりお奨めできません。やはり、少々キツいけど整備されている薬師尾根コースが無難でしょう。

山麓の遺構は主に堀直竒が入城してからのものが多く、対照的に山上の要害は南北朝期のような古い要害の形態を持っています。非常に規模の大きい山城で、新潟県内でも屈指の大城郭ではないかと思いますが、天嶮に頼る部分が大きい分、大規模な城郭遺構や技巧的な部分は少なく感じます。ただ、藪化しているものの一種の畝状阻塞があったらしいことや、堀直竒による改修では実はかなりの石垣が使われていた可能性があるなど、興味の尽きない城でもあります。そういえば実城と主水曲輪の間の堀切、道がひどくて見逃してしまいました。もう一回リベンジしに行こうかな。

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坂戸城概念図 

※クリックすると拡大します

六日町IC付近からの坂戸城遠景。いかにも城山になりそうな、堂々たる姿。実際登山はかなりの体力を使います。 城址入り口近くにある内堀跡。このあたりは魚野川の旧河道にあたり、水量の多い急流とそれを取り巻く湿地が天然の堀になっていました。

家臣団屋敷を通り抜けた一番奥が城主の平時の居館である「御館」。坂戸城跡の石碑が建つ。 御館の正面には高さ1.5mほどの石垣があります。ここは堀直竒時代の遺構です。近世に入ってからは高峻な要害はあまり用いられず、山麓居館を「館城」形式に改めてここを本拠にしていました。

御館は数段の広い平場からなっています。中央付近には仕切り土塁も見られます。 御館より60mほど急坂を登ったところにある中屋敷、「御居間(おんま)屋敷」。堀直竒入封後、山上の要害のかわりに本丸として用いられていたらしい。この中屋敷まででも一汗かきます。
御居間屋敷下にある板額岩。城資盛と板額御前が鎌倉幕府に抗戦したのは鳥坂城であると言われていますが、この坂戸城にも板額の伝説があるようです。 いったん麓近くの薬師堂まで戻ってから、薬師尾根の急坂を登る。景色は最高ですがご覧のとおりの急坂で、しかも日影が無いため相当に体力を消耗します。この登り口は薬師砦と言われています。

薬師尾根を登ること約50分。やっとたどり着いた標高633mの「実城」(本丸)。ここからは魚野川流域の平場や遠く関越国境の山々まで見渡せます。 実城には解説板、案内板があります。ここからは南北方向へ尾根が伸びています。400mを超える比高差の山城というのはそうそうなく、ここまでたどり着くのは容易ではありません。
実城付近から見た六日町の街並み。南北に流れる魚野川とその川に沿った陸路の重要な交通手段を城下に治めます。 関越国境の山々を見る。ここは三国峠からも程近く、国境を守る最大の砦でもあります。
山頂の一段高い櫓台上の土居には富士権現が祀られています。ここには何らかの望楼があったと思われています。 実城裏手には、東方向の山麓、岩崎集落方面へ向かう搦手道があります。現在通行可能かどうかは分かりません。
搦手虎口付近には崩れ果てた石垣が残ります。これも堀直竒が入封後のもので、実用性よりも「見せる」ための石垣だったと思います。 南方向の尾根筋には烽火台であった「中城」、詰の城であった「大城」があります。尾根筋には写真のような小規模な堀切が見られます。

中城へ向かう尾根から実城を見る。全山が要塞である坂戸城の中でも、やはり実城の要害ぶりは抜きん出ています。 尾根の途中にある「中城」。

尾根筋の南のはずれにある標高631mの「大城」。比較的大きな削平地があり、土塁や櫓台らしきものも見られます。ここには大きな石が沢山転がっていました。籠城戦で敵の頭上に落とすためのものでしょうか。ここは城氏時代の古城ともいわれますが真偽の程は不明。 一旦実城に戻り、大手コースを下山。実城の北の尾根続きにも沢山の小曲輪があります。写真は広瀬曲輪。右端に支城の六万騎城が見えています。

有事の際の城主上屋敷にあたる「桃の木平」。 桃の木平の少し下には水場があり、わずかですが湧き水が流れ出ていました。
北の尾根筋の標高514mの主水曲輪。複数の曲輪が段になっています。尾根上には堀切などもあるようですが、藪化していてよくわかりませんでした。 大手道の「一本松」付近から実城を見上げる。
一本松付近には「上杉景勝 直江兼続生誕の地」の石碑が建つ。別にこの石碑の場所で生まれたわけではない。 山麓の道宗塚。謙信の姉、仙桃院が嫁いだ長尾政景の墓です。政景の死には様々な説、憶測が語られています。近くには「お茶の清水」などもあります。
訪城記録

2004/05/01 (1)

2006/11/04 (2):ヤブレンジャー仙当城ツアー

2008/10/24(3)

参考サイト

 

参考文献

「図説中世の越後」(大家健/野島出版)

「日本城郭大系」(新人物往来社)

「上杉謙信大事典」(花ヶ前盛明/新人物往来社)

「上杉家御書集成U」(上越市史中世史部会)

「上杉家御年譜 第二巻」(米沢温故会」) 

推奨図書
 

 

関東戦国史と御館の乱 〜上杉景虎・敗北の歴史的意味とは?

(伊東潤、乃至 政彦)

上杉謙信の死後に勃発した景勝・景虎による内乱「御館の乱」を中心とした一冊。一般書としては最も読みやすく要点を押さえてある。

図説中世の越後―春日山城と上杉番城 (大家 健)

越後の代表的な中世城館を豊富な縄張り図で解説。通史や中世の地形を理解するにも役立つ。入手困難だが時折中古市場に出ているので見つけたら購入をオススメ。 

周辺地情報

六万騎城、下倉山城などの坂戸城支城群や、北条勢が布陣した樺野沢城、芝原峠越えを監視する荒戸城など。

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