謙信の死後、その跡目を巡って上杉景勝(上田長尾氏)と北条氏康の子、上杉三郎景虎が争い、越後を二分した「御館の乱」。この鮫ヶ尾城は、この乱の最終局面で三郎景虎が小田原への脱出に失敗し、自刃して果てた悲劇の地として有名です。絶世の美少年であったという三郎景虎、近年はこの内乱を題材とした女性向けノベルスの人気なども手伝って、若い女性を中心に、ある種の「聖地」になりつつあります。
この鮫ヶ尾城を守備していたのは堀江駿河守宗親でした。宗親がどういう人物なのかよくわかりませんが、おそらく上杉家(または長尾家)譜代の馬周り衆であったのではないかと思います。永禄年間の中期には信越国境の飯山城を守備しており、その後信濃一国はほぼ武田の手中に落ちるのですが、恐らくその頃に信越国境から春日山城へいたる最後の砦として鮫ヶ尾城ほかの大型城砦群が整備され、信頼できる側近として堀江宗親が城将に任じられた、そんなところではないかと思います。
この内乱についてはいずれ考察を行いたいところですが、少なくとも単に景勝と景虎というふたりの養子の相続争いというだけではなく、「上田長尾氏VS反上田長尾氏」という側面も色濃く持っており、この反上田長尾氏陣営の中核を担ったのは上田長尾氏と宿命のライバル関係にある古志長尾氏、および外交族を主体とした謙信の馬廻り衆だったともいえるのです。古志長尾氏は謙信にとって母方の一族であり、もともと府中長尾氏との関連も深いことから、古志&府中の長尾陣営とその側近(=謙信の馬周り衆)は自然と景虎を擁立する側に回ることになったのではないか、と考えられるのです。結局は序盤は四面楚歌であった上田長尾氏が勝ち残り、景虎はここ鮫ヶ尾城で自刃するのですが、この乱はその後も約1年続きます。これを見ても、単なる相続争いではないことは明白です。
それにしても哀れなり三郎景虎、相越和睦の「客人(人質)」として越後に来て、和睦破棄後も小田原へ帰ることはなく、あくまでも謙信の相続者たらんとしたにもかかわらず、この乱では武田勝頼に寝返られ、実家の北条氏もついに積極的に介入することも出来ず、じりじりと追い詰められます。三月十七日、御館が落城すると景虎は越後を脱出して小田原に逃走すべくこの鮫ヶ尾城に立ち寄るわけですが、そこで堀江宗親の寝返りに遭い、進退窮まってその短い生涯を異国の地で終えることになってしまいます。ちなみに後世に悪名を残してしまった宗親はどうなったのでしょう。「不忠者」として景勝に磔にされ・・・という南条範夫ばりの展開を予想してしまいますが・・・。
そういうわけでどうしても鮫ヶ尾城には感傷的な、ある種近づき難いイメージがつきまとってしまうのですが、中世城郭マニアの方はご安心を。ひとつのお城としても見所満載、非常に素晴らしい遺構に満足できるでしょう。驚くほど鋭い薬研の堀切、山腹をまっしぐらに駆け下りる竪堀の数々、主郭を中心とした求心的な縄張りなど、中世山城の魅力に満ち溢れています。ひとことでいうと異常なまでの「戦闘的」なトンガったお城、とでもいいますか、春日山城防衛のための最後の切り札とでもいうべき緊張感がヒシヒシと伝わってきます。むしろ遺構面では春日山城よりも見ごたえがあるかもしれません。城域もとても広く、今回はすべてを見切ることは叶いませんでしたが、ほぼ「全山要塞」といってもいいでしょう。防御遺構とともに見逃せないのが「米蔵」、ここでは今でも焼き米が出土するとのことで、今回のメンバーで地表面を丹念に掃ってみました。すると、ありました!三粒ほどの焼き米が!落城の悲劇を今に伝えるこの焼き米、これ自体が文化財なので決して持ち帰ってはいけません。これは地面を掘らなくとも、地表面を手で丹念に掃ってみれば見つかると思いますので、穴ボコは掘らないように。
今回は大人数で押し寄せたのですが、いつかまた少人数でそっと訪れてみたい、そんな雰囲気を持ったお城です。
【鮫ヶ尾城の構造】
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鮫ヶ尾城平面図(左)、鳥瞰図(右)
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鮫ヶ尾城の立地は、妙高高原の北東に連なる南葉連邦の一支峰、頚城平野に伸びた尾根のひとつに築かれている。標高は187m、麓との比高差は120mほどである。特別な要害地形ではないが、幅の狭い尾根を堀切・竪堀で執拗なまでに分断して、人工の要塞を作り上げている。位置的には春日山城と信越国境のちょうど中間に位置し、関川・北国街道沿いに侵攻しようとする武田軍を意識して、春日山城防衛のための最大級の要塞として取り立てられたものであろう。当時、宿敵武田氏は信濃一国をほぼ手中に収め、やもすると国境を越えて越後へと侵攻せんとしていた時期である。辛うじて飯山城をはじめとする信濃最北端の城砦群でこれを阻止する上杉勢にとって、国境からの約40kmは文字通り「最後の砦」である。ここを任された堀江宗親への、謙信の篤い信頼が感じられる。
鮫ヶ尾城の尾根は北東に向かって緩い傾斜を描きながら降りている。従って、その防衛には当然、尾根筋からの侵攻を想定した防御が施されている(堀1-9)。背後の尾根続きに対しても、厳重な防御ラインが設定されている(堀切10-17)。堀切の多くは長大な竪堀に変化して山腹をも完全に分断している。これらの竪堀は地山をさらに掘り込んで、表土の下の岩盤層にまで及んでいる(堀1、3、8など)。堀切1-3や12などは上から見るとU字型に湾曲している。越後の山城でときどき見られる手法である。
また、南西側には横堀(堀17)も配置している。周囲の支尾根は時間の関係ですべて見切ることはできなかったが、あまり目だった尾根が派生しておらず、主尾根主体の施工がなされているようである。
尾根上に築かれた曲輪は概して狭く、主郭にあたるT曲輪も30m×20mほどしかない。主要な居住施設はむしろU、Vなどに置かれていただろう。また、尾根上だけでなく支尾根や、尾根にはさまれた谷戸部にも多くの曲輪を配置して防御性を高めるとともに、まとまった数の兵力を駐屯できるように考慮されている。
大手道は乙吉集落から尾根上に至る距離の長いルートである。根古屋は少し離れた乙吉集落の中心部であり、勝福寺(三郎景虎の供養塔や像がある)附近一帯が「立の内(館の内)と呼ばれ、城主の館に比定される。この附近には明瞭な遺構はないが、集落内の複雑な道路や水路に当時の町割りの名残を残しているようにも見える。
鮫ヶ尾城は現在、館の内地区を含めて国指定史跡を目指して調査が進んでいる。今後の進展が楽しみな城のひとつである。
[2004.07.10]
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在りし日の鮫ヶ尾城復元想像図
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